3 きっと僕のせいだ
相手が喋る言葉の意味が理解できなかったのはこれが初めてのことだったかもしれない。例えばそれが外国語とか、動物の言葉だったら経験はある。しかし相手の喋る言葉のすべてを聞き取れたのに、頭で処理が出来なかったのはこれまで覚えがない。
純佳は一瞬だけ間を置き、思うよりも小さな声で呟く。
「はい?」
こういう時、もっと大きな声が自然と出ていくものだと思っていた。思いもよらず虫が目の前を通り過ぎた時とか、必要以上の大声で叫んだこともある。
しかし本当に驚いた時ほど意外と声量が感情に追いつかない。そのことを純佳は身をもって知った。
「死神様、突然お呼び出ししてしまい申し訳ない。さぞ驚かせてしまったことを詫びねばならぬ。しかし我々も、こうせざるを得ない事情があるのでございます」
目の前の青年は流暢な言葉でなおもしゃべり続ける。相変わらず純佳の思考は置いてけぼりのままだ。
「ちょ、ちょっとお待ちください」
話を整理したくて純佳は片手を挙げて青年の顔の前に突き出す。彼は純佳の声が震えていることに気づいているのかいないのか、朗らかな微笑みで首を傾げる。どうやら話を聞くつもりはあるらしい。
「わ、わたしは死神ではないのですが」
「おや。死神様も現世で諧謔を学ばれたのですな」
「か──いぎゃく? なに?」
純佳が顔をしかめると青年はくすりと笑う。無邪気な少年そのままを写したような微笑ましい表情も、今は平常心を搔き乱すだけだった。純佳はどうにか立ち上がり、スーツにひっついた落ち葉を無造作に払いながら首を横に振る。
「とにかく! わたしは死神ではありません。貫井純佳です‼ ここはどこですか? わたし、説明会に行かなきゃいけなくて……病院──ではないんですよね?」
立ち上がったことで視界が高くなり、縮こまっていた純佳の心も少し伸びをする。そのせいか余計に焦燥感が増し、不快な胸騒ぎに純佳の声量も大きくなっていく。
さきほどよりも威勢のいい純佳の主張に、珍しい装束を着た男たちがざざっとまた一歩退く。たった一人、目の前の彼を除いては。
「確かにここは貴方様には見慣れぬ場所、となりましょう。こちらは聖者の領域にございます。お目にかかるのは初めてとなるであろう。吾はオヌと申す。聖者を代表してご挨拶申し上げる」
オヌと名乗った青年は恭しく頭を下げた後で大きな瞳で純佳を真っ直ぐに見つめた。夕暮れを思わせるその瞳は赤子のそれよりも澄み渡り、まともに目を合わせ続けていれば逆に毒になりそうなほど美しい。純佳は彼に合わせていた視線を咄嗟に断った。逸らした先で、桃色の装束を羽織った別の青年と目が合う。純佳と目が合うと、彼はハッと驚いたように瞼を持ち上げてから視線を下げた。
「さぁ、貴方様をいつまでもこのようなつまらぬ場所に立たせておくわけにはいかぬ。参りましょう」
オヌが純佳に向かって手を差し伸べる。彼は周りの青年たちと比べても背が低く、純佳とそう変わらぬ背丈だ。それでも彼を纏う雰囲気は明らかに自分とは違う。純佳は彼の手を一目見た後で高速で首を横に振った。ほとんど震えていたのだ。
「いいいいいやです! わたしは死神ではありません! 人違いです! っていうか現世って……わたし、やっぱり死んだんですか⁉ ここ、えと、俗にいう、あのー、霊界? 天国? まさか──じ、地獄……⁉ ってことですか⁉」
「何を仰る。常世は貴方様の故郷に違いない場所ではあるまいか」
「とこよ⁉ えっ、ってことはやっぱりわたし死んだんじゃ……」
「ははは、諧謔が好みなのですな。死神様は死にませぬ。むしろ貴方様がおられるから、生命は生まれ、死ぬことができるのではないですか。なにをそんなに怯えておられる」
「だから! わたしは死神じゃないです‼」
「やはり留守が長すぎたようだな。イル、これは問題が起こるのも納得できる」
オヌは二歩後ろに下がったまま動かない先ほどの眼鏡の青年に顔を向けて肩をすくめる。イルもまた、オヌに同意するように肩をすくめてみせた。
純佳が冷静に周りを見回してみると、誰も彼もが純佳の言うことを理解していないように見えた。純佳と同じく、相手の喋る言葉を咀嚼できていない様子だ。純佳が死神ではないと否定する姿を不思議そうに見つめている。誰も彼女の言うことを信じていない。
だんだんと純佳は全身から血の気が引いていくのが分かった。ここにいる誰もが日常ではお目にかかれない服を着て、そのやたらと綺麗な身嗜みが非現実感を増長させる。洋装と和装を見事にミックスさせたかのような彼らの服装は、どこのSNSでも見たことがない。ここは日本ではない。そもそもどの国でもなく、元の世界とは違う場所にいるのだ。純佳の唇が青ざめていく。いくら肯定の女と自負している自分でもこればかりは肯定できない。
「うそ……」
絶望感が胸を支配する前に、天空から轟音が鳴り響く。視界が真っ二つに割れたかと錯覚するほどの巨大な雷鳴だった。聞いたこともない凶悪な音と目を潰す閃光に、純佳は耳を抑えて僅かに悲鳴を上げる。せっかく立ち上がることができたのに、また足から力が抜けてしまった。純佳がその場に崩れると同時に、いくつかの鈍い光が空から落ちてくる。
「まずい! 字鬼どもが来おったぞ」
空を見上げたオヌが凛々しい声を張り上げた。先ほどまでの柔らかな笑みは失せ、別人のような険しい顔で、こちらに高速で近づいてくる鈍い光を睨みつけていた。
「イル!」
オヌの掛け声にイルが無言で頷く。純佳を囲んでいた聖者たちに素早く指示を出し、徐々に失せつつある鈍い光に向かって一斉に駆け出した。純佳は耳を塞いだまま、自分の周りから去って行く彼らの背中を視線で追いかける。人間とは思えぬ速さで駆けて行く彼らは、光のヴェールを失い本体が剥き出しとなった字鬼に正面から攻撃を仕掛けていく。
字鬼はつい目を覆ってしまいそうになるほどに醜い姿をした化け物だった。字鬼の姿を見るなり、純佳は声にならない悲鳴を上げ凍りつく。いかにも腐ったような泥色の身体にはところどころに藻が這いつくばり、頭には立派なコブが生えている。それぞれコブの数は違えど、そのどれもがひどく鬱血したような強烈な赤紫色に染まっている。彼らは不快な唸り声を上げたまま空から着地し、聖者らに向かって棍棒化した腕を振り回し始めた。数十体が暴れ回り、まるで悪夢を見ているようだった。
イルをはじめとした聖者たちは地上に落ちてきた字鬼を容赦なく切り裂いていく。どこに隠していたのか、いつの間にか彼らの手には鋭く磨かれた剣や刀、槍が握られていた。実った果実を収穫するかのように、聖者たちは慣れた手つきで刃物を振り上げ、字鬼たちをぷつり、ぷつりと叩き切っていった。迷いのない彼らの面様にはなんの感情の色もなく、ただ敵を倒すことを一つのタスクとしてこなしているようだった。
中には真っ二つにしただけでは倒れない字鬼もいて、そういった場合には聖者は字鬼の身体を粉々に切り刻んでいった。
高級ブランドを彷彿させる近寄りがたい輝きを放っていた彼らの美しい装束も、見る見るうちに、無残に切られた字鬼の身体が吹き出すどす黒い体液に染まっていく。
さっきまですぐ傍にいたはずのオヌも、いつの間にか刀を片手に自らが切った字鬼を侮蔑する目で見下していた。彼の冷たい視線に字鬼の身体が灰になって崩れていく。オヌはつまらぬものを見るような瞳で残骸が風に流されていくのを眺めていた。
断末魔と聖者たちが字鬼を切る音だけが辺りに響き渡る。思いもよらぬ光景に純佳は黒目の動かし方も忘れてしまう。
「ひぃいいい……っ」
辛うじて細い悲鳴だけが喉の奥底から微かな音となって唇から出ていくことができた。それでも瞬きもできなかった。まるで金縛りにあったみたいに、純佳は近くで繰り広げられる凄惨な争いをじっと眺めることしかできなかった。
目が覚めたら知らない世界にいて、恐らく自分は死んでいて、何やら残酷な光景を見せつけられている。ここまでの出来事に純佳が我を失いそうになるのも無理はなかった。身体は小刻みに震えるばかり。純佳の顔にはもはや一切の意識が働かない。下唇を大きく下げたまま硬直したその顔は、彼女の動揺や恐怖心を隠すこともしなかった。純佳の目に涙が浮かび始めたその時、ふと、純佳の視界が桃色の艶やかな布で塞がれる。
「──大丈夫」
「ひっ……」
過酷な争いには不相応な優しい声が突如として降り注ぎ、純佳は思わず身構えて胸の前で腕をクロスさせる。
「ひどいものを見せてしまったことを、許して欲しい」
声は更に近づいた。恐る恐る顔を上げれば、一人の聖者が純佳に向かって微笑みかけていた。彼女を気遣うように彼は少し身を屈めている。
桃色の装束を着た彼はさきほど一瞬だけ目が合った青年だ。天然なのか、細かな巻きが入った真っ白な癖毛はふわふわと柔らかく雲のようだった。片目は前髪で少し隠れているが、蕩けるような瞳は澄んだ空気を孕んだ青空のように美しく、甘やかだ。基本的には可愛らしい顔つきであるにもかかわらずどこか凛々しくもあり、誠実さが形相から見て取れる。
「君は、死神じゃないんだろう?」
彼はそっと囁き、自らの唇に人差し指を重ねて口角を持ち上げた。本人にしてみればなんでもないつもりの仕草なのだろうが、純佳はその優美な動作に目が釘付けになった。先ほどまでひどく醜い光景を見ていたせいか、端正な顔立ちも相まって余計に彼が神々しく発光しているように見えたのだ。おまけに彼は純佳が死神ではないことを理解してくれている。縋るように、純佳は首を何度も縦に振った。
「きっと僕のせいだ」
「──え?」
屈めていた身体を元に戻し、彼は申し訳なさそうに呟く。しかしその表情は逆光でよく見えなかった。純佳が呆気に取られている間に、彼はどこからともなく剣を取り出し、俊敏に身体を半回転させて切っ先で宙に弧を描いた。
すると剣の動きに合わせたように断末魔が空気を揺らす。どうやらすぐ傍まで字鬼が来ていたようだ。彼の桃色の装束目がけてどす黒い液体が飛び散る。彼は頬についた返り血を手の甲で拭き、再び純佳に向き直った。
「これじゃ会話もできないときた。困っちゃうね」
そう一言だけ囁き、聖者は天空に向かって右手のひらを突き上げる。左手に握られていたはずの剣は瞬く間にどこかへ消えていった。
「さぁ字鬼! 憐れな己の存在を更に惨めなものにするべきではない。さっさと帰りなさい」
彼が張りのある声で天に向かって命令する。と、次の瞬間、先ほどの凶悪な雷とは正反対の柔らかな光が辺りを覆い尽くす。純佳も眩しくて反射的に瞼を閉じた。次に瞼を開けた時には、もう先ほどの惨い光景はなく、汚れた装束を持ち上げて嫌そうな顔をしながらこちらに帰ってくる聖者たちの姿が目に映る。
「お頭、死神様は無事です」
一体何が起きたのか分からぬままの純佳の前で、桃色の装束の青年がオヌに向かって笑いかけていた。オヌは青年の全身を繰り返し見た後で腕を組み、感心したように息を吐く。
「思いがけないことがあるものだ。シュモン、いつの間にそのような力をつけていたのだ」
「鍛錬の賜物ですよ、お頭」
シュモンは謙遜するように笑い、地面に這いつくばったままの純佳をそっと見つめる。
「死神様がご無事で何よりではないですか。とはいえここは危ない。早く移動しましょう」
「えっ……あの、わたし、死神じゃ……──」
「シュモン、今日はいやに絶好調ではないか。まぁよい。今回ばかりはお主のお手柄だ。皆、早く引き上げるぞ。死神様をもてなす準備を」
「承知いたしました」
オヌの発言を受け、イルがまた皆に直接指示を出していく。
「シュモン、死神様を支えてくれぬか。こんなに弱って──現世の毒がまだ抜けておられぬのだろう」
「かしこまりました、お頭」
シュモンが膝を曲げてお辞儀をすると、オヌは先に歩き出したイルを追いかけ去って行った。
「さぁ、行きましょうか」
「あの……さっきはわたしが死神じゃないって言ってくれたのに……どうして」
訂正してくれなかったのか。オヌの前で当たり前に純佳のことを死神として扱った彼の態度が納得できず、純佳は不安そうに訊ねる。シュモンは片膝をついてしゃがみこみ、純佳の肩に手を回した。どうやら立つのを支えてくれるらしい。
「いいから。今は僕に合わせてくれると助かる。後でちゃんと話そう」
シュモンは純佳の耳元でそう囁き、優しく純佳を立ち上がらせた。
「でも──」
そうは言われても不安しかない。純佳が泣きそうな顔になるとシュモンは彼女の身体を支えながら眉尻を垂らして困ったように訊ねる。
「彼らがすぐに君の言うことを信じてくれると思う?」
シュモンの問いに純佳は先導するオヌの後頭部を一瞥して少しだけ考えてみる。
「────いいえ」
たぶん無理だろう。