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「記名と肉のズレ」

昼休みのチャイムは、鳴らなかった。


教室に満ちる沈黙の中で、ナミが立ち上がった。

誰にも呼ばれたわけではない。だが、誰にも咎められなかった。


ナミは黒板の前に出て、チョークを持った。

その手は、びしょ濡れだった。袖からも、鞄からも、水音が滴っていた。


そして彼女は、自分の名前を――書けなかった。


書こうとするたびに、チョークが砕けた。

白い粉が床に落ちるたびに、教室中に水のにおいが漂った。

潮の香りではない。もっと濃密で、生臭い、羊水のようなにおいだった。


ナミは首をかしげた。


「わたし……ナミ、でよかったっけ?」


誰も答えなかった。

ユナは、冷や汗をかいていた。なぜなら――


ナミの“顔の輪郭”が、揺れていたからだ。


水の中にあるように、歪み、脈打ち、時折別の顔が浮かび上がる。


それは、確かに“ミカ”の顔だった。

その奥には、“ミカの妹”の顔も見えた。

“担任の娘”の顔も、“行方不明になった給食のおばさん”の顔も。


それらが、順番に浮かんでは、消えていく。

まるで、水槽の中に幾重にも沈んだ顔の記録だった。


「水、いる?」


ナミがそう言ったとき、ユナの背筋が凍りついた。


ナミの手にあったのは、水筒だった。

けれど、その中には“水”ではなかった。

溶けた言葉だった。


透明な液体の中に、誰かの筆跡がゆらゆらと揺れていた。

「こ」「ど」「も」「が」「み」「て」「る」


「……飲むと、忘れられるよ」


ナミは言う。笑っている。

だが、その唇は裂けていた。耳のすぐ下まで。

笑顔の“定義”そのものが、崩れていた。


その日、学校で奇妙な出来事が起きた。


出席簿に、見知らぬ名前が一つ、追加されていた。

誰の字でもない。担任も覚えていない。

だが、それが誰の仕業かを問う者は誰もいなかった。


その名前は「イオ」と読めた。

だが、次の瞬間――出席簿の“ユナ”の名前が消えていた。


「……わたし、いたよね?」


ユナがそう言うと、周囲の視線がぴたりと止まった。


そのときだった。


教室の後ろ、誰も座っていないはずの席に、少女がいた。


濡れた黒髪。肌の色は蒼白。口元に、無数の針金のような糸。


彼女が微笑んだ。

だが、そこにあったのは“ユナの顔”だった。


「名前、いらないよ。名を持つから、肉が分かれるの」


「あなたの皮膚、まだ剥がれてないんだね。もったいない」


そう言って、彼女はユナの名前をそっと口にした。


「ユ……ナ」


その瞬間、ユナの背中に――水脈のようなヒビが走った。

まるで皮膚の内側から、水のようなものが流れ、“名前と肉体の接合部”が剥がれ始めた。


放課後、保健室に運ばれたユナの身体は、異常がなかったと診断された。


だが、ユナ自身が“自分の身体を見ている感覚”がなかった。


鏡を見ると、見覚えのない少女がこちらを見ていた。


彼女は言った。


「ユナ、って名前、素敵だった。……でも、返すね」


鏡の中の少女は、そう言って――“自分の喉を裂いた”。

どくどくと血が流れ、床に滴った。


だが、血ではなかった。


それは、“黒い水”だった。


水は、鏡の中から染み出し、ユナの足元を濡らした。

そして、どこからか、“胎動するような音”が聴こえた。


ぐちゅ……ぐぷっ……ぴちゃ……


水は、名を記憶していた。

水は、名を返してくれない。


名を呼ばれるたび、ユナの身体はズレていく。

存在が、水に“剥がされていく”。


その夜。


ユナは再び夢を見る。


胎内に戻る夢。

無音の水に沈んでいく夢。


そこには、ナミがいた。

笑っていた。

血のような水を全身に纏いながら、彼女はこう言った。


「ようこそ。“名を持たないものの胎内”へ。

 あなたの声は、まだ産まれてないの。

 まだ、誰にも呼ばれていない。

 だから――斬ってあげるね」


ナミの口が裂け、指が水に変わり、

ユナの喉へと伸びてきた。


そして、目覚めたとき――

ユナの“名前を記した紙類”がすべて消えていた。


学校の名簿、保険証、母の口からも。

誰一人、彼女の名前を呼べなかった。


水は、確かに“名を喰った”。


家の風呂場から、水音が聞こえる。

覗くと、風呂の湯が“心音のように脈打っていた”。


その中心には、まだ生まれていない――ユナ自身の胎児の姿が沈んでいた。


その胎児は、目を開けた。

そして、笑った。


「……返して」


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