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31 ああ、しくった


 「本当によろしいのですか」


 空の向こうに伸びる階段に一歩足をかけた純佳の背中にヒノメが問う。

 純佳が振り返ると、ヒノメは訝し気な表情でこちらを見ていた。


「大丈夫。わたしの正体を知っている聖者に会いに行くだけだから。たまには近況報告しないとなって思って」

「報告など──それに値する何かがございましたでしょうか」


 顎を引いたヒノメは深い声を出して指先で顎を撫でる。


「あたしには心当たりがありません」


 ヒノメの涼やかな瞳が純佳を映す。彼女の切れ味の良い眼差しに一瞬怯みそうになったが、純佳はなんとか持ちこたえることができた。


「ほら、魔王の調子が少しずつ戻ってきてるでしょう? だから試練も乗り越えられるかもしれないって思って。ついでに何かアドバイスとか貰えないかなーとも期待しつつ」

「聖者に助言を? 試練など彼らには無縁な事なのに何か助けになる情報など持ち合わせているのでしょうか」

「聞いたことないだけでもしかしたら持っているかもしれない。ひとまず外出についてはガルの許可も得たし、息抜きに館の外の景色も見てみたいから」

「息抜きは必要ですが、本当にあたしが御伴しなくてもよろしいのですか」

「うん。ヒノメは毎日ずーっとわたしたちのために働いてくれているでしょ? ヒノメこそ休まなきゃ。本物の死神に、ヒノメを酷使しすぎだって叱られちゃう。ガルにお願いして聖者の領域への案内図は貰った。これがあれば問題ないよ」

「魔王様、よく聖者の領域へ行くことを許可されましたね」

「う……っ、そう、意外だったけど、常世に呼び戻してガルと再会させてくれたお礼を言いたいってお願いしたら、悪い気はしなかったみたい」


 鋭い指摘に純佳が笑顔を取り繕うと、ヒノメは純佳の顔を吟味するように眺めた後で、ふっと目元を緩める。


「お二人の仲が順調なようでそちらは安心いたしました。やはり死神様は魔王様の特別な存在であることに変わりないようです」

「う、うん! そうみたい。ありがたいことだよねぇ」


 純佳はヒノメの疑念がひとまずは離れたことに安堵し不器用に笑う。


「それではお言葉に甘えてあたしも今日はゆっくりしたいと思います。ですが魔王様のお力がまだ字鬼の制御には不十分なのも事実。十分にお気をつけてください。何かあれば聖者を盾にしてでも逃げて良いのですよ」

「はは……参考にさせてもらうね」


 ヒノメのドライな助言に親指を立てて返事をし、純佳は階段を上り始める。

 右手の薬指にはガルチ、もといシュモンに貰った指輪が光っていた。飾りもないシンプルな黄金の指輪だ。形こそは蔦を模しているが、それ以外にとりわけ特徴もない指輪。これこそが聖者の住む領域への案内図だ。聖者の頃の記憶を取り戻したシュモンが魔王の身体に宿った力を借りつつ繕ってくれた。会いたい人を頭に思い浮かべて拳を握りしめれば、この指輪が必ずその人の元へ連れて行ってくれるという。

 魔王ガルチと聖者シュモンが入れ替わっていることはまだ純佳以外は誰も知らない。ヒノメですらもただ魔王と死神が仲直りしたと思い込んでいる。幸いにも死神と魔王が親密な関係でいるのは悪魔や妖精たちにとっても嬉しい状況だ。二人が秘密裏に動いていても誰もそれを咎めたり疑うことはない。そのような空気が味方となり、二人は本物の魔王に会うための計画をこっそり話し合うことができた。


 そして今日は実行日。シュモンの身体を借りている魔王に会い、説得するために純佳は久しぶりに魔王の館の外に出た。

 見上げた時には果てしなく見えた階段の終わりももうすぐそこ。シュモンの皮を被った魔王に何を言おうか試行錯誤していれば、これくらいの距離はあっという間だった。

 足元に広がる黄金の落ち葉を見つめ、純佳はすうっと息を吸い込む。初めて常世に来た日がもうずっと前のことのように思える。はじめにこの階段を下りた時には、世界の終末を食い止めることよりも自分が元の世界に戻れるかの方が重要だった。しかし今は、身体を巡る血のすべてが世界を救うことを望んでいる。使命感と言えば聞こえはいいが、純佳にはその感情はある種の意地に近い。死神として以前とは違う視点で現世を見てきた。自分はただ代行で仕事をしていただけで別に神になったわけでもない。だが例え神ではなくとも世界を救いたいと望んでも良いはず。目の前に迫った終末を拒み、反抗する選択は神にだって止める権利はない。

 純佳は昔よりも少しだけ大きくなった心で前を向く。


「しゅも……ガルチに会わせてください」


 右手を握りしめ、純佳はゆっくり瞼を閉じた。彼女の祈りが指輪に届くと、指輪が蔦が這うように純佳の指にぐるぐると巻き付いていく。そのうちに黄金の蔦が全身を取り囲み、純佳を望む場所へと導いていった。

 眩い光が収まるのを待ち、純佳は恐る恐る瞳を開ける。すると、数メートル先の大木の下で呑気に昼寝をしている青年の姿が見えてきた。大木には黄金の葉が実り、さらさらと絶えず葉を落としながらも決して減ることがない。

 見渡す限りに永延と敷き詰められた落ち葉はすべてこの大木から流れてきたものなのだろう。現世に置き換えれば、きっとこの大木は数億年の時を過ごして来たに違いない。それほど迫力のある力強い存在だった。


 恐らく今後二度と目にする機会はないくらいに立派な大木に気を取られかけた純佳だったが、今はその下で気持ち良さそうに眠る青年に用事がある。本来の目的を思い出し、純佳は気を取り直して深呼吸する。

 まさに天使の寝顔で穏やかに眠る彼こそが本物の魔王、ガルチなのだ。

 彼の素顔を純佳も未だ知らない。彼に関しては未知数なことばかり。もしかしたら話も通じないとんでもない性格をしている可能性だってある。はたまたただ刺激的な悪戯が好きなだけの紳士かもしれない。様々なパターンを思い描きつつ、純佳はたった一つの信念だけを胸にシュモン、もといガルチに近づく。

 すやすやと眠る聖者の顔は最後に会った時と変わらず邪気もなく美しい。その堅実な寝顔の下に魔王の表情を隠しているなど誰も気づかないだろう。


「シュモン」


 彼の隣に座った純佳はそっと手を伸ばし肩をゆすってみる。しかしよほどぐっすり眠っているのかなかなか目を覚まさない。


「シュモン……シュモンってば!」


 さらに力を込めて肩を揺らすと、そこでようやく聖者の唸り声が聞こえてくる。


「ガルチ‼」


 純佳が声を強めて彼の名を呼ぶと、さっきまでの熟睡が嘘のように聖者の瞼がパッと持ち上がった。


「おお。なんだなんだスミカじゃないか。どうしてここにいる。まさか僕に会いに来てくれたのか?」


 聖者は目覚めたばかりとは思えないほど澄み渡った瞳で純佳を見上げる。


「もしや魔王の館を抜け出したのか。何か問題でも起きたりした?」


 ガルチの名で目覚めたことに自覚がないのか、まだ彼はシュモンの態度で純佳に接していた。和やかで憎めない微笑みが、元来の彼の自信を模っているようだった。


「──あなたに会いに来たの」


 純佳を心配する素振りを見せる聖者に対し、純佳は凛とした姿勢で挑む。


「僕に? どうして?」


 首を傾げる聖者は自分を指差してきょとんとする。感心するほどに自然な仕草だった。何も知らない無垢な表情で、自分の正体がバレているなど思いもしない様子だ。

 しらじらしい彼の態度に純佳はむっと眉間に皺を寄せる。


「どうしても何も、あなたが魔王だからでしょ」

「は……?」


 聖者は自分に向けていた人差し指をくにゃっと力なく曲げて瞬きする。


「誤魔化しても無駄。あなたはシュモンじゃない。本物のシュモンが記憶を取り戻したの。魔王が何故弱体化したのか、理由はあまりにも単純だった。あなたが聖者と中身を入れ替えたから。他人の身体じゃ、能力なんてうまく使いこなせない」

「……スミカ、なにを言って」

「ガル! わたしには人の心なんて読めない。だからなんであなたがこんなことをするのか分からない。でもお願いだから、わたしたちの世界を犠牲にしないで! 元に戻って、試練を乗り越えてもらうことはできないの?」

「魔王様に何を言われたのか知らないが、あの魔王様だぞ? 彼が嘘をついて君を騙し楽しんでいるとは思わないのか。どうして僕が魔王様だなんて言えるんだよ」


 純佳の懇願に聖者は困惑した表情を浮かべて彼女の肩を掴む。まるで狂った純佳を宥めようとする動作だが、純佳には今の魔王、シュモンを信じるだけの根拠があった。聖者の手を払い、純佳は毅然とした態度で応える。


「あなたは前に字鬼を追い払った。それも一撃で。まさに鶴の一声だった。オヌやイルですら滅多にやらないことをあなたはいとも簡単にやってのけた。あの時は何も思わなかったけど、よく考えれば異様なことだった。それに、字鬼を思うままに制御できるのは魔王だけ、そう教えてくれたのはあなただった。つまりあなたは単なる聖者ではなく、何かしら特別な力を持つ存在。しかもそれが魔王だって言われたら、すごく納得ができるんだけど」


 手を払われたことに驚き丸くなっていた聖者の瞳が、純佳の推論を聞くうちに爛々と輝いていくように見えた。問い詰められているにも関わらず嬉々とした表情に移り変わる彼の姿に純佳の胸には緊張が走る。しかし、目を逸らしたら負け。何故かそう思い込んでいた純佳は彼から目を離すことなく瞬きも疎かにじっとその瞳を睨み続けた。すると。


「ああ、しくった」


 聖者の顔つきが一瞬にして切り替わった。


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