一日目 美音子の悩み
……はぁ、疲れた。
美音子は、胸の奥から重たい息を吐き出した。
二班との交渉は、正直、想像していた以上に骨が折れた。
というのも、近藤さんをはじめとする女子三人は、揃いも揃ってサブカル好き――要するに、筋金入りのオタクだったのだ。
そして浅野くんたち男子二人も同類で、結果として「オタクが集結した班」が二班、という構図になっていた。
話を聞くうちに分かったことだが、秋葉原という場所は、彼、彼女たちにとって特別な意味を持つ“聖地”らしい。
そのため、班別研修で秋葉原に行くこと自体は、かなり早い段階で決まっていたのだという。
だが、直前になって、近藤さんたち女子が「池袋――乙女ロードに行きたい」と言い出した。
一方、男子は「秋葉原のメイド街に行きたい」と譲らない。
結果、話はこじれにこじれ、美音子たちが合流した時点でも、感情的な言い合いが続いていて、まったく収拾がついていなかった。
結局、美音子が間に入り、全員の話を順番に聞き、利害を整理し、現実的な移動時間と条件を突き合わせて――
取り合えず秋葉原まで一緒に行動する。
そこで、一度班を再編成し、男子は「男子だけで行きたい場所」へ移動。
その後、時間が来たら、裕也とエイジは、そのまま駅前に残り、二班の男子は神保町へ移動。
女子は、上野公園と動物園を見学したあと、美音子たちは秋葉原へ戻り、二班の女子は池袋へと向かう。その後、時間を合わせて、神保町で男子と合流し、出版社見学へ……という形で、なんとか話をまとめた。
正確に言えば、「まとめた」というより、「まとめてしまった」のだが。
(……九十九くんたちは、早々に逃げ出したし)
美音子は内心でそう付け加えながら、忘れないから、と小さく恨み言を並べる。
とにかく今は、早くベッドに倒れ込みたかった。
そう思いながら、部屋の前に立ち、ドアノブを回す。
ガチャ。
「……え?」
もう一度。
ガチャ、ガチャ。
鍵がかかっている。
ノックしても、呼び鈴を押しても反応はない。
(……寝てる、わね)
おそらく、翠とまどかは、すでにぐっすり夢の中なのだろう。
「……マジ? あのおバカ……」
呆れと疲労が入り混じった呟きが、自然とこぼれる。
(……こういう時、どうするんだっけ)
頭が回らない。
疲れ切っている自覚はあったが、思考がここまで鈍っているとは思わなかった。
確か、こういう時は――
「あれ?美音子ちゃん?」
背後から声をかけられ、美音子はびくりと肩を震わせる。
「ライトさん……」
振り返ると、そこにいたのはライトだった。
「どうしたの? ……ひょっとして、締め出された?」
「……どうやら、そのようです」
「オートロックだから、よくあるんだよ。先生には連絡した?」
「あ……そうか、先生に……」
どうしてそんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
やはり、自分が思っている以上に疲れているらしい。
「……清文には連絡しておいたよ。来るまで、こっちの部屋で休んでるといい。立ってるのも辛いだろ?」
「あ……はい……えっと、それって……いいんですか?」
「構わないよ。俺の部屋だし」
「……えっ」
「はいはい、大声出さない」
そう言って、ライトは何でもないことのようにドアを開け、招き入れてくれる。
――男性の部屋。
思いがけない状況に、胸が小さく跳ねる。
同時に、「そういう対象としては見られていないんだろうな」と、どこか冷静に理解してしまう自分もいて、美音子は胸の奥が少しだけ、ちくりとした。
「なにか飲む? ……と言っても、お茶か水しかないけど」
「あ、私が淹れます」
手持ち無沙汰だった美音子は、反射的にそう言って、ポットを受け取る。
「じゃあ、頼むよ」
ライトはそう言って机に向かい、ノートパソコンを開き、カメラを取り出して作業を始めた。
湧いたお湯を茶葉に注ぎ、少し蒸らしてからカップに注ぐ。
その一連の動作が、妙に心を落ち着かせた。
落ち着くと、急にライトの事が気になってくる。
「……何してるんですか?」
「データのコピーと、カメラのメンテ。まあ、レンズを拭いて、バッテリーを充電するだけだけどね」
「……そんな簡単でいいんですか?」
「いいんだよ。今日はちゃんと動いてた。だったら、余計なことをして調子を崩すより、現状を維持したほうがいい」
その言葉が、不意に胸に刺さった。
まるで、自分の将来について言われているような気がして。
気づけば、美音子は口を開いていた。
「……ライトさんは。私が高校に行かず、モデルを続けるの、反対ですか?」
「……難しいことを聞くね」
「難しい……ですか?」
「難しいよ。例えばさ。ここで俺が『反対だ』って言ったら、美音子ちゃんは、モデルを諦める?」
「それは……」
言葉が詰まる。
本当は、誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしかっただけなのかもしれない。
不安が大きすぎて、自分で決断するのが怖かった。
もし反対されたら――
それを理由に、逃げてしまえる気がした。
でも、そんな理由で諦めたら、きっと一生後悔する。
分かっているのに、不安でいっぱいで。
「……ライトさん、意地悪です」
精一杯の、すねた声だった。
「あはは、ごめんよ」
ライトは苦笑してから、少し真剣な声で続ける。
「もし、美音子ちゃんの親が生きていたら…………例えば俺が保護者だったら、多分反対する。モデルの世界は、不安定で厳しいからね。安定した、ささやかな幸せを選んでほしいと思う。それが、親の心情なんだろう……多分。」
少し自信なさげにそう言った後、一度言葉を切り、言葉を紡ぐ。
「でも現実には、美音子ちゃんに頼る親はいない。俺には資格も責任もない。……だから俺にできるのは、助言と応援することだけだ」
「……応援、ですか」
「応援だよ。美音子ちゃんの親がいないことは、これはどう取り繕ったとしても事実だからね。それはもうどうしようもないことだよ。でも、それがそのまま放置するという事にはならない。近くにいる大人が、ほんの少し背中を押すくらいはしてもいい。……たとえ資格がなくてもね」
その言葉で、美音子は悟ってしまった。
今回の件で、ライトが裏で動いてくれていたことを。
でなければ、こんな特別扱いが許されるはずがない。
「……ありがとうございます。それだけで、私、……すごく恵まれていると思います」
「色々動いたのは清文だよ。あいつは教師として、当たり前のことをしただけさ」
「……くすっ。ライトさん、優しいですね。……聞いてもらえますか?」
美音子は、溜め込んでいた不安を、ひとつずつ言葉にしていった。
十六歳で施設を出なければならないこと。
高校には行けるけれど、奨学金という名の借金を背負うこと。
モデルという道があるなら、無理に進学する必要があるのかという迷い。
それでも、まどかや翠と同じ高校に通いたい気持ち。
そして、この先、本当にやっていけるのかという恐怖。
話すつもりのなかったことまで、次々と溢れ出す。
ライトは、何も言わず、ただ聞いてくれた。
「……まだ十五歳だ。美音子ちゃんは、十分すぎるほど頑張ってるよ」
そう言って、頭を撫でられた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。
瞳から涙があふれる。
それを見られたくなくて、美音子はライトにしがみつくように抱き着く。
そんな美音子の頭を、ライトは優しく撫でる。
「俺たちに、正解を与えることはできない。何が正解かなんて、俺たちにだってわからないんだ。できるのは、先を歩いてきたものとして、自分が分かる範囲で道を示すことと、ささやかな支えだけだ。最後に決めて、背負うのは、自分自身でしかない。」
その言葉を聞きながら、美音子は、疲れと、安心から、いつの間にか、静かに眠りに落ちていた。
美音子が寝てしまったことを知ると、ライトは美音子を抱え上げるとベッドの上に寝かす。
その寝顔を見下ろしながら、ライトは小さく息を吐く。
自分でもできないことを、なにを偉そうに語っているんだ俺は……。
自嘲めいた笑みをこぼしながら、ライトはおもう。
もし、神様とかがいるのであれば……
――どうか、この子が、自分で選んだ道を、後悔せずに歩けますように。
静かな部屋に、そんな祈りだけが、そっと残っていた。
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