第弐拾弐話 生贄
少し昔話をしよう。
昔のわしはそれはもうブイブイ言わせていたものだ。当時の身体は全長十五メートルの巨大な蛇だった。
室町時代は人の就く仕事はだいたい農民で、田畑が里の生命線だった。年金もコメで納めていたしな。田畑を台無しにされたら、人は生きていけない社会だった。
わしはたびたび畑や水源を荒らしていた。作物を掘り返し、水源で思いっきり水遊びをし、水田の苗の間で狂乱し、わしの能力で川の水かさを増して洪水を起こしたりした。何のことはない、ただの憂さ晴らしだ。
わしは神様のヒエラルキーの中でも底辺に位置していた。神の庇護を受ける人間が羨ましく、妬みで人々の生活を破壊していた。
イザナギとイザナミの時代から、神は人に甘すぎる。
何もできない人間が、なぜわしより優遇されている!
茶飲み友達のこっくりを除いて、わしは他の神々からバカにされていた。お前なんかでかいだけの蛇だと言われていた。人間のほうがまだ愛嬌があると。
人間とわし、どちらの立場が理不尽だと思う?
ある出会いがあるまで、わしは人間を愛することなどできなかった。
言わば、わしは触れるものみな傷つける荒神だった。
人々がわしを畏怖しているのが気持ちよかった。それ以外のことで、自分が神だと実感できなかった。
わしは滝壺の裏の洞窟に棲み、きまぐれに行動していた。朝日がさせば動き出し、好きなだけ暴れまわり、夜が訪れたら眠る。なんとも気ままな暮らしをしていたものだ。
ある日、何者かがわしの洞窟に訪れた。外は雨が降っている。わしはのっそりと動き出し、出入り口で来客を見下ろした。
老婆が娘を連れてきていた。二人ともわしが荒らしている、近所の村の民だった。
「蛇神様……これは村の生娘でございます。どうかこれで、怒りをお鎮めになさってくだされ……」
そう言って、老婆は娘を置いて一目散に逃げ帰った。傘は一人分しかなく、娘はここから出られても濡れてしまうだろう。
娘だけが虚ろな顔で取り残されている。ぼろを着た娘はそこから動こうとしなかった。
見るからに栄養失調でみすぼらしい娘だった。蛇神を前にしているにもかかわらず、心ここにあらずな顔をしている。
「おぬし、名は?」
「マヤといいます」
「そうか。おぬし、生贄になった気分はどうだ?」
「わっかんないです」
「今にもわしに食われるかもしれんのだぞ? もっと必死に足掻けばどうだ?」
「私はいらない子ですから、死んだって誰も悲しまないんです。世間なんてそんなものです」
わしは年に似合わず達観しているこの小さないのちに、思わずカチンと来た。
人間に対してムキになっているわしがガキだと言われているような気がした。
そこで、わしの脳裏にある考えが去来した。今ここで娘を食い殺してもつまらない。それより面白い方法がある。
「なら……わしが特別に教えてやろう。わしの大好きなものをな。食われる前に、少しは世界の良さを知っておけ。そして食われる直前で、死にたくない、もっと世界を知りたいと泣き喚くがいい」
娘一人恐怖させられない荒神など、そのへんの蛇以下だ。わしはマヤを徹底的に甘やかすことにした。そして、死にたくないと思わせたかった。
そうすることでわしはこの娘に勝てる気がした。
マヤはぼーっとした顔で「うん」と頷いた。
「ようし、頷いたな! わしの一番好きなものを見せてやる。覚悟しろ!」
マヤは相変わらずぬぼーっとした顔で「うん」と言った。
雨降りから一晩過ぎた夜明けに、わしはマヤを連れて森に行った。
森の木々が濡れそぼっている。葉の上に溜まった水をわしは飲んだ。
これだ。この味だ。雨は嫌いではないものの、この水は自信を持って好きだと言える。
マヤは「私もいいのかな?」という顔でわしを見る。
「もちろんだ。一口飲んでみろ」
マヤはおずおずと、葉に乗った水を飲んだ。
娘の顔に「あっ……」というような表情が一瞬過った。
「甘い……!」
「天の甘露だ。降った雨が植物の繊維を通り抜けて、甘味が加わっている。これが飲めるのは雨上がりの森だけだ」
「私が知らないものを知ってる、さすが神様だ」
褒められてわしは少し嬉しくなってしまった。よいよい、もっと言うがいい。小さな娘に褒められてなぜこんな気持ちになるのだろう。何か矛盾を覚えつつも、わしはこの娘にもっと世界を見せてやろうと思った。
水遊びを教え、夕暮れは遊び疲れて一緒に洞窟で寝て、うまい魚のいる川で釣りなどしたりした。
そうしているうちに、わしの中に情が芽生えはじめた。
マヤを見ている時のわしの気持ちは、愛しい、という言葉が一番ふさわしいだろう。その気になれば握りつぶし、殺せてしまう存在。だがそのような存在のあどけなさを見ていると、怒りと嫉妬にまみれたわしの心がほぐれていくようだった。
まさか自分がこのような気持ちを抱くとは。
だが、そうして暮らしていても、マヤは望郷の念を捨てられないようだった。
「……おっかさん……」
そんなマヤの寝言を聞くのが辛くなっていった。
自分が死んでも悲しむものがいない? いや、いるじゃないか。それを知っておるではないか。
幾夜も過ぎた頃、わしはこやつを里に返すことを決めた。人は人の生活でしか幸せになれない。こやつを見ているとそれがはっきりとわかった。
「おぬし、村に帰れ」
ある日急にそう言われて、マヤはええっという顔をする。
「なんでまた急にそんなこと言うんですか。ここは楽しいです。ミズチさんが遊びをたくさん教えてくれますもの」
「おぬし、それでも家が恋しいのだろう?」
「それは……」
「隠そうとしてもわかるのだよ。一緒に暮らしてるうちにおぬしを食ってやろうという気持ちも失せた。もう帰れ。とっとと帰れ!」
マヤは目に涙を浮かべながら、こくんと頷いた。
帰る日には土産をたくさん持たせてやった。近くの川で獲った鮎の干物、山奥で採った山菜などだ。武者の鎧のように土産を身体に纏わせたマヤは、去り際こちらに一礼した。
わしは千里眼の真似事をして、マヤが帰った後の村の様子を見ることにした。家族と会って、マヤが明るくなってくれればよかった。
しかしその期待は打ち砕かれた。
「なんで帰ってきよったと!」
家に帰ってきたマヤを待っていたのは、家族からの叱責だった。
マヤは何がなんだかわからないという顔をして、家族は土産だけ剥いでマヤを家から追い出した。
「あんたは死んだんだからね!」
マヤは地べたに座り、泣く余裕もなく呆けてしまっていた。
わしは悟った。
マヤは口減らしの口実に、わしへの生贄という形で捧げられたのだ。わしがこやつを食ってくれるとでも思っていたのか。
わしは冒涜された気分になった。正しくはわしと、マヤの二人分の存在がだ。
怒りに駆られわしは村の家々を破壊した。
村を滅ぼすほどの怒りに駆られたのは初めてだった。
気がついたら村の建物は全部壊されていた。自分でも、これほどまでに怒ったのは初めてだ。これまでの遊びの破壊とは違った。
火の手が上がる中、マヤは一人やはり途方に暮れている。
わしはマヤの前に立って、その憐れな姿を見下ろす。
「おぬし……一人になってしまったな」
「平気です。私、昔から一人、慣れてますから」
「悲しいのか?」
「そうですね」
「おぬしがよければ、また一緒に……」
そんな時、空から光の槍が降ってきた。
光の槍はわしの身体を貫いた。わしはその場に縫い付けられ、動けなくなってしまった。
『蛇神ミズチ、お前を拘束する』
上位の神々の声が空から響いた。
わしは脱出を試みたが、身体に刺さった槍は抜けない。触るとそこから火傷するほど熱い。
そして、わしは神社に封じ込められたのだった。




