「声なき巫女、名を孕む」
翌朝。
町の空が、赤黒く染まっていた。
太陽は出ている。だが、色がおかしい。
まるで“水に沈めた血”のような光が、空一面に広がっていた。
ユナは気づいた。
鳥の鳴き声が、完全に消えている。
代わりに、遠くから“ゆっくりと逆再生されるような潮騒”が聴こえていた。
言葉にならない、不快な音だった。
•
母は笑っていた。
朝食も作らず、台所の椅子に腰かけて、ずっと笑っていた。
その顔は、表情という構造を拒否していた。
唇の形は“笑顔”だったが、眼球は動いていなかった。
頬の筋肉も、顎の関節も、まるで金属のように固まっていた。
それでも笑い声だけが、ずっと漏れていた。
「ねえ、ユナ。……あなた、もう名前いらないよね?」
母はそう言った。
その目は、どこか別の場所を見ていた。
そして、母は自分の腹を裂いた。
音もなく。
血ではない。
水が流れ出た。
母の体内には、臓器の代わりに――
透明な胎児が浮かんでいた。
その胎児が、ユナを見た。
笑った。
そしてこう言った。
「巫女が、来るよ。
あなたの“声”を取りに。」
•
幡倉町の外れには、封鎖された神社がある。
《滄宮神社》。
町では“雨の起点”と呼ばれていた。
数十年前、ここで「水の儀式」が行われたあと、町が水を拒むようになったという。
ユナはなぜか、その神社へと引き寄せられていた。
誰も教えていないのに、足がそこへ向かっていた。
門は開いていた。
鳥居には、縄が張られていなかった。
拝殿には誰もいない。
だが、“水音だけ”が、はっきりと聞こえていた。
ぽた…ぽた…
床板に落ちる、水の音。
その音に導かれるように、奥の間へと進むと――
そこに、いた。
巫女が。
•
彼女は水に浸かっていた。
首まで。
赤黒い液体に、静かに浮かび、目を閉じていた。
口だけが動いていた。
だが、その唇からは声は出ていなかった。
ユナが近づいたとき、彼女の目が、開いた。
瞳は存在していなかった。
あるのは、渦巻く水だけだった。
その目を見た瞬間、ユナの鼓膜が“破れたように”音を失った。
視界が、揺れる。
空間が、水中のように歪む。
そして、巫女の口が動いた。
「ユナ……」
その瞬間、ユナの身体の表面に、古い文字のような“名前の痕跡”が浮かび上がった。
額に。
胸に。
腹に。
太ももに。
全身の皮膚に、“名の定義”が浮かび、滲み、剥がれていった。
「……や、めて……」
ユナが叫んでも、声は出なかった。
声帯が震えているのに、音が生まれなかった。
巫女が立ち上がった。
水が滴る音。だが、水面は一滴も揺れていない。
彼女はユナの目の前まで歩いてきて、そっと指を伸ばした。
その指が、ユナの喉元に触れた瞬間――
ユナの“名”が剥がれた。
感覚としては、“喉が破れる”というより、
“言葉の根が引き抜かれる”という感じだった。
そして、巫女が口を開いた。
「ナを、取り返しに来たよ……ユ、じゃなかったもの」
彼女は、ユナの喉から抜き取った“声のかたち”を、自らの口に含んだ。
その瞬間――
神社全体が震えた。
天井から黒い液体が滴り、地面が脈動を始めた。
外を見ると、空が裂けていた。
空から、水が降っていた。
雨ではない。
胎水だった。
血のような、羊水のような、名前のない液体。
空が破れ、町全体に“産声のような音”が轟いた。
「ウァ……ア……アア……」
それは、この町で“産まれていなかったもの”の声だった。
•
ユナは、神社の奥の祭壇に、自分の名前が刻まれているのを見た。
だが、それはすでに“塗りつぶされていた”。
そして、代わりに別の名前が浮かび上がっていた。
「ヲトコヒメ」
それが、巫女の名前だった。
いや――
正確には、「名を喰った存在に与えられた名の形骸」。
その夜、町に“血の雨”が降った。
十七年ぶりの雨。
だが、それを浴びた者たちは――
自分の名を呼ぶことができなくなった。
•
最後に、ユナは見た。
母が風呂場に佇んでいた。
赤い水が満ちる中、母の腹が裂けていた。
そこから生まれていたのは、自分と全く同じ顔をした胎児だった。
その胎児は、こう囁いた。
「名を持っていたのは、あなたじゃなかった。
本物の“あなた”は、もう水の中。」
•
ユナが絶叫した瞬間――
町全体から、“水を否定する音”が消えた。
**
だが、その音は、海の底で胎動していた。
胎内から、新しい“名のない声”が――
世界を孕もうとしていた。