4 それは……魔王のせい?
ここに来てから肯定より否定することの方が多い。
ぼんやりとそんなことを考えながら、純佳は案内された広間の大きなソファらしきものに腰を掛ける。否定ばかりしていると自分らしくなくてなんだか変な気持ちだった。
「さて、召喚してすぐに醜いものをお見せすることになってしまったことを謝ろう。死神様にはさぞ見苦しい光景だったに違いあるまい」
向かいの座布団に正座で座り込んだオヌが苦々しい顔をする。純佳は隣に座るシュモンをちらりと横目で見やった。視線に気づいた彼の青い瞳と目が合い、純佳は恥ずかしそうに肩をすくめて慌てて正面に視線を戻す。
オヌたちに連れられてやってきたのは純佳にしてみれば古代神殿のような出で立ちの建物だった。しかし中に入れば平安時代の貴族が暮らした日本古来の屋敷のような光景が広がっていた。
純佳はどこか懐かしさを感じる和の佇まいに不思議な感覚を覚える。ここまで来る道も黄金のレンガが続くだけで、周りには落ち葉しか広がっていなかった。そこにぽつんと現れたこの屋敷。どうやらここが聖者たちの集う場所らしい。拠点、と言った方が分かりやすいかもしれない。就活的発想に染まっている純佳は、ここを聖者の本社だと解釈することにした。
オヌとイルが座布団に座っているせいか、ソファらしき柔らかな座椅子にいる自分たちより彼らの視線は低い。なんだか見下すような形であまり居心地は良くなかった。本来はシュモンも座布団に座る立場らしいのだが、純佳が隣にいて欲しいとお願いしたことで彼も自分の上司である(純佳が勝手にオヌとイルを上司だと判断した)オヌたちを見下ろす形になってしまった。そのせいもあり、シュモンもあまり居心地が良さそうではなかった。
どことなくそわそわした様子のシュモンに申し訳なさを覚えつつ、純佳はオヌの話に耳を傾ける。
「あの場で字鬼が襲来するとは。あちら側もなんとなく違和感に気づいたのであろうか」
「どうでしょう。あの御方もまた、繊細な者という噂がありますゆえ。とはいえ今は、字鬼を扱う気力もないのでしょうし。そのせいで字鬼たちも暴れ放題だ」
イルの装束からはどす黒い血がすっかり消え去っている。出会った時と同じ、高級感の漂う美しい絹の艶めきが蘇っていた。オヌやシュモンも同じく装束の汚れが綺麗さっぱりなくなっている。ここに来るまでの間に着替える余裕もなかったのに、いつの間に消えていたのだろう。汚れがないことに気づいた純佳は驚きで目を丸くした。
「まぁよい。本題に戻ろう。死神様、この度我らが貴方様を召喚した理由、もうすでに察しがついておられるであろう」
「──えと」
「魔王様のためですよね」
純佳がどもるとすかさずシュモンが口を開く。
「まだ現世との切り替えに戸惑っておられるかもしれないので補足いたします」
「おおシュモン、本当に今日は調子が良いようじゃあないか……」
「先ほどの撃退で少し気分が昂っておりますので──えーと、そうですそうです、死神様、まず私たちのことご存知でしたでしょうか」
「……聖者?」
「さすが死神様! そうでございます! で、えっと、私たちは普段貴方様が過ごされる領域とは異なる領域で活動しているのでこれまで接点などなかったですよね。なので私たちも、貴方様に直接お目にかかるのは初めてなのです──お互いにね」
シュモンは純佳の理解が少しでも進むよう、丁寧に解説しながら話を進めていく。彼の話で純佳もオヌたちが自分のことを死神だと信じてしまう理由が分かった。彼らは死神の顔、姿を一切知らないのだ。そこで自分たちが召喚した相手が死神だと思い込んでしまったようだ。
「まさかこのような形でお目にかかることになるとは思いもしませんでしたが、もう私たちで常世の均整を制御するのにも限界が来ているのです」
「それは……魔王のせい?」
「いかにも」
純佳の言葉にオヌが前のめりになって頷く。幼い顔つきには少々不釣り合いな泰然とした面持ちだった。
「貴方様が現世へ参ったことで魔王殿の機嫌は時が進むごとに悪化の一途を辿るばかり。貴方様に愛想を尽かされたのだと、無意味に怒り散らかしていると聞く。機嫌を損ねた魔王殿は常世の均整を守る役目を放棄し、字鬼があちこちで好き勝手に暴れる始末。魔王殿に課せられる試練の時も近い。だがこのまま魔王殿があの調子では試練に耐えられぬ。そうなれば常世は崩壊するのみ。さすればいずれ、追いかけるように現世も終わりを迎える。終幕を下ろすにはまだ早いというのに」
「本来、字鬼は魔王様が手綱を握っているんだ。出来損ないの悪魔だからさ。地獄の門番の落ちこぼれ。憐れだろ」
シュモンが純佳にだけ聞こえるように囁く。純佳がぽかんとした顔をしていたからだろう。しかし純佳が間の抜けた顔をしていたのは字鬼以前の話だった。とはいえここは黙って話を聞くしかない。純佳は弱弱しく一度頷いた。
「魔王殿が勝手に機嫌を損ねているのは重々承知。貴方様のせいではないと我々は考えている。しかし実際のところ、魔王殿は貴方様がお戻りになられぬ限り機嫌を直すことはないのが分かりきっている。魔王殿にとって貴方様ほどの存在はおられぬ。だからどうか、我々からの願いを聞き入れていただきたい」
「えっと、その……願いとは……?」
「いかにも。機嫌を直すよう、魔王殿を嗜めては下さらぬか」
「…………は?」
オヌの真剣な眼差しは本物だ。食いしばるような面持ちで頭を下げ、イルもそれに続く。彼らは本気で、魔王様とやらの機嫌を直してもらうために死神を召喚したらしい。
「え?」
純佳は思わず指先で口を押さえる。空気的に明らかに言ってはいけないことを口走ってしまいそうだったからだ。後で話を聞いてくれそうなシュモンが隣にいるおかげもあって、張り詰めていた純佳の心持ちもすっかり緩み始めてきていた。
それではまるで癇癪を起こした幼児を泣き止ませる保護者みたいではないか。魔王とは、そんなにも幼く、我儘なものなのか。正直言ってくだらない理由すぎる。死神が例えば魔王にとって恋人みたいなものなら、喧嘩してフラれて拗ねてるだけじゃん。
純佳は頭に浮かんだ言葉を抑え込み、僅かに肩を震わせた。彼らが冗談で言っているのではなく真剣なのは分かっている。きっと必死なのだろう。それでもやはり、なんだかコントの世界に入り込んだ気分だった。
「貴方様にしかできぬことです、死神様。どうか願いを聞き入れていただけぬか」
「えー……っと」
答えに困り純佳は再びシュモンを横目で見やる。
どう考えても聞き入れたくはない。魔王がキレていようが正直関わりたくない。まず厄介なのは確実。世界が終わると言われても終わるならそれまで。自分にどうにかできる次元をゆうに超えているし、それで世界が終わってしまうなら仕方がない。そもそも自分が今生きているのか死んでいるのかも分からないし。というかまず前提として人違いだし、そんな気難しい魔王の前に見ず知らずの自分が死神ですと名乗りに行ったらそれこそブチギレで世界は早々に終わる。
もちろん断りたい。溢れ出る数々の感情をひとまず隅に置き、純佳は視線だけでシュモンにそう訴えかけた。
シュモンは純佳の意思を感じ取ったと言わんばかりに力強く頷き、威勢よく声を張った。
「ありがたいことです! お頭、死神様は願いを聞き入れてくれるようです‼」
「はぁッ⁉」
シュモンの清々しいまでに爽やかな笑みに向かって純佳は思わず食いかかる。
「ちょ、ちょっとちょっと、違う違う違う違う……!」
シュモンの肩を掴んでぐらぐら揺らすも、彼は前を見据えてニコリと笑ったままピクリとも表情筋を動かさない。まるで純佳の声が聞こえていないかのようで、完全に無反応だ。純佳の訴えは虚しく天井に吸収される。すでにオヌとイルの顔は晴れやかに輝いていた。
「なんと有難きことか! 死神様、まことになんと御礼を伝えれば良いか悩んでしまう」
「ちが……」
「これで常世も現世もまた均整を取り戻せますね! お頭、慣れない召喚作業でしたが我々の労が報われました! 我らもやっと……やっと本来の使命に戻れるかもしれません!」
「おお本当に……! ここしばらくずっと暗闇にいた気分であった。皆の士気も下がり、常世がまるで違う場所のように思えた。これまで紡いだものすべてが無に還されるかと思うと気が気ではなかったが……ようやく、我らにも救いの道が見えてきた」
オヌとイルは抱き合って喜び、イルに限っては涙まで流している。大喜びする二人の無邪気な笑顔を見ていると純佳の口もだんだんと重くなっていく。
「ありがとう死神様。貴方様への御恩は、以来、永久に、忘れられることはない」
「──はい」
吸い込まれそうなほどの輝きを放つオヌのオレンジの瞳に満ち溢れた幸福感を前に、純佳はただ頷くことしかできなかった。
しゅん、と元気を失くした純佳の肩をシュモンの瞳が凪のように静かに見守っていた。