12:神の領域①
「ん・・・」
ふらふらとする頭を振りつつ起き上がった紗依李は部屋のベッドで寝ていた。ここまで来た記憶が無い。何とか思い出そうと寝ぼけた頭を何回も振る。徐々に記憶が蘇ってきた。
「ルナ!?」
部屋に響く大きな声で呼ぶと、白い猫が部屋の入り口から入ってきて紗依李のすぐ隣に腰を下ろした。毛づくろいをしている様は猫そのものだが、この猫が昨日言葉を発したのは夢ではないはずだ。
「あなた、何なの?」
紗依李の目が据わり、いらだたしげに舌打ちをした。その様にルナが小首をかしげる。
「ねぇ、教えてよ。あなたは・・・私達の敵なの?」
その問にも猫が声を発する事は無かった。
「お願い・・・教えてよ・・・」
紗依李が懇願するようにルナにすがった。目には涙さえ浮かんでいる。そのいつに無く弱々しい紗依李の様子にルナが驚いたように目を見開いた。紗依李がこんなに弱い様子を見せた事はいまだかつて無いことだ。
「ねえ・・・私は・・・・本当に人間?」
今にも泣きそうな弱々しい声にルナの眉が跳ね上がる。・・・とその時、窓の外から紗依李を呼ぶ声が聞こえた。
「紗依李!?起きてるか?」
源の声に紗依李の肩がビクリと震えた。顔には恐怖が張り付いている。ルナは、まじまじと紗依李の顔を覗き込んだ。紗依李が源を恐れるなど絶対にあるはずが無い・・・にもかかわらず、紗依李の目には深い恐怖が浮かんでいて、彼女は確実に源を恐れている。
「紗依李。あなた・・・どうしたの?」
ルナの口から人の言葉が漏れる。さっきまで聞きたかった声が聞こえたのに、今は紗依李の耳にはその声は届いていない様だ。
「紗依・・・・」
「よぉ、まだ寝てるのか?」
ルナが口を開くよりも早く、窓が開いて源が部屋の中に入ってきた。
一度震えた紗依李はキツクルナを抱きしめると、小さく深呼吸をしてから、源のほうへ目を向けた。
「お早う、源。ごめん、今用意するね」
そう言った紗依李はいつもと変わりないように見え、ルナはよけいに訝しく思った。
「紗依李、笠原君。おは・・・・」
目の前を歩く紗依李と源に声をかけた澄はその場に凍りついた。紗依李に違和感がある。はっきりとしたものではなく、でも、何かいつもと違うような気がする。
澄の目の端で、黒猫と白猫が並んで道の端へと消えていくのが映ったが、今の澄の関心はそちらには無い。
「澄。お早う。どうかした?」
ふりむいた紗依李はまん丸に目を見開いて紗依李の顔を凝視している澄をキョトンと眺めた。その様子も、態度も何もいつもと変わらない。だが、たった一つ、瞳の中にある輝きがいつもと違う気がした。そして、紗依李を取り巻く清浄な空気が跡形もなく消えている。闇が見えるわけでは無いが、それでも、今の紗依李は異常だ。
「紗依李。ちょっといい?・・・・笠原君、悪いんだけど、先行ってて」
有無を言わせぬ強い口調で言うと、一瞬反論のようなものを顔に浮かべたが、それでも小さく頷いて先に学校へ向かった。
「澄?どうかしたの?」
「何か、あった?」
目立たぬようにゆっくりと歩きながら端的に訊ねると紗依李は弱々しく笑った。それは、“普通”とはかけ離れていて、さっきまで相当無理をしていた事が窺える。
「何で・・・・わかったの?源も気づかなかったのに・・・」
「いつもと雰囲気が違う、普通の人には分からないと思うけど・・・。それで?」
「わからない」
眉を顰め、もう一度問いただそうとした澄は、紗依李の表情を見て押し黙った。本当に紗依李はわからないのだ。正確に言うとどう説明しすればいいのか分からないという感じだろう。
「・・・・わからないの。ただ、すごく怖い」
「え?」
「源が・・・怖いの。こんな事初めて」
ありえない言葉に澄は目をまん丸に見開いて紗依李を見た。澄の目から見ても2人の間には強い絆があって、信頼があって。その間に他人が入る余地さえも無いように見えていた。それなのに、源が怖い・・・と。理由もなくただ、おびえている紗依李に言うべき言葉を澄は持たなかった。
「あら、こんな所で何をしているの?サボり?」
1時間目の授業をサボって屋上に座っていた紗依李はころころと笑うように響く声音に、瞑っていた目を開いた。目の前にほのかな笑みを浮かべて香織が立っている。驚いたように目を見張った紗依李は、違和感に気がついた。
香織の周りにある黒い空気はいつもの通り、何も変わらない。おかしいのは紗依李の方だ。いつもならその空気に充てられて体調を崩すのに、今の紗依李は彼女の空気が嫌なものだとは思わなかった。どちらかと言えば心地よいとさえ思う。そんな自分にぞっとした。
「いつもと雰囲気が違う、普通の人には分からないと思うけど・・・」
澄が朝言っていた言葉が耳に蘇った。普通の人には分からない変化を澄だけが感じ取る。紗依李の周りにもあの黒いものがあるのかも知れない。そう思うとよけいにぞっとした。
「・・・・水原・・・香織先輩・・・」
紗依李の声はかすれていた。それが恐怖からなのか、もっと別の感情からなのか推し量る事が出来ない。
「ねぇ、あなた、笠原源が怖い?」
目を見開く紗依李を見た香織が顔に笑みを浮かべる。壮絶で、ある意味美しく、そして恐ろしい笑みだった。
「・・・・な・・・・に・・・・」
「あなたが、何であの幼馴染君を怖がるか教えてあげましょうか?」
「何を・・・・!?何であなたがそんなこと・・・」
「あなたの失われた過去を思い出させてあげるわ」
ニッコリと笑った香織は紗依李の頬に手を当てた。その手があまりに冷たくて、体中に電撃が走ったみたいに動く事が出来なくなった。
「“思い出して”」
それは日本語のはずなのに、紗依李の耳に不思議な響を持って響いた。体中を駆け抜けた息も出来ぬほどの痛みに紗依李の顔が驚愕と苦痛に歪む。
まるでテープを巻き戻しているような感じに記憶の中に色々なものが浮かんでは消えた。紗依李の目から色が消える。
“楽になりたいでしょう?”
まるで耳に直接響くような囁き声に頷いてしまいたい。誰よりも信じていた。でも・・・その真実は全てが嘘だったのだ。もう、誰も信じられない。
「あ・・・」
死んだような空ろな瞳で香織を見つめ、何かを言おうとした紗依李は、不意に意識が何かに引っ張られるような感覚がした。抵抗する事もできず、何か、不思議な力に引きずられるようにして、紗依李は意識を失った。
何も言わずにぐったりと倒れた紗依李を香織は驚いた面持ちで見つめた。あと少しで彼女がこちら側に落ちたのに、何か別のものに邪魔をされた。
「な・・・!?」
バッと紗依李の背後に目をやった香織は苦々しい面持ちで、でも逃げるかのようにその場を去っていく。
紗依李の背後に澄が、佇んでいた。厳しい表情で香織の去った先を見つめ、溜息をつく。
「間一髪・・・か。」
耳を打つ言葉に黒猫と白猫を睨みつける。
「・・・・もしこの子が落ちていたら・・・この子を狩らなければならなかったわ。・・・・後は向こうへついてから、かしら」
「大丈夫なわけ?とっさに引っ張ってしまったけど、あそこはヒトが長時間居られる場所では無い」
「紗依李なら大丈夫だ。」
言い切る黒猫に澄は小さく頷いた。何を考えているのか分からないやつだが、それでも、オーディはそんなくだらない嘘だけはつかない。今の奴の言葉は信じられる。




