三日目 事件勃発の前触れ
「はぁ、夢のような時間やったわ。」
満足げに笑う翠の言葉に、エイジたちも大きく頷いた。
「ライトさんは酷いですぅ。あんなふうに見つめられたら歌えないですよぉ」
まどかが頬を染めながら抗議する。
口では怒っているのに、表情はふにゃっと緩みきっていて、あの時間がどれだけ嬉しかったかを隠しきれていない。
「さて、そろそろ時間だよ。ここからネズミの国までは三十分くらいかかるからね」
ライトが声をかけ、中学生チームの移動を促す。
結局ここだけでかなりの時間を使ってしまい、観光らしい観光はできていない。
それでも彼女たちの顔があれだけ満足そうなら、まぁいいだろうとライトは思う。
「あれ? ライトさんは一緒に行かないんですか?」
雪乃と並んで見送るライトを見て、美音子が首を傾げた。
「あぁ、この後、雪乃に付き合う約束があってな。……パレードには間に合うと思うから、そんな顔するなって」
一緒に来ないと聞いてふくれっ面になるまどかの頭を、ライトはくしゃっと撫でた。
本当の理由は別にある。
この後は、Yukiのアルバムのボーナストラックに入れる曲のレコーディングだ。
ライトはギタリストとして参加する。
それが、今回無理を聞いてもらった“代価”でもある。
だが、そんな話をすれば、きっと気を遣わせるだけだ。
だからライトは、いつもの調子で適当に誤魔化した。
しかし、まどかにはそれが面白くないらしく、翠と美音子に半ば引きずられるようにして去っていく間も、ずっと頬を膨らませたままだった。
「愛されてるわね」
雪乃が、からかうように言う。
「言うなよ。正直、困ってる」
「へぇ。いい気味よ」
わざと拗ねたように言って、雪乃はライトから顔を背け、レコーディングスタジオの方へ視線を向けた。
ライトは小さくため息をつく。
まどかから向けられる好意は、純粋に嬉しい。
あんなふうにまっすぐ想われて、嬉しくないはずがない。
けれど――それに応えられるかどうかは、まったく別の話だった。
問題は、彼女自身だけじゃない。
笑った顔、拗ねた顔、無邪気に甘えてくる仕草。
その一つひとつが、時折“別のまどか”と重なる。
幼馴染の、あのまどか。
好きだと伝える前に――いや、伝えてもらう前に、突然いなくなってしまった、初恋の相手。
もしあの時、もっと素直だったら。
もしもう少し早く、言葉にできていたら。
そんな「もしも」を、いまだにどこかで引きずっている自分がいる。
その”まどか”と、今の”まどか”を、どこかで重ねてしまっている自分がいる。
だからライトは、今のまどかに対して妙に甘くなる。
傷つけたくない。失いたくない。
――あの時みたいに後悔したくない。
そのくせ、自分の気持ちが本物なのか、過去の幻を重ねているだけなのか、それすらはっきりしない。
「……ヤバいよなぁ」
思わず、自嘲が漏れる。
分かっている。今のままじゃ良くないことくらい。
中途半端な優しさは、いずれ誰かを傷つける。
それなのに、考え始めると逃げ道ばかり探してしまう自分がいる。
いっそ全員と適当な距離で笑っていられたら楽なのに、とか。
誰も選ばなければ、誰も失わずに済むんじゃないか、とか。
逆に、みんなと付き合えばだれも傷つかすに済む……とか。
そんな最低な発想が、冗談めかして頭をよぎる。
本気でそんなことを望んでいるわけじゃない。
ないはずなのに、そういう考えが浮かぶ時点で、もう十分ダメだと分かってしまう。
初恋をこじらせたまま大人になりきれない男の、みっともない迷い。
ライトはもう一度、深くため息をついた。
「……ほんと、どうすりゃいいんだかな」
その呟きは、誰にも届かないまま、静かに空気へ溶けていった。
◇
思考の海に沈みかけていたライトの意識を、雪乃の声が現実へと引き戻した。
「……あれ、忘れ物?」
間の抜けたような、けれど確かに何かを見つけた声。
ライトがそちらに視線を向けると、ソファの端にぽつんと小さなポーチが置き去りにされていた。見覚えのある、柔らかい色合いのそれ。
まどかのものだ。
さっきまで本人が大事そうに抱えていたのを思い出し、ライトは小さく息をつく。
「……あぁ」
思考の続きを振り払うように、軽く頭を振る。
「まだそんなに遠くまで行ってないだろ。ちょっと届けてくるよ」
そう言って、ポーチを手に取る。指先に伝わる軽さに、年相応の持ち物だな、なんて場違いな感想が浮かんでしまう自分に、内心で苦笑した。
「はいはい、いってらっしゃい。“保護者さん”」
雪乃が面白そうに肩をすくめる。
「茶化すな」
振り返りもせずにそう返しながら、ライトはオフィスのドアへ向かう。足取りは自然と早くなっていた。
廊下に出ると、さっきまでの賑やかさが嘘のように静かだ。遠くから聞こえる話し声と足音が、彼女たちがまだそれほど遠くへ行っていないことを教えてくれる。
ポーチを持つ手に、ほんの少しだけ力が入る。
――世話が焼ける。
そう思いながらも、口元はわずかに緩んでいた。
まどかに甘い自覚はある。
けれど今は、その理由を掘り返す気にもなれない。
ただ、忘れ物を届ける。
それだけのことだ。
ライトは小さく息を吐き、足早に彼女たちの後を追った。
◇
ネズミの国へ向かうため、駅までの道を三人は並んで歩いていた。
さっきまでの余韻がまだ残っているのか、翠はご機嫌で鼻歌まじりだし、美音子もスマホを見ながら「どのアトラクションから回る?」なんて楽しそうに話している。
その隣で――まどかは、ふと足を止めた。
「あれ……?」
「どしたん?」
「まどかちゃん?」
二人が振り返ると、まどかは青ざめた顔で自分の肩やポケットをぺたぺた触っている。
「ポーチ……ない」
「え?」
「さっきの……オフィスのソファに置いたままかも……」
一気に血の気が引いたような顔になるまどか。中にはスマホの充電ケーブルやらリップやら、細かい私物がいろいろ入っている。なくなると地味に困るやつだ。
「取りに戻る!」
くるっと踵を返そうとするまどかの腕を、翠がぱしっと掴んだ。
「一人で行かせるわけないやん」
「うちも行く」
美音子も当然のように頷く。
「え、でも悪いよ!せっかく時間ないのに……!」
「問答してる時間の方がもったいない」
「それな。ダッシュで戻ってダッシュで来ればええ!」
半ば強引に背中を押される形で、三人は来た道を引き返し始めた。
さっきは楽しくてあっという間だった道のりが、今は妙に長く感じる。まどかは何度も「ほんとごめんね」と繰り返し、そのたびに翠が「はいはい後でジュース奢りな」と笑って受け流した。
やがてオフィスの入っている建物が見えてくる。
「あ、あそこ……」
まどかが指差した、その時だった。
「……ん?」
翠が小さく声を漏らす。
建物の入口付近を、ひとりの男がうろうろと歩き回っていた。
入るでもなく、立ち去るでもなく、落ち着かない様子で辺りを見回している。
「誰か待ってるんかな」
美音子が小声で言う。
けれど、その男の視線はどこか不自然だった。通行人を見るでもなく、看板を見るでもなく、まるで“中の様子をうかがっている”みたいに、建物の方ばかり気にしている。
まどかは無意識に足を緩めた。
「……なんか、あの人」
胸の奥が、ざわりとする。
さっきまでの楽しい空気が、すっと冷えていくのを三人とも感じていた。
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