第1章:『水音なき胎内』
風が吹いていない。
夕暮れの坂道に立っても、肌を撫でる気配は一切なかった。まるで風そのものが“死んで”いた。
ユナは額に浮かんだ汗を拭わず、町を見下ろしていた。潮の香りもしない。海はすぐそこにあるはずなのに、水気のかけらも漂ってこない。
その代わりに――
誰もいないはずの道の奥から、ずるり、と濡れた何かを引きずる音が聴こえた。
「……まただ」
彼女は、見なかったことにした。
そう教えられてきたからだ。
この町《幡倉》では、“水にまつわる音”を聞いてはならない。
見てはならない。気づいてはならない。
水は“思い出してしまう”から。
だから、耳を塞いで歩く。目を伏せて暮らす。声を潜めて眠る。
それが、この町で長く生きる術。
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父が姿を消したのは、先週のことだった。
その夜、家の台所から水音がした。台所の蛇口は閉まっていた。水道は引かれていない。風呂も溜めていない。なのに、確かに水音がした。
ユナがそっと覗いたとき、そこに父の姿があった。
だが、父はなぜか――真っ黒い液体を吐きながら、自分の腹を開いていた。
音を立てずに。悲鳴ひとつ上げずに。
内臓を、まるで紙くずのように引き出しては、床に並べていた。
それが“意味ある順序”であるかのように。
「これが……水、か……」
最後に父がそう呟いたとき、ユナはその場から逃げた。
振り返ったときには、台所には何もなかった。血も、臓物も、父も。
それ以降、水の音が町中で頻繁に聞こえるようになった。
だがそれは、誰にも聞こえていない。
聞こえている者は、全員「聞こえていないフリ」をしているだけだ。
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学校でもおかしなことが続いた。
理科室の水槽に、魚がいなくなった。
代わりに、人の目玉が三つ、浮いていた。
それを見つけた担任教師は、何事もなかったかのようにフタをした。
「今日は、観察は中止にします」
そう言って笑った。
歯がすべて、ガラスのように透き通っていた。
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ユナの母は、毎晩同じ夢を見ているという。
夢の中で、母は“水の中で出産する”。
だが生まれてくるのは人間ではない。顔のない肉塊。
それは産声を上げず、ただこう囁く。
「この名、返して」
ユナは何度も止めたが、母はある夜、風呂場で膝を抱えて泣いていた。
その風呂の水は、透明ではなかった。
血のように赤く、時折“何か”が胎動するように揺れていた。
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ある日、同級生のミカが突然いなくなった。
誰も騒がなかった。誰も捜そうとしなかった。
黒板に名前が残っていた。
だが、次の日の朝には**“その文字が歪んでいた”。**
「ミカ」という名前が、「ナミ」になっていた。
ミカの机に座っていたのは、“ナミ”という知らない少女。
だが皆は、当然のように彼女を受け入れていた。
ユナだけが気づいていた。
ナミの瞳は常に濡れていた。だが、それは涙ではなかった。
黒い。どす黒い液体が、瞳孔の奥から常ににじみ出ていた。
ナミが言った。
「ユナちゃん。……水に名前を返しなよ。そしたら、楽になれるよ」
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その晩、ユナは夢を見た。
自分が胎内に戻っていく夢。
あたたかく、柔らかく、どこまでも沈んでいく。
誰かが名前を呼ぶ。
「ユ……ナ」
けれど、呼ばれるたびに――
皮膚が剥がれていく。目が潰れていく。声が反転していく。
「ユナじゃ、ない」
水がそう言った。
水が、名を否定した。
•
目覚めたとき、ユナの耳元には“濡れた呼吸音”があった。
窓の外は――
雨が降っていた。
**
それは、この町にとって、**“最も起きてはならない現象”**だった。
水が、戻ってきた。
あの胎内から。