6 さぞ稀代な物なのだな
純佳に用意された寝床は聖者たちの屋敷から十五分ほど歩いた先にあった。本屋敷から離れてはいるが、シュモンによればここも聖者本部の一部らしい。京都に旅行した際によく目にした、離れのようなものだと純佳は解釈することにした。
こじんまりとした家屋は純佳の解釈に近く、どこか懐かしさを覚える風貌だった。だが実際中に入ってみると、異国にある古代神殿のような洋風な設えで整えられており、純佳は異世界に来てしまったことを改めて思い知らされた。
部屋の中央に置かれていた透けた石で造られた椅子に落ち着いた純佳は、シュモンにこの世界について簡単な説明を受けた。
ここは常世と呼ばれる場所で、神や使者、悪魔、聖者といった、それぞれの役割を持つ者たちが暮らす世界だという。常世の主な役目は現世における生命の発展に添い遂げることらしい。要は現世は、彼らにしてみれば壮大な実験場、観察対象という位置づけだ。常世に住む者たちは神々が創造した世界の行方をその御意思に従って見守り、早々に崩壊することがないように均整を保つことが本来の務めのようだ。
聖者は中でも数が多く、一番現世に近いところで生命の成り行きを見つめているという。シュモンの説明を聞いた純佳は、ようはゲームや創作世界で頻出する天界っぽい場所だと思うことにした。
現世のどの場所にも属さない彼らは相手の話す言語はなんでも理解できるし、彼らの話す言葉は相手に馴染んだ言語に変換されて聞こえてくるらしい。どうりで意思疎通に苦労しないわけだ、と純佳は納得した。
しばらくこちらで過ごすことになる純佳が気になったのは食生活だが、常世では現世の生活を模倣するのが時折流行になるらしく、もともと常世産の果実を食べていれば問題のない彼らも、今は現世と同じ食事を楽しんでいるという。
食生活には不便がなさそうだと安心した純佳は、ここでどっと疲れが押し寄せ、そのまま眠りについてしまった。目覚めたのは何時間後か分からない。そもそもこの世界の時間の概念すらまだ把握できていない。全ては夢だったのではないかと思いながらも窓の外に目を向ければ、純佳を迎えに来たオヌとシュモンが歩いてくるのが見える。夢ではなかった。純佳は慌ててベッドから出て、寝癖がついた髪を整えた。
「死神様、お迎えに上がりました」
シュモンの声が扉越しに響く。
「さぁおいで下され。魔王殿が貴方様をお待ちだ」
トントン、と扉を叩く音こそ優しいが、オヌの語調は少々荒い。さっさと支度して出て来いとでも言いたげだ。幼い顔つきに似合わず、彼は案外スパルタなのかもしれない。
化粧を落とさず寝落ちしたのは不幸中の幸いか。
「お、お待ちを……‼」
慌てるあまりオヌの口調が移ってしまった。
しばらく美容院に行けていなかった伸びた髪を一纏めにし、純佳はどたどたと騒々しい音を立てながら、昨日シュモンが置いていった服に着替える。
用意されたのはシルクのような手触りの深緑の細身のワンピースと、分厚い生地で仕立てられた重たい濃紺のマントだ。ワンピースの足元に入った深いスリットを隠すようにマントを羽織れば、流水を模した美しい紋様がキラリと煌めいたように見えた。
鏡の前に立てば、そこに映るのが自分ではないようで落ち着かない。純佳は枕元に置いていたスマートフォンを握りしめる。スマートフォンのバッテリーはほぼ尽きている。今やただの長方形の板だ。現世ではスマートフォンさえあればどうにかなることが多かった。が、そんな万能機器もこの世界では役に立たない。けれど例え何の意味をなさないとしても、いつも肌身離さず持っていたスマートフォンを手にすると少しばかり安心できる気がしたのだ。
これから魔王に会いに、彼の館へ行く。
死神は魔王の館で暮らしていたらしい。つまり、聖者の領域にいられるのもこれまで。
シュモンは大丈夫と言っていたが、もしかしたら一瞬で燃やし尽くされてしまうかもしれない。純佳は鏡に映る自分の顔を眺め、唇を強く結んだ。
これで最後かもしれない。もし最悪の展開を迎えても、やれることをやろうとした結果。どうか最期くらいは自分を褒めてあげて。
不安で足がすくみそうになる自分にそう言い聞かせ、純佳は深呼吸してから扉を開けた。
「お待たせしました。さぁ、行きましょう」
死神は、こんな口調でいいのだろうか。
死神としての第一声を発した純佳は弱弱しい自分の声に自信を失いかける。
「それは、持っていかれるのですか?」
しかし待ち構えていたシュモンとオヌは違うところで違和感を覚えたらしい。シュモンが純佳の手に大事そうに握られたスマートフォンを指差して訊ねる。
「あっ、これは──現世で手に入れた、貴重な思い出なので」
「ほお。ただの黒い板のようではあるが、何やら意味を成す物なのですな。シュモン、これについては何か知らぬのか」
「存じ上げませんね」
「ほう。お主も知らぬとは、さぞ稀代な物なのだな」
オヌが興味津々に純佳の手にあるスマートフォンを覗き込む。咄嗟に出てきた適当な言い訳ではあるが、彼はそんなこと気にもしていないようだ。というより、現世の生活を模倣するのが流行なのに、スマートフォンのことは知らないらしい。現世ではスマートフォンはどこにでもありふれていて、珍しいなんて言われる方が違和感があるのに。スマートフォンの存在を知らずに今の人類の何が分かると言うのか。ちょっとした疑念を抱きつつ、純佳は愛想笑いを浮かべる。
「ではさっそく参りましょうぞ。魔王殿のしもべたちにはすでに死神様の御来着は伝えてある。大層に驚いておったが、大急ぎで出迎えの準備をしたと申していた。吾が貴方様を魔王殿の元へお送りしよう。魔王の館には入れぬが、シュモンが入り口まで貴方様を護衛する。それで良いか」
「はい」
「よし。では参ろうぞ」
オヌはスマートフォンに向けていた好奇の瞳で純佳を捉え、永延と続く落ち葉の道を先導して歩き出した。
「あの」
「どうした」
オヌに続こうとするシュモンの袖を掴み、純佳はスマートフォンの真っ黒な画面を彼に見せる。
「どうしてこれのことを知らないの? これ持ってたら変かな。死神っぽくない?」
「その無機質な板は命の発展にそこまで影響はないものなのだろう。ならば僕たちの興味の範疇じゃない。この世界ではそんな奇妙なものは持ち歩かないからちょっと変だけど──死神様なら何をしてても文句言う奴なんかいないさ」
「じゃあなるべく隠すようにする」
あまり目立つ真似はしたくないと、純佳はポケットを探す。が、今の服にはそのようなものはなかった。仕方なく、純佳はスマートフォンを手に持ったままオヌから距離を置いて歩く。高まる緊張を誤魔化すためにもシュモンと話をしていたかったのだ。もちろん、オヌには聞こえないように。
「魔王、怒らないかな」
「心配ない。今のところ皆、死神が君だって信じてる。うまくいってるよ」
「──不安だな」
「そう暗い顔をするな。別に魔王様と死神様も喧嘩したわけでもなさそうだし」
「そうなの?」
「噂はそう言っている。魔王様はそこまで器が小さいわけじゃない。この常世でも唯一の存在である魔王を担っている御方だからね、寛大で、優雅で、勇ましい御方さ」
「勇ましい……」
「怖がるな。怖がらせるために言ったんじゃない」
身振り手振りで魔王の偉大さを伝えようとしていたシュモンだが、純佳には真意が伝わっていないことに気づきつまらなそうに軽く頬を膨らませた。
「ようは、わたしが死神になりきって二人を仲直りさせればいいんだよね」
「だから喧嘩したわけじゃ……」
「死神ってどんな話し方をするのかな。この服装から想像するに、女王様っぽい感じ?」
「……よく分からない」
アニメで見るような典型的な悪役っぽい女王様の真似をしてキメ顔をすると、シュモンは引きつった笑みで首を傾げる。
「自然体でいいんじゃないか。魔王と死神の付き合いは長い。その間に人格が変わることだってあるだろうし」
「何百年って付き合い?」
「君が想像するよりもずっと長い」
「そっかぁ。そりゃ、性格も変わっていくかもね」
「おまけに死神様は現世帰りだ。そっちの色に染まっている方が自然に思わないか。スミカにはぴったりだろ」
「なるほど。ちょっと自信が湧いてきたかも」
強張っていた心が僅かに緩んだ気がして純佳はぴょんっと小さく飛び跳ねた。
「わたし、死神っぽい?」
「僕はそう思う」
「ふふ。ありがとう。あ、ねぇ、魔王と死神の付き合いがとんでもなく長いってことは聖者も長生きだよね。シュモンは今何歳なの?」
「数えたことない」
「ええええ。老けないの羨ましい」
「何を言う。進化は生命の特権じゃないか」
シュモンが逆に純美を羨ましそうに見つめてくるので、純佳は急いで目を逸らした。底知れぬ青に囚われてしまったらそれこそもう現世に帰れなくなる予感がしたのだ。
「魔王の館って、遠いの?」
ぎこちない純佳の問いにシュモンは前を歩くオヌを見やる。
「いいや。もうすぐ着くよ」
「えっ。聖者の領域から近くない?」
純佳が驚くと、シュモンがオヌを指差して微笑む。数メートル先で立ち止まったオヌは、地面に向かって片手で円を描き、落ち葉を払っているところだった。落ち葉が消えた地面は鮮やかな光のグラデーションに輝き、オヌがまるでオーロラの上に立っているように見えた。
オヌはオーロラを見下ろしたまま、今度は片手で十字を二度切る。するとオーロラにヒビが入り、メキメキと音を立てながら地面を割り、下へ下へと階段を作っていく。階段が伸びるにつれ、美しいオーロラは徐々に黒の混じった不穏な色合いに変化していった。
「あれは──?」
「魔王の館への入り口だ。とても歩いて行ける場所にはないし、飛んでいくにも果てしない。だから聖者の屋敷から離れた場所に、ああやってこちら側から道を作る。道を作ることができるのはオヌやイルみたいな上層部だけ。でも実は僕も勉強中で。そろそろできるようになるかもしれない」
「シュモンって凄いんだね」
「これは是非鍛えたいと思っていたから。どう? 僕って伸びしろしかないだろ」
「だからこそ、こんなわたしにお願いをするんだもんね?」
「そう。君には期待してる」
「出会ったばかりなのに、変なの」
「僕は変とは思わない。むしろわくわくしてるくらいだ」
やはり彼は変わっている。
純佳は妙な期待にはにかみつつ、彼の調子に流されないようにスマートフォンを握りしめた。
「さ、僕が来れるのは今はここまで。この先は、お頭と一緒に行くんだ」
「──うん」
「案ずるな。またすぐに会いに行く」
シュモンは純佳のマントの襟元を整え、とんっと肩に手を添えて微笑んだ。変わってはいるが、勇気を与えてくれるのは確かだ。純佳はシュモンの青き瞳を真っ直ぐに見つめ、力強く頷く。この青は決して、見る者を魅了し捕らえるために澄んでいるのではない。希望を分け与えるためのものなのだ。
そう思い直し、純佳は力を振り絞って笑ってみる。本当は足が震えていた。それでもきっと、彼がいれば大丈夫だと自分を都合よく勘違いさせたかった。
「行ってきます」
シュモンと別れ、純佳はオヌに連れられオーロラの階段を下って行った。




