19話 彼女の決意
明るいニュースはない。
それでも、日課のように空はエピキュクルス・オンラインにログインした。
「……あれ?」
昨日ログアウトしたのは、賑やかな街の中。
しかし、街の中にはほとんど誰もいない。音のない、空虚な空間が広がっていた。
嫌な予感に駆られてフレンドリストを見る。
そこに並んでいるのは、インしていないことを示す灰色の名前ばかり。
それどころか、キャラ削除を表す赤色の名前すら混じっていた。
空は、居ても立っても居られずに「始まりの丘」に向かった。
特に何かをするためではない。いつものルーティーンとして、のどかな街道を歩き採取をするためだ。
当然、世界はそれどころではない。それは明らかに現実逃避であった。
初心者エリアである「始まりの丘」に着いた空が目にしたものは、
倒れる初心者たちと逃げ惑う初心者たちの悲鳴だった。
「た、助けて……」
「初心者エリアなのに、なんでこんな敵が出るの!?」
「ヒールお願いします!」
空は慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか? ヒール撃ちます!」
しかし、初心者たちの体力に対し、敵の攻撃力はあまりにも高すぎた。
ほぼ1撃、2撃で倒れていく初心者に必死にヒールを撃つ空。しかしそれは、明らかに焼け石に水だった。
(僕一人では、どうしようもない……)
空は、アストラに救援を頼んだ。結婚スキルのゲートで、即座に現れるアストラ。
しかし、事態は一向に好転しない。根本的に、初心者がモンスターの攻撃にわずかでも耐えることができないのだ。
そして、ここにいるのはアストラですら1匹倒すのに苦労する強力なモンスター。
もはや、初心者の冒険できるフィールドは──、この世界にはなかった。
「無理だ。一回街に死に戻りしよう」
アストラが初心者たちに呼びかける。
街へ戻ると、広場に初心者プレイヤーたちが集まっていた。アバターはみな、沈痛な面持ちだ。
「俺、当分休止します」
「これはもう無理かな……」
「私も、さすがにこんな思いしてまでゲームしたくないかな……。辞めたくなかったけど、今日で辞めます」
「ヒール、ありがとうございました。またどこかで」
初心者たちはどんどんログアウトしていった。
残された空の画面には、噴水の水が淡く揺れる音だけが残った。
空はその場に立ち尽くしながら、ゆっくりと目を閉じる。
(この世界……本当に、壊れ始めてるんだ……)
隣にいる美月はどんな気持ちなんだろう。
空が横を見ると、美月は、「今日はもう落ちるね」とだけ言い残し、アストラはすっと消えていった。
何も言わなかった事が、むしろ美月の心を雄弁に語っているようで、
ただただ空の心は締め付けられるばかりだった。
*****
数日後。
「……本当に、誰もいなくなっちゃったね」
アストラとそらぽんは、かつて多くの初心者で賑わっていた「始まりの丘」の端にある、二人が初めて出会った場所に来ていた。
フィールドは荒れ果て、モンスターは異常な速さでリスポーンし、プレイヤーの姿はほとんど見当たらない。
ギルドチャットも沈黙がちになり、「今夜も寝落ち団」からもログインするメンバーが激減していた。
ゲームは、静かに、しかし確実に崩壊へと向かっていた。
何もしない上級者たちに対し、ついに初中級者の不満が爆発した。
ゲーム内の公開チャンネルでは「お前らのせいで初心者が消えた」「自分勝手だ」と上級者への非難が飛び交い、
それに対し上級者も「人に頼んでおいて逆ギレか」「助けてやる義理はない」と応戦。
ゲーム内も外のSNSも、怨嗟と怒りに満ちていた。
空は、荒廃した景色を見て、やるせない気持ちで唇を噛んだ。
「せっかく、美月ちゃんとも、蓮とも出会って、こんなに楽しい世界になったのに……」
そらぽんでは、この状況では何もできない。自分の無力さを、つくづく痛感する。
美月は、空の隣で静かに立ち尽くしていた。
アストラの少年らしい顔立ちには、深く、暗い影が落ちている。
彼女にとって、この崩壊は単なるゲームの終わりではなかった。
「せっかく心地よい場所が出来たと思ったのに、また、なくなっちゃうのかな」
美月は小さな声で呟いた。
かつて、ルナのオフ会をきっかけにギルドは全土統一という快挙を成し遂げたが、最後は彼女を巡る対立で崩壊した。
今回、状況は違えど、彼女と空たちが楽しんでいた大事な場所が、今、人々の憎悪で満たされようとしている。
この騒動は、SNSでも格好の炎上ネタとなっていた。
「MMORPG大崩壊」としてまとめサイトやまとめ動画で面白おかしく消費され、ゲームの評判は地に落ちていく。
このままでは、この世界が、本当に消えてしまう。
美月にとって、アストラというキャラとして空と共に過ごした、かけがえのない場所が。
そらぽんはアストラの手を握った。温度感知機能などないのに、その手からはお互いの温もりが感じられたような気がした。
幻でもいい。美月は、空の手の温もりを感じながら、画面の向こうで強く目を閉じた。
*****
次の日。
美月は、ベッドに横たわり、エピキュクルス・オンラインのことを、ずっと考えていた。
みんなで頑張って全土統一したこと。ルナへの崇拝がいつしか過剰になり、思い出したくもないストーカー騒ぎにまでなったこと。
でも、「シルバームーン」だって、嫌な思い出だけじゃなかった。だからこそ、再びこの世界に戻ってきたのだから。
そして──、「そらぽん」との楽しい日々。
(もう、逃げない。みんなの世界、そして、空との世界。絶対に終わらせたりしたくないから)
美月は、ベッドから起き上がり、
PCの前に座り、震える手でルナのアカウントにログインした。
もう忘れかけていたパスワード。そして二度と使うことはないと思っていたパスワード。
【ようこそ、伝説のギルドマスター・ルナ】
久しぶりに見る画面。
膨大な数の未読メッセージ。
そして、アバターが纏うのは、どれも世界に一つレベルの伝説の装備。
美月は、深呼吸をして、ワールドチャットを開いた。




