1:天使の女の子①
けたたましい音の目覚まし時計を止めた賀茂紗依李は大きく伸びをした。シンッと静まり返った家の中にいるためか、外の鳥のさえずりがやけに大きく聞こえる。紗依李はのろのろとした動作で体を起こした。冬の朝はできる限り長く布団の中にいたい。そう思うのは紗依李だけではないだろう。だが、学生という身分がそれを許してくれない。
「あーーー、学校行きたくない!?」
「その心は?」
「寒い」
紗依李は間髪いれずに答える。それに窓の外の人物はげらげらと笑い声を上げた。幼馴染の笹原源。彼の声が、紗依李が聞く1日の始まりの声となったのはもう、随分と昔の事だ。
「・・・・ところで、源?入るならとっとと入ってよ。寒くてたまらない」
「はいはい。了解しました」
クスクスと笑いながら窓枠に足をかけた源はヒラリッと紗依李の部屋の中に入り込んできた。
「源。今日は食事当番源でしょう?着替えてから行くから用意しておいて」
「了解」
ニヤリと笑った源が部屋の外に出て行くのを見送った紗依李は、ボロボロの制服に手をかけた。泥と、血でボロボロとなった制服は、学校に入学して半年と少しという紗依李には些か似合わない。それでも、紗依李はそれに腕を通した。どうせ買い換えても意味は無いし、それを買うだけのお金をあの人たちが紗依李に与えてくれるとは思えない。食費を減らしてまでまた、すぐに汚くなる制服を買う気にもなれない。
「・・・・私は大丈夫」
鏡に映った自分に目をやりながら、紗依李は小声で、何度も唱えた。言葉は魂が宿る。言霊の力がどれほどのものなのかは知らないが、それでも、紗依李が今、強く立っているためにはそれにすがらなければならない。そうしなければ、すぐにでもボロボロと涙をこぼし、学校へ行きたくないと駄々をこねてしまいそうだ。過保護な源にそれを知られれば、彼がどれだけ傷つくのか、想像に難くない。
「紗依李~~~。用意できたぞ~~」
「今行く!?」
階下の源に呼びかけた紗依李は、最後に一度小声で呟いてから、小走りで部屋を後にした。
学校が近づくにつれ、紗依李と源の足は次第に遅くなっていった。同時に紗依李の表情から笑顔が消えていく。
「紗依李?大丈夫か?」
「平気・・・でも、やっぱ、あの色は気分が悪い」
紗依李は空中に漂う不思議な色を空ろな瞳で見つめた。紗依李は物心つく前から人には見えない不思議なものが見えていた。それが、何なのか幼い紗依李は自ずと理解していた。だが、紗依李がここ2,3ヶ月ほどこの青葉学園で見るようになった黒い靄は過去見たどれとも遠くかけ離れていた。初めは薄い灰色だったのが、だんだん黒くなっていって、今では真っ黒だ。その中にぽつぽつ綺麗な色を持つ人間もいたが、それも今はほとんどがなりを潜めている。
源が心配そうに見ているのを感じ、紗依李は深呼吸をしてから源に笑顔を向けた。
「大丈夫だよ。大分慣れたし。源も、学校に着いたら自分の心配した方がいいよ。・・・あまり怪我しないでね。源に何かあったら、私は本当に一人なんだから。それだけは嫌」
「解っているよ」
柔らかな笑みを顔に浮かべた源に紗依李はどこか悲しげな笑みを浮かべた。そして、敵地におもむくような表情で、お互いの教室へと足を向ける。何も変わらない一日、何も変わらない苦痛の日々。それは卒業するまで続くと思っていた。その認識が崩れるのはそれからわずか30分後のことである。
2人にとって運命の出会いが今、訪れようとしていた。・・・そう、全てをかけた運命の時が。
源は教室に入ると、半分ゴミ箱となっている机の掃除に取り掛かった。それが、毎朝の彼の日課だ。
その様子をクラスメイトたちがクスクスと笑いながら眺めている。耳障りのその音も慣れてしまえば何とか耐えることが出来る。
机が片付くのと担任の野々宮杏里が教室に入ってくるのはほぼ同時だった。また普段と変わらない1日が始まるはずだったのに、その日は朝から様子が違った。
杏里の後に見慣れない少女が入ってきた。青葉学園の制服に身を包んでいる。綺麗で真新しい制服は源や紗依李の物とは似ても似つかない。彼女が誰なのか、気にしているのは源ただ1人らしい。杏里は横に立っている彼女に目もくれずにホームルームをはじめようとしたが、不意に視線を少女に向けた。
「あなた、いつまでそこに突っ立っているつもり?早く席に着きなさい」
恐らく転入生であろう彼女の紹介をするつもりは杏里には無いらしい。教師としての職務怠慢もいいところだが、それを間違っていると思っているのも源だけなのだろう。誰も気にしていない。
源が入学したばかりはクラスも、学校も、教師もこうではなかった。友達もいて、楽しかったし、杏里は厳しい教師ではあったが、それはむかつくという風ではなく、教師の鏡といった感じだった。厳しいのに嫌われないそんな良い先生だったのだ。それが、何故こうなってしまったのか・・・。
「ここ、いい?」
源の前後左右の四方は開いている。わざわざ源から距離を置くために開けているのだ。そこに彼女は何の疑問も持たずに腰を下ろした。
彼女の髪の毛が大きく揺れ、源は目を細めた。彼女の髪の毛は淡い銀色をしている。自然に出る色だとは思えない。今の彼らであればそれをこれ幸いと責める材料としそうだが、源以外にその髪の毛の色に気がついている人間さえいなさそうだ。それが源にはひどく不思議だった。
「・・・・転入生だよな」
「そう。自己紹介できなかったけど、愛染澄。よろしく」
「笹原源。よろしくな。・・・ここはこういうところだから、まともな扱いは諦めた方が・・・・」
カツンという音と共に源の机でチョークがはじけた。杏里が物凄い形相で睨みつけてきていた。
「授業を受ける気が無いのなら、出て行きなさい」
「・・・どうもすみません」
澄はすぐに返事をしたが、その声が硬くなっていたような気がした。源に向けたのとは異なる、鋭い視線を杏里に向ける。
全てを拒絶し、どこかうんざりしているようなその表情は以前よく見ていた。昔、遠くから見ていただけだったあの頃の紗依李と今の澄が源の中で重なった。だからなのかもしれない。源は無意識に口を開いた。
「愛染、俺の従妹に会ってくれない?」
「え?」
突然の言に驚いたように目をしばたたいた澄は、一瞬杏里の方に視線を移し、彼女がこちらを見ていないのを確認してから小さく頷いた。
「わかった。・・・・明日、放課後に教室に連れて行く」
一方的に取り付けられたその日時を澄はすぐに受け入れた。紗依李が会うというか解らないが、それでも、彼女なら、凍りついている紗依李の心を溶かしてくれるかもしれない。そんな気がした。
ガッ
鋭い痛みが後頭部に走った。目の前で澄が目を丸く見開いて源の背後を眺めている。
源はあまりの痛みに軽く呻いた。今までのチョークなどでは無い。厚い辞書が源に向かって投げられた。普通なら体罰で訴えられるべき事なのに、投げた張本人である杏里もクラスメイトも誰一人気にしてはいない。
「笹原君。大丈夫?保健室行ったほうが・・・・」
「あなたたちは、授業を聞く気が無いわけ?」
冷たい声が澄の言葉を遮る。澄は軽く溜息を吐き、彼女に目を向けた。その表情からは彼女が何を考えているのかうかがい知る事が出来ない。
「笹原君が怪我をしたので保健室に連れて行きたいのですが」
「駄目よ。授業が終わってからにしなさい。・・・自業自得でしょう?」
それでも何かを言い募ろうとする澄の腕を源がつかんでとめた。
「俺は大丈夫だから」
源を暫く眺めていた澄は漸く、頷いて席に腰を下ろした。
流れる血をぬぐった源は、ほっと安堵の溜息をついた。




