第弐拾壱話 急転直下
その日の朝、わしは機嫌が良かった。
厳しい冬を乗り越えた校庭の桜が少しずつ咲きかけている。まだ少し肌寒いが、着実に冬の終わりと春の始まりが実感できる。
徐々に路上にもタンポポなどの緑が芽吹き始め、春の足音が聞こえるようだ。
神社に閉じ込められていた頃は、春がこんなにもいい気分になるものだとは思えなかった。今は登校の間、比較的好きなところに行けるのが幸いだ。
振り注ぐ陽気と蒸した大地の照り返し。身体だけでなく心も温まる。桜の花びらが舞い散る中、登校するわしは全身で春を堪能していた。
「生きるって、素晴らしいことだな~!」
そんな声が出てしまう。
校舎の裏側を通ったほうが教室への近道だ。わしは他の誰も使わないそのコースを通り、今日も勉学と縁結びに励もうとしていた。
しかし。
日陰になるところで何かが蠢いていた。
よく見れば二人の人間だ。片方が、もう片方を壁に押し付けている。
「んっ……ん……」
壁に押し付けている方が、押し付けられている方に強引に接吻していた。両方、女子だった。押したり引いたりする動きに合わせて彼女たちのスカートが揺れる。
壁に押し付けられている方は必死に抵抗しようとする。が、押し付けている側のほうが力が強いようで、もがくばかりだ。二人の鼻の頭同士が何度もくっつき、離れる。悩ましい吐息が、白い軌跡を描いては消える。
わしはその場で固まってしまった。彼女たちの二人とも、わしの知らない人間だ。自分が何をすればいいのか、わからなかった。ただ目の前の光景を見つめるしかなかったのだ。
「やめて!」
壁に押し付けられていた女子が相手を突き放す。
接吻してきた女子が、口元をぬぐい相手を見つめる。
「私を拒絶するの?」
「ユキ……あなたって人は……」
ユキと呼ばれた方はまじまじと相手を見る。
「昔、結婚しようって言ったじゃない。忘れたの? 紫苑」
「小さい頃の話を蒸し返さないで!」
口論する二人が、呆気にとられて立ち尽くしているわしに気づく。
紫苑と呼ばれた娘は口に手を当て、ユキと呼ばれた娘は眉間にしわを寄せる。
「……見たわね?」
ユキはわしを睨みつける。その殺気にわしは硬直してしまう。蛇に睨まれた蛙だ。
「ご、ごゆっくり~!」
わしは弾かれるように逃げるしかなかった。
参拝客以外の痴情のもつれまで神は手を回すことはできない。そんなところまで気を回す余裕はない。
わしは一直線に教室に向かう。教室のドアを開けると、いつもと変わらないクラスが目に入ってきて、戻ってきた日常に安堵するのだった。
・
朝に機嫌が良かったのもどこへやら、わしはずっとあの二人のことが頭から離れなかった。
キスをしていた二人は、どこの教室かもわからない。移動教室のときに出会わないよう、わしは内心ビクビクしていた。その日はずっときまりが悪い感覚に囚われ、授業を聞いていても二つのことが気がかりで、心ここにあらずだった。
人の感情の爆発……。
あのキスは、ユキとやらの感情の発露だ。それほどまでに紫苑を追い求めていた。そうしたナマの感情を見せつけられ、恋をすることの激しさをわしは意識せざるを得なかった。あの執念は、友乃の持っていたものにも似ているかも知れない。今までわしは、人の情欲を煽りながらもその本質を見ていなかった。縁結びの神としての自分の未熟さを自覚する。
そして、もう一つは別の問題。
紫苑の顔、どこかで見たことがある……。
それは忘れてはいけないものだった気がする。
もしかして……。
わし自ら、あまり考えないようにしていたものを思い出す。考えを振り払いたい気持ちもあるが、わし自身の過去と向き合わなければいけないと思う。ずっと忘れたままでいいはずがないことだ。
今こそ記憶の蓋を開けるとき……。
「蛇野神さん、何をしているんですかメエ」
授業中ぼーっとしているわしを、ヤギ担任は生徒名簿でべしっと小突く。
「そんなに眠かったら保健室でも行きますか? メエ。集中できないようですからメエ」
「いや、体調が悪いとかではないのだ」
「ではちゃんとやるのです、メエ」
くそっ! この白髪の担任、わしを何年生きとると思っとる。わしの実年齢からすればおぬしなど小童だ!
そう言いたいのをこらえて、わしは表面上は授業を聞くよう努めた。それでもぼんやりしてしまい、何度も名簿で小突かれた。
・
放課後。わしは神社に戻り、本殿の中で悶々とする。
女同士の色恋。わしは今まであれくらい激しいものを扱ってきたのに、それについて何も知らず……。縁を結んであとはご自由に、と思っていたが、わしが縁結びしたカップルたちは皆ああなのか?
しかし思考を遮るように、神社に来客の気配。すっかりこの感覚にも慣れたわしは、閉め切った本殿の中から外を見やる。
賽銭を投げ、拍手する娘。今度はどんな百合が見られるのか。
誰が来るか、何となく予感はしていた。そして参拝客の顔を見た時、「やはりな」と思った。
神社に来たのは紫苑だった。何やら思い詰めた顔をしている。もしや朝の出来事と関連のあることか……?
「神様、私には関係に困ってる子がいます。でも、お祈りすればいい方向に行くと思う。私、神様にすがらなきゃいけないくらい、道に迷ってます……」
ふむ。
「私、ユキには普通の幸せが訪れてほしい。いつごろからか彼女は私に依存するようになった。今朝みたいに感情をぶつけられて、私、どうしたらいいかわからない。私じゃユキには釣り合わないと思う。私みたいな隅っこにいるタイプじゃ、ユキを幸せにできない……」
自己肯定感が低いのだな。
大丈夫だ、わしが背中を押してやる。わしはキューピッドなのだから。
しかし……。
わしは紫苑の顔に、遠い昔に死んだあの子を重ね合わせていた。
室町時代、わしに捧げられた生贄の少女。
その面影をわしは紫苑に見出していたのだ。
もしかしたらあの子の血筋の子孫かもしれない。わしは紫苑を見ると、昔の記憶が蘇ってしまう。
忌まわしきあの記憶が……。




