三日目 立て籠もり事件 その四
「待てっ!」
叫びながら治夫は駆け出そうとした。
だが次の瞬間、足先が何かに引っかかる。
体勢を立て直す間もなく、前のめりに床へ倒れ込んだ。
鈍い衝撃と、肺の中の空気が一気に押し出される感覚。
「ぐっ……」
視界の端に転がっているのは、小型のカメラだった。
ストラップが千切れ、無造作に放り出されたような状態で床に落ちている。
さっき――
混乱の中でナイフを振り回した時、刃が何かに当たった感触があった。
あれでストラップが切れたのだと、遅れて理解する。
治夫がよろめきながら起き上がった時には、もう遅かった。
室内は空。
まどかも、あの男もいない。
開け放たれた出入口の向こうには、誰もいない廊下が続いているだけだった。
数秒、何が起きたのか理解できずに立ち尽くす。
その静寂を破ったのは、別の音だった。
――足音。
一人や二人じゃない。
階段を駆け上がる、複数の足音。無線の声。怒号。
警察だと、考えるまでもなく分かる。
「……あ……」
喉がひくりと鳴る。
頭の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
終わった。
その言葉が、ぽつりと浮かぶ。
だがすぐに、別の声がかぶさる。
――何が?
自分は悪いことなんてしていない。
誤解を解こうとしただけだ。
話をしようとしただけだ。
全部、向こうが大げさにしたせいだ。
Yukiがちゃんと説明しなかったからだ。
あの男が勝手に連れ出したからだ。
自分は、被害者のはずだ。
そう思わなければ、足元から崩れそうだった。
現実はすぐそこまで迫っているのに、治夫の思考だけが必死に後ろへ後ろへ逃げていく。
認めた瞬間、自分が“ただの犯罪者”になる。
それだけは、どうしても耐えられない。
足音はもう、廊下のすぐ外まで来ている。
治夫はその場に立ち尽くしたまま、何度も心の中で繰り返していた。
俺は悪くない。
俺は悪くない。
俺は――悪くない。
◇
ビルの上階の窓が開き、男が身を乗り出す。
その顔を見た瞬間、翠の中で何かがはっきりと形を持った。
――あいつや。
まどかを連れ去った張本人。
忘れようのない、その卑屈で焦点の定まらない目。
翠はぎりっと奥歯を噛みしめ、窓の男を睨み上げた。
男は何かを叫んでいる。
支離滅裂で、自分勝手で、聞くに堪えない言い訳ばかり。
けれど。
「Yuki」の名前が聞こえた瞬間――
翠の胸の奥で、ぐらりと何かが煮え立った。
腸が煮えくり返る、という言葉を初めて実感する。
頭の奥が熱くなり、視界の端が赤く染まるような感覚。
あんなやつが、Yukiのファン?
ふざけんといて。
翠にとってYukiは、ただのアーティストじゃない。
母親の再婚で、知らない土地に引っ越してきたあの頃。
言葉も空気も微妙に違って、居場所がなくて、毎日が息苦しかった。
学校へ向かう道でイヤホンから流れたYukiの歌だけが、あの頃の翠を支えていた。
つらい日は、「大丈夫」って言われてる気がした。
嬉しい日は、一緒に笑ってくれてる気がした。
悲しい日は、「泣いてもええんやで」って背中をさすってくれる気がした。
あの声があったから、踏ん張れた。
あの歌があったから、前を向けた。
今ここで笑っている自分は、Yukiの音楽に何度も救われて出来上がった自分だ。
それだけじゃない。
この修学旅行で出会ったYukiとセイは、遠い存在のはずなのに、驚くほど真っ直ぐに話を聞いてくれた。
ぼんやりしていた将来のことに、一本の光みたいな道筋を示してくれた。
美音子の悩みにだって、真剣に向き合ってくれた。
あの人は、誰かの人生を踏みにじる側の人間やない。
誰かを立ち上がらせる側の人や。
それを――
まどかを傷つけて、勝手な思い込みで、責任まで押しつけて。
許せるわけがなかった。
やがて騒ぎは収まり、まどかが救い出されたと知らされる。
パトカーに囲まれ、手錠をかけられた男がビルから連れ出されてきた。
その姿を見た瞬間、翠の足は勝手に動いていた。
「なんでやっ!!」
声が裏返る。
それでも止まらない。
「アンタ、Yukiのファンやったんやろっ!?
なんでこんなことするんやっ!!」
警官が制止するのも構わず、翠は叫ぶ。
「Yukiの歌、聞いてたんやろ!?
あの歌聞いて、なんっにも思わへんかったんかっ!?」
言葉が次々あふれる。
つらい時に救われたこと。
何度も背中を押されたこと。
前を向く勇気をもらったこと。
「うちはなぁ!Yukiの歌があったから、ここまで来れたんや!
あの人はなぁ、人傷つけるために歌っとるんちゃうんや!!」
涙で視界が滲む。
怒りなのか悔しさなのか、自分でも分からない。
「ファン名乗るんやったら……
なんで、あの人が悲しむことするんや……!」
治夫はうなだれたまま、何も言い返さない。
その沈黙が、余計に翠の胸を締めつけた。
翠の叫びは、警察に肩を掴まれ、後ろへ引き離されるまで止まらなかった。
それは怒号というより――
恩人を踏みにじられた少女の、どうしようもなく真っ直ぐな想いの叫びだった。
◇ ◇ ◇
事件はすぐに警察発表と目撃情報をきっかけにネットへ流れ、気づけばタイムラインも掲示板も動画サイトのコメント欄も、その話題で埋め尽くされていた。
「え、あのYuki周りで事件ってマジ?」
「ニュースの“人気アーティスト関係者”ってぼかし方、逆にバレバレなんよ」
「犯人、思考回路が典型的すぎてキツい」
「てか人質の子無事でほんとよかった…」
軽口、憶測、デマ、正義感、野次馬根性。
まさに玉石混交。いつものネットの喧騒だった。
でも、その中に混じって、やけに多く流れてくる話題があった。
――現場で犯人に叫んだ女の子の言葉。
誰が撮ったのか、どこから漏れたのか分からない短い音声や書き起こしが拡散されていく。
「Yukiの歌聞いて、なんにも思わへんかったんか!」
その一文が、まるで火種みたいに広がった。
「この子誰か知らんけど、よく言ってくれた」
「これ全国のファンの総意だろ」
「“ファン名乗るなら悲しませるな”はマジでそれ」
「Yukiの歌に救われた勢、全員うなずいてると思う」
「知らない子だけど勝手に同志認定した」
普段は推し方の違いで揉めがちな界隈すら、その時ばかりは妙に静かだった。
古参も新規も、ライト層もガチ勢も、言葉のニュアンスは違えど、言っていることの芯は同じだったからだ。
Yukiの歌に救われたことがある。
背中を押されたことがある。
だからこそ、その名前が誰かを傷つける理由に使われるのは耐えられない。
あの現場にいた少女の叫びは、
誰かを叩くための言葉というより、
「Yukiはそんな存在じゃない」
という、ファンの祈りみたいなものとして受け取られていた。
気づけばハッシュタグが生まれ、
「#Yukiの歌に救われた」
「#ファンなら誇れる行動を」
体験談が次々と投稿されていく。
受験前に支えられた話。
失恋から立ち直れた話。
家族とうまくいかなかった時に毎晩聴いていた話。
バラバラだったはずの人たちの間に、ゆるくてあたたかい一体感が芽生えていく。
「推しが同じ」ではなく、
「同じ歌に救われたことがある」
という感覚でつながる、不思議な連帯だった。
そしてその波は、界隈の外にまで広がる。
「このYukiって人、名前は聞いたことあるけど…」
「例の事件で知ったけど曲聴いたら普通にハマった」
「サブカルのカリスマって言われてる理由わかったわ」
動画の再生数が跳ね上がり、配信ランキングに名前が並び、過去曲まで掘り返されていく。
皮肉なことに、痛ましい事件をきっかけに――
Yukiの歌は、これまで届いていなかった場所にまで届き始めていた。
誰かの歪んだ独占欲ではなく、
誰かを支えた確かな記憶として。
あの現場で涙混じりに叫んだ翠の言葉は、
画面の向こうの無数のファンの胸にも、同じ熱を灯していたのだった。
ご意見、ご感想等お待ちしております。
良ければブクマ、評価などしていただければ、モチベに繋がりますのでぜひお願いします。




