2 我々もやればできるのですね!
貫井純佳は都内の大学に通う女子大生。適度に学び、適度に遊び、適度に働き、適度に怠ける至極模範的な学生と言える。気の合う友人に恵まれ、仕送りをくれる実家にも救われ、多くの不安はあれど不満のない日々を送ってきた。
朝が弱い彼女はいつもならまだベッドの中で寝息を立てているころ。しかし今日は、時計の針が朝の七時を指す前には純佳はきちんと支度を終えていた。一人暮らしゆえに彼女の睡眠を邪魔する者はおらず、同様に寝坊を咎める者もいない。つまりはどうしても遅刻できない日には自らのお尻を叩いてベッドから出るしかないのだ。
まさに今日がそれにあたる。
今日は九時十五分から大事な面接の予定が入っている。就活シーズンに突入した純佳にとって、遅刻は今や重罪だ。もし、この罪を犯したとして。後々になって自分の罪を裁ききることができないのは目に見えている。数時間後の自分に恨まれるくらいなら、面倒でもきちんと朝起きた方がいくらか気が楽なはず。あくびは止まらないが、純佳は自分にそう言い聞かせて玄関の扉を開けた。
アパートから八分ほど歩けば最寄り駅につく。通勤ラッシュの気配を感じつつ、純佳は既に定員をゆうに超えた満杯の電車に飛び乗った。スーツを着るのはあまり好きではない。満員電車でぎゅうぎゅうに潰され、余計に息が詰まる気がした。
知らないサラリーマンの背中と、背の高い女子高生の鞄の間にできた僅かな隙間に手を伸ばし、純佳は胸に抱えた鞄からスマートフォンを取り出す。七時四十八分。目的地は家から少し離れているが、それでも十分に間に合いそうだ。
ひとまず安心を得た純佳は、友人たちのSNSチェックに精を出した。面接で言うことはすでに頭に入っている。今は少しでもリラックスするために気を紛らわしたい。
画面をスクロールし、飛び込んでくる無数の写真に目を通しながら、純佳は束の間の現実逃避に勤しんだ。この時間だけは、面接に失敗した場合の落胆に怯えることから解放される。
二回の乗り換えを挟み、八時四十五分には今日の面接先である企業が入居するビルの前に着いた。ちらほらと、周りには同じ目的でここに訪れたであろう若者の姿が見える。恐らく目的は同じはず。皆どこか緊張した面持ちをしているし、慣れた足取りでビルに入る人間たちよりも初々しい。けれどどこか純佳とは雰囲気が違う。
彼らと自分の間に感じた違和に首を傾げると、同じタイミングで誰かが純佳の肩をポンッと叩いた。
「おはよう純佳。あんたも今日、ここの面接だったんだ」
潰れたカエルのような声とともに振り返った純佳の瞳に映ったのは、朝から見るには刺激的な麗人だった。
「花梛……! えっ? もしかして花梛も今日面接?」
びっくりして口をあんぐりと開ける純佳とは対照的に、花梛は潤いに満ちた唇で柔らかに弧を描く。
「そうだよ。純佳は何時から? 私は九時からの予定だけど」
「わ、わたしは十五分から……」
「じゃあ組は違うか。残念。一緒だったらあまり緊張せずにすんだのに」
「花梛でも緊張ってするの?」
何をするにもいつも余裕を湛えている彼女のことを思い返し、純佳は半笑いで肩をすくめる。
「一応、人並みにはするよ。で、純佳、どうしてあんたスーツなんか着てるの?」
「どうしてって……」
純佳の全身を舐めるように見る花梛の視線に純佳は思わず自分の身体を鞄で隠した。
「面接だから。ちゃんとした服を着ないとなって思って」
「……お好きな服装でお越しくださいって書いてあったのに? それが純佳のお好きな服装?」
「違うけど……罠かもしれないし」
「罠?」
「ほら。前に体験談で読んだことがあるよ。スーツでなくて構いませんって言って、実際に私服で行ったら問答無用で落とされる、みたいな……」
「ふふ。それ何年前の話? 純佳は用心深いんだね」
そう言って笑う花梛は周りの就活生と同じく、いわゆるオフィスカジュアルな出で立ちだ。何を着ても似合う彼女だが、いつもより落ち着いた色合いの服を着ているせいか一段と大人びて見えた。
「それじゃあ私はもう時間だから行くね。純佳も頑張って」
「……うん」
花梛は最後にもう一度だけ純佳の肩を叩き、優美な姿勢を崩さずその場を立ち去った。彼女が残した涼やかな風が純佳のひとつ結びにされた黒髪を揺らす。
「──本当に私服で良かったんだ」
改めて周りを見回してみても、自分以外にスーツを着ている人間はいない。何度履いても慣れないパンプスのせいで靴擦れした足がズキズキと痛み出す。
(なんか……損した気分)
まだ面接前だと言うのに、気持ちは落ち込むばかりだった。周りの学生たちが自分のことを怪奇な眼差しで見てくるような気までしてくる。TPOを守ったはずなのに、逆にTPOを破ってしまった空気の読めない人間の気分だ。
これが自分が選んだ服装なのだから堂々とすればいいのだろう。心のどこかではそう思っていた。しかし、いつも自信に満ち溢れた花梛とは違い、純佳は自分に自信が持てない典型的なタイプだった。それゆえに、自分以外の誰かが言うことをいつも肯定する癖がある。それが正しいか、間違っているかは大した問題ではない。自分の意見に自信が持てないのが何よりの彼女の欠点だった。
きっと面接官もスーツで来た自分のことを反抗的だとか、つまらない学生だとか思うのだろう。ネガティブな考えが巡り始めてはもう後戻りできなかった。
後味最悪の面接を終え、純佳は大きなため息とともにビルを出る。
純佳より先に面接を終えた花梛の姿は当然見えない。代わりに、純佳を励ますメッセージがスマートフォンに届いていた。彼女がそれを目にしたのは面接が終わった後のことだ。
《純佳、もっと自分に自信を持って! ファイトだよ♥》
黒のハートマークが彼女のトレードマーク。文字の向こう側に彼女の凛とした微笑みが透けて見えるようだった。
「はぁ~あ……いいなぁ花梛は……」
美貌を持ち合わせるだけでなく、聡明で、頭が切れて、それでいて心も優しい。時に素直すぎてきついことを言うが、それすらも憎めない。言葉の中に愛が見えるからだ。
「きっと花梛は面接も完璧だったんだろうなぁ」
友人であると同時に心のどこかで嫉妬すら覚えてしまう。自分の中に渦巻く醜い感情が嫌になった純佳は気を紛らわすためにヘアゴムに指をかけ勢いよく髪を解いた。
「花梛みたいになれたらわたしもきっと人生楽しいよなぁ~」
心の中だけの呟きのはずが、思わず声にも出していた。思ったよりも大きな声だったせいか、通行人の視線がちらりとこちらを向く。純佳は一拍置いてから何事もなかったふりをしてコホンと咳をする。
今日はこれから他社の説明会の予約もしている。もちろんそこも「服装自由」の記載があった。そう思うと余計に憂鬱な気分になる。ひとまず応援してくれた花梛に感謝の返信を送り、純佳は一度空を見上げる。高層ビルに囲まれ、空はほんの僅かしか見えない。その下を、無数の社会人たちが行き交っていく。
思えば、いま無我夢中で取り組んでいるこの就活だって、自分がやりたくてしていることではない。でもそうしなければ未来を歩くことはできない。これが例えば花梛のような美貌の才能があったり、他の同年代やあるいは若き天才、はたまた先人たちみたいに何かしらに秀でた能力があるのなら、いくらだって道は切り開けるはず。けれどそうではない自分はこうするしかない。そうでなければ生活が成り立たなくなってしまうのだ。
平凡な自分を一番理解しているのはまさしく自分自身だった。
ある意味で決められたレールの上を走るしかない。道はいくつもあると言うけれど、結局のところ選べる人間など限られている。純佳は平凡な自分を恨みつつ、ふとメッセージを返信した画面を見返す。
花梛はまさに道を選べる側の人間のはず。それなのに何故、自分と同じような決められた道を歩もうとするのだろう。
「わたしなら絶対にモデルになるけどな……」
絶対にあり得ない「if」の世界に想いを馳せ、純佳はスマートフォンの画面から目を離さずに駅に繋がる階段を上がる。視界を邪魔する髪を耳にかけ、純佳は花梛のアイコンをじっと見やる。やはりどう見ても非の打ち所がない美人。
「もったいないよ……」
余計なお世話を呟くと同時に左足のパンプスが脱げる。微妙にサイズが合わないことが靴擦れの原因であることを純佳もなんとなく分かっていた。足から靴が逃げるのもこれが初めてではない。
ため息をつき、スマートフォンの画面から目を離した純佳は渋々ながらも階段を引き返す──すると。
「わっ……⁉」
突然、視界が暗くなって階段から足を踏み外してしまった。
「きゃあっ‼」
勢い余って頭から転んだ純佳の身体は、そのままでんぐり返しをするように空中で一回転する。くるくると、世界が回る感覚だった。貧血で倒れた時に世界が崩れる、その時に似たものを覚えた。
「ぐえっ…………」
何回転したか。数える余裕もないうちに純佳の身体は地面に落ちる。平坦な場所にうつぶせ状態で倒れた純佳は、落下時に打った肺への衝撃でゴホゴホと勢いよく咳き込んだ。
まだグラグラと脳みそが揺れる余韻があった。身体の痛みと咳によって目尻に涙を浮かべ、純佳は突如として鼻を襲ってきた異変に顔をしかめる。何か煙たさを感じる。土埃か、車のガソリンか、それとも駅の火災か。
怖くなった純佳は倒れていた身体を慌てて起こして立ち上がる──が、力が入らずすぐにその場にへたり込んでしまった。
「……す……です……成功です……! 人が、人がいます‼」
遠くから何やらざわめきが聞こえてくる。やはり火災か何かか。よくよく辺りを見回せば、白い煙のようなものが渦を巻いている。と、いうべきか。純佳の周りを取り囲むように、白い霧のヴェールのようなものが立ち込めていた。
「えっ……なに……何事……?」
まだ足に力が入らない。どうやら落ちた衝撃で身体が怯えているようだ。
純佳は焦りを覚えながらきょろきょろと瞳を動かす。手元にスマートフォンが落ちているのは見えるが、鞄が見当たらない。割れたスマートフォンの画面に純佳の意識が向かうと、遠くに聞こえていたざわめきがより一層大きな音となってはっきりと聞こえてきた。
「やりました! お頭、成功です! 召喚成功です‼」
「我々もやればできるのですね!」
「まさかあの御方を召喚できるとは……!」
無数の声は興奮を帯びてだんだん近くに寄ってくる。白に塗れていた視界も徐々にそのヴェールを剥ぐように鮮明に輪郭を帯びていった。純佳はスマートフォンを拾い上げ、迫りくる幾重の声に警戒しながら自分の身体を抱きしめるようにして丸くなった。
ザク、ザクと落ち葉を踏むような足音がする。地面を見れば、そこはコンクリートではなく、薄緑とごく淡い黄に透ける落ち葉が広がっていた。見たこともない美しい落ち葉ではあるが、それがまた純佳の心をざわつかせる。意味が分からず混乱する彼女は、気づけば二人の見知らぬ顔に囲まれていた。
「おお! この彼女がかの御方か?」
「知らないけれど……召喚が成功したのだからたぶんそうなのでしょう」
現れたのは、目が覚めるような水色の装束に質の良さそうな白のローブを羽織った幼い顔つきの青年だった。その隣には彼よりも年上に見える、気品ある紫の装束を着た眼鏡をかけた男が立つ。眼鏡の男は幼い顔つきの青年の問いに答えるため、純佳の顔にぐっと顔を寄せてから確信したように頷いてみせた。幼い顔つきの青年の表情が綻ぶ。
「なんとまぁ、変わった格好をしているが思っていたよりも優しそうな御方ではないか」
幼い顔つきの青年はその顔に似合わず渋い口調で喜んだ。彼の声に誘われて、更に四、五人の同じような服装をした色とりどりの瞳の色の青年が純佳の周りに寄ってくる。
訳が分からずぽかんとする純佳の顔を見るなり彼らは歓喜の声を上げて抱き合った。
「え……えと……あの」
純佳が疑問を口にしたくても誰も聞く耳を持とうともしない。戸惑う純佳をよそに、青年たちは口々に互いの労をねぎらっていた。謎の歓喜の渦に取り残された純佳は恐怖を覚えて一番近くにいる眼鏡の男の装束を引っ張る。
「あの……‼」
すると一瞬にして騒ぎは収まり、次第に彼らの面様に怯えが浮かぶ。純佳に服を引っ張られた眼鏡の男は、「ひぃっ」と小さな声を出して二、三歩後ずさった。
「あなたたちは、誰ですか」
ようやく純佳の声が皆の耳にまで届く。警戒に満ちた純佳の声に、彼らはピンと背筋を伸ばしてから深々とお辞儀をする。
「よくおいで下さった。貴方様が参られたことを聖者一同感謝申し上げる」
幼い顔つきの青年は頭を下げる仲間たちを背後に従え、純佳の顔を恭しく見つめて挨拶する。彼の顔立ちは春風のように穏やかで、夕暮れの海に溶け入るようなオレンジの瞳を持っていた。唇は朝露をふくんだ花びらのように潤み、一目で誰の心をも絆してしまいそうだった。
「えーと……それって、わたしに言ってます? 人違いではないでしょうか。というか、ここって、どこですか?」
純佳が戸惑いを隠せない面持ちで訊ねると幼い顔つきの青年はくすくすとそよ風のように笑ってみせた。
「またまた御冗談を。長らく留守にされていたので我々をからかっておいでですな。でもそうは参りませぬ。我々には冗談を言っている暇はない。我々はどうしても貴方様の力が必要なのです。どうか力を貸していただきたい。いや、どうしても、力を貸していただかねばなりませぬ……!」
「は……?」
まだ事態が掴めていない純佳は彼の独壇場に全くついていくことができなかった。取り繕う余裕もない。ちょっと置いていかないで待って欲しい、といいたげな顔をした純佳に対し、青年たちは顔を見合わせて笑い合う。まだ純佳が冗談を言っていると思っているらしい。
「あの……わたしって、誰なんですか?」
埒が明かず、ついに純佳は自分を指差して訊いてみた。もしかしたら、さっきの階段落ちの衝撃で昏睡状態に陥っている中で見ている夢かもしれない。あるいは──もしやもう自分は──。嫌な予感がして純佳はごくりとつばを飲み込む。答えを訊くのが怖くもあった。
すると青年たちは改まって純佳に跪く。その中心で、幼い顔つきの青年が左胸に手を当ててはっきりとした語調で言い放つ。
「それはもちろん、死神様にございます」