三日目 立て籠もり事件 その一
ビルの前まで戻ってきた三人は、思わず足を止めた。
オフィス・スノウが入っているその建物の入口付近を、出るときにも見かけた、男が相変わらずうろついている。
入ろうとしてやめ、少し離れてはまた戻り、落ち着きなく視線を走らせている。
人を待っている様子ではない。中に入る勇気がないのに、諦めきれずに様子を窺っている――そんな動きだった。
明らかに、不審だった。
「あの人……まだいる」
美音子が小声でつぶやく。
「どないする……?」
翠の声も、さっきまでの調子とは違い硬い。
オフィスへ戻るには、どうしてもあの男の前を横切らなければならない。
まどかの喉がごくりと鳴る。
怖い。
正直、足がすくみそうになる。
けれど――オフィスにはライトがいる。
何かあっても、大声を出せばきっと気づいてくれる。
あの人なら、助けてくれる。
その信頼が、震えそうになる心をぎりぎりで支えた。
「……聞くだけ、聞いてみる」
「まどか、無理せんでいいって」
「危なかったらすぐ戻ろ!」
二人の声に小さく頷き、まどかは一歩、また一歩と男の方へ近づいていく。
距離が縮まるにつれ、男の様子がはっきり見えてきた。
年齢は三十代くらい。帽子を目深にかぶり、落ち着きなく指先をいじっている。視線は何度もビルの入口へ向けられ、誰かが出入りするたびに体をびくっと強張らせていた。
まどかは男の少し横、逃げ道を塞がない位置で立ち止まる。
「あの……何か用ですか?」
なるべく穏やかに、けれどはっきりと声をかける。
男の肩が、びくりと大きく跳ねた。
ゆっくりと顔がこちらを向く。
その目がまどかを捉えた瞬間、表情がはっきり変わった。
驚き――そして焦り。
まるで「見られてはいけない場面を見られた」かのような、追い詰められた色。
「……っ」
男は何か言いかけて、言葉にならないまま周囲を見回した。
次の瞬間、ぐっと距離を詰めてくる。
「え――」
短い声を上げる間もなく、まどかの腕が強く引かれた。
「ちょ、ちょっと!」
男は返事をする代わりに、そのまま体の向きを変え、オフィスの隣にあるビルの脇入口へと駆け込もうとする。
まるで、とっさに“ここから離れなければ”と判断したような、衝動的で荒い動きだった。
突然のことに、まどかの足がもつれそうになる。
「まどか!?」
数歩後ろにいた翠と美音子は、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
声をかけた次の瞬間には、まどかの体が男に引かれ、連れていかれたからだ。
「え……?」
「うそ、なに、ちょっ……!」
時間が止まったみたいに、二人の思考が真っ白になる。
けれど、男がまどかを連れて建物の陰へ消えようとしたところで、ようやく現実が追いついた。
「まどかぁぁ!!」
「離してっ!! 誰かっ!!」
親友の名前を、喉が裂けそうなほどの声で叫びながら、二人は反射的に駆け出した。
◇
エレベータの扉が開いた瞬間だった。
外の空気が流れ込むのと同時に、鋭い声が耳に飛び込んでくる。
悲鳴に近い、切羽詰まった叫び。
しかも――聞き覚えがある。
「……っ!?」
ライトの心臓が嫌な跳ね方をした。
もう一度、声が響く。
「まどか――!!」
名前まではっきり聞き取れた瞬間、背筋を冷たいものが走る。
考えるより先に、体が動いていた。
エレベーターホールから外へ飛び出す。
建物の前には、顔面蒼白の翠と美音子が立っていた。
翠は半泣きで呼吸も荒く、完全にパニックを起こしている。
「ライトさんっ!!」
「落ち着け、どうした!」
強い声を出しながらも、ライトの内側は一気にざわついていた。
嫌な想像が、勝手に形を持ち始める。
やめろ、と頭のどこかが叫ぶ。
最悪の想定をするな。
でも、備えろ。
冷静になれ。急げ。焦るな。
相反する声が、頭の中でぶつかり合う。
「まどかが、まどかが……っ」
翠の言葉は涙で途切れ途切れになる。
ライトは肩を掴み、視線を合わせた。
「大丈夫だ、ゆっくりでいい。美音子ちゃん、説明できるか?」
呼吸を整えながら、美音子が必死に頷く。
「変な男がいて……ビルの前うろうろしてて……まどかが声かけたら、急に腕つかんで、隣のビルに……!」
一瞬、世界の音が遠のいた気がした。
腕をつかんで、連れて行った。
言葉が、遅れて意味を結ぶ。
胸の奥で、何かが一気に熱くなる。
怒りとも恐怖ともつかない、どす黒い感情。
――落ち着け。
暴走しかけた思考を、理性が無理やり引き戻す。
怒ってる場合じゃない。
取り乱してる場合でもない。
今必要なのは感情じゃない、判断だ。
場所。時間。距離。
相手は一人か? 武器は? 出口は何か所ある?
頭が異様な速さで回り始める。
心臓はうるさいほど暴れているのに、思考だけが冷えていく。
「どっちの入口だ」
「よ、横の……非常口みたいなとこ……!」
ライトは一度だけ深く息を吸った。
「よく聞け」
低く、はっきりした声。
「二人はオフィスに戻れ。雪乃と星夜に今の話を全部伝えろ。警察もすぐ呼べって言え」
「で、でも――」
「いいから行け!」
普段のライトからは想像もできない、強い口調に、二人がびくっとする。
「まどかちゃんは俺が助ける。お前らは雪乃たちと安全なとこにいろ」
言い終わるより早く、ライトは駆け出していた。
体は熱いのに、頭の芯だけが妙に冷たい。
頼むから無事でいろ。
間に合え。
間違えるな。焦るな。
願いと命令がぐちゃぐちゃに混ざる。
それでも足は止まらない。
ライトは生まれて初めてという勢いで、隣のビルの入口へと飛び込んでいった。
◇
薄暗い、古びたビルの一室。
カーテンもない窓から差し込む光は弱く、部屋の隅までは届いていない。空気はどこか湿っぽく、長い間使われていない場所特有の匂いが漂っていた。
まどかは床に座らされている。
手首は後ろでまとめられ、口元も塞がれていて、声を出そうとしてもくぐもった音にしかならない。動こうとするたびに拘束がきつくなり、思うように身動きが取れないことだけがはっきりわかる。
目の前を、男が落ち着きなく行き来していた。
靴底が床をこする音が、やけに大きく響く。
その手にはナイフが握られている。刃先を向けてくるわけではない。ただ、強く、ぎゅっと握りしめたまま、考えがまとまらない子どもみたいに部屋の中をうろうろしている。
「……なんでだ……」
「どこで……間違えた……」
ぶつぶつと独り言を繰り返し、時々頭を抱える。
まどかの方を見ているようで、ちゃんと見ていない。
けれど視線がふと合うたびに、心臓が跳ね上がる。
怖い。
体の震えが止まらない。
呼吸が浅くなり、胸が苦しくなる。
なにが起きているのか、どうして自分がこんな目にあっているのか、考えようとすると頭が真っ白になる。
逃げなきゃ。
でも動けない。
叫びたい。
でも声が出ない。
視界がにじむ。涙が勝手にあふれてくる。
その中で、ひとつの顔だけがはっきり浮かんだ。
――ライトさん。
あの人なら、きっと気づいてくれる。
あの人なら、絶対に来てくれる。
助けて。
声にならない叫びが、胸の奥で何度も何度も繰り返される。
まどかの心は、その願いでいっぱいだった。
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