11 むしろうまくいってる
押し黙った純佳と、一歩も引く気がないヒノメの間には気まずい空気が流れる。すると、そんな濁った空気もいざ知らず、固く閉じられた死神の部屋の扉がそろりそろりと開かれていく。
「死神様、来客でございます」
頭を下げ、低姿勢で姿を現したのは悪魔のロウリュウだった。彼は今日、死神の護衛役を務めることになっている。
「来客?」
ヒノメがむっと口角を下げて眉を顰めた。
「さようでございます。聖者だと名乗る者で、白い髪の、桃色の服を着た男でございます。聖者の長の指示で死神様の様子を見に来たのだと申しております。召喚した責があるゆえ一度具合を伺いたいと。いかがいたしますか」
ロウリュウが告げた特徴を聞いた純佳はすぐにそれがシュモンだと察した。本当に会いに来てくれたのだ。暗く沈み込んでいた心に僅かな光が差し込む。
「聖者が魔王の館に? 随分と責任感が強いこと」
聖者の訪問がよほど珍しかったのか、ヒノメは半ば呆れつつ息を吐き出す。彼女には過保護に思えたのだろう。
「ヒノメ、会いに行ってきてもいい?」
呆れるヒノメに純佳が訊ねる。
「見知った相手ならば良いでしょう。ただし、戻ってきたら仕事に取り掛かってもらいますよ。あたしは準備をするので、手短にお願いします。ロウリュウ、あとは任せました」
純佳の表情にほのかな輝きを見たヒノメは渋々承諾する。純佳は急いで水を飲み込み、ロウリュウの後に続いて客間へ向かう。客間で待っていたのはやはりシュモンだった。彼はマントルピースに手を置き、火のついていない暖炉を覗き込んでいた。悪魔が声をかけると、シュモンは悪魔の隣に並んだ純佳を見て爽やかに微笑んだ。
「やぁ、顔色が良さそうで安堵した」
「シュモン……! ロウリュウ、案内してくれてありがとう。あとは大丈夫だから、部屋の外で待っていてくれる?」
「かしこまりました」
ロウリュウは恭しく頭を下げ、ゆっくり丁寧に扉を閉めながら後ろ足で客間を出た。
「ほう。死神らしさが板についてきたんじゃないか」
「適当なこと言って。死神らしさなんて、今じゃヒノメにしか分からない」
純佳が必死に首を振ると、シュモンはけらけらと楽しそうに笑う。純佳の元気な様子を見て彼も安心しているようだ。彼の温かな瞳を見やり、純佳は全身から力が抜けていくような安堵を覚える。ヒノメも純佳の正体を知っている一人ではあるが、彼女の死神への忠誠を見ているとやはり罪悪感で心苦しい。一方、シュモンはそのような死神への強い感情がなく、純佳そのものを受け入れてくれる。その違いが純佳の緊張を自然に緩和してくれるのだろう。
「偽物だって、死神の側近に一目でバレたんだからね」
純佳は怨み言を言うようにむっとした表情でシュモンに訴えかける。
「それは盲点だった。でも今、君がここで悪魔に喰われていないのだとすれば、側近も君の選択を支持してくれたということなのだろう」
「支持というか……全部、死神のためだけど」
「経緯など今は重要じゃない。結果、君は死神として魔王の館に迎えられた」
シュモンはマントルピースに置かれた小物を順に手に取りながらその一つ一つを興味津々に眺めた。純佳は暖炉の前に置かれたソファの一つに手をかけて寄りかかり、そんな彼の動作を観察する。ただそれだけのことで心が軽くなるような気がしたのだ。
「ところでシュモン、昨日は魔王の館に入れないって言ってたのに、今日は大丈夫だったの?」
「先の字鬼討伐の成果が認められてさ。お頭に死神様の様子を一度見に行きたいと申し出たら、魔王様との戦争が始まっていないか気になるから行っても良いと許されたんだ」
シュモンは金箔で覆われた小さな猫の置物に手を伸ばして声を弾ませる。オヌに認められたことが嬉しいようだ。猫の頭を指でつまむと、胴体から頭が離れた。どうやら置物ではなく、小物入れだったらしい。シュモンは取った頭を全方向からまじまじと眺める。
「魔王の館はどう? 居心地いい? すごく豪勢な所だなぁ」
「……悪くはないけど」
「魔王の機嫌は? お頭の話じゃ、愛想も無く、ただ睨まれたと言っていたけれど」
「魔王は無気力状態だから。なんのやる気もないみたいで、文句を言う気力も、死神と喧嘩する気も湧かないみたい。ずっと部屋に引きこもってるらしいし。正直、ちゃんと会話が成立するかも怪しい」
「暴れられるよりはマシだろう」
「そうなんだけど……」
元気がなくなる純佳の声に、シュモンの双眸が猫の頭から彼女に向く。彼女が抱く不安を汲み取ったのだろう。
「皆、魔王の異常を恐れてるの。妖精も、悪魔も。聖者の皆と同じ。世界の崩壊を恐れ、彼の気力を取り戻したくて必死なの。皆、わたしに期待してる。わたし──死神にしか彼を元に戻すことはできないからって。わたし、死神がどうして魔王の元を去ったかなんて説明できない。でも魔王の気持ちがちょっと分かった気がした。ちょっとだけ、可哀想って思った。本当は、魔王が無神経な奴で、死神が本当にもう限界だったのかもしれないけど。だけど昨日、この館に来る前よりも、皆の力になりたいなって思う気持ちが強くなったの。でも──どうしていいか分からなくて」
「聖者と悪魔たちの気持ちが一つになるなんて初めてのことなんじゃないか」
落ち込む純佳とは対照的にシュモンはどこか楽しそうに言った。
「なにをそんなに不安がる。まだ計画が失敗したわけじゃない。むしろうまくいってる。君は無事で、皆も君に期待してる。幸先良いじゃないか。なにか心配事でもあるのか」
握った手の中で猫の頭をころころ転がし、シュモンは飄々と言ってのける。
「ヒノメが、死神の仕事をして欲しいって言うの。魂の仕分け。でもわたしには本当はそんな資格ない。もしわたしが死者だとして、そんな素人に最期を判断されたくなんかないよ」
死んだと思った瞬間の心境が蘇り、純佳は険しい顔で唇を結ぶ。
「わたしは神じゃない。踏み入れていい領域だとは思えないの」
「──なんだそんなことか」
苦悩の表情を浮かべる純佳に、シュモンはあっけらかんとした声で呟く。視線は純佳に真っ直ぐ向けたままで猫の頭を胴体の上にぴったりと戻し、シュモンは純佳が手を置いたソファに足を組んで座り込む。背後に立ちすくむ純佳を気遣うように見上げ、シュモンは優しい眼差しでその顔を覗き込んだ。
「聖者の役割をこの前少し話したこと、覚えてるか」
「うん……少し」
「聖者は神々に仕える使者よりも現世に近い。世のバランスを保つのが主な使命だ。神の御意思に従い、生命たちの営みや進化、はたまた退化を観察し、見守る。記録係みたいなものだ。それだけ聞くと楽しそうに思えるかもしれない。でも実際には雑用を任されることも多い。数が多い分、どうでもいいことを任されやすい。だが死神はどうだ? 死神は他の神と同様、たった一つしか存在しない。世の基盤、創造神の傑作である生命そのものを司る。生命には平等なものが少ない。命の長短すらも不平等だ。ただ、どんな生命にも終わりがあること、あとはそうだな……一分が六十秒の塊となって、時間という概念が与えられていること。刻まれる秒数には長短の差異もない。平等と言えるのはそれくらいだろうな」
思案のあまり話が脱線しかけたこと気づき、シュモンは「とにかく」と仕切り直す。
「死神は、その平等なものの一つ、生命の終わりを扱うことを任されている。誰もができることじゃない。終わりはすべての始まりだ。始まりがなければ終わりはなく、終わりがなければ始まることもない。物事の終わりが、どれだけ重要か分かるだろ? 人生の終幕を祝福し、時に叱り、制裁を下す。聖者とは比べ物にならない貴重な仕事だ。そんなことができるなんて恵まれていると思わないと」
「誰もができることではないのに……?」
「ああ。誰もができることではない。が、スミカならできる。君は生命を受けた人間だ。常世の誰よりも、生命に寄り添える力を持っている。僕は君の力を信じてる」
「どうして……」
「僕が信じているから。それだけが理由じゃ心細い?」
「……ちょっとだけ」
純佳が控えめに笑うとシュモンもつられてくすくす笑う。
「君はここまで難を乗り越えてきた。だから死神の仕事もきっと、やり遂げてしまうだろうよ」
少しずつ明るくなっていく純佳の表情の移ろいを眺め、シュモンはソファに置かれた彼女の左手をそっと握りしめる。
「死神の役目は続けなくては。もう後戻りができないのなら、望む方向へ向かうよう、自分が進んで行くしかない」
「シュモンって、優しいけど押しが強いところもあるよね」
「それは欠点?」
「ううん──背中を押してもらえて、わたしは心強い」
純佳の左手がシュモンの手を握り返す。シュモンもまた握り返してくれた。
「神の領域に踏み入れてしまうなんて禁忌的な考えはしなくていい。今は、君が死神なんだから」
純佳の緊張が伝わるのか、シュモンは繋いだ手をぶらぶら揺すって強張った神経を解そうとする。
「ありがとうシュモン。会えてよかった」
「僕も。君との出会いに感謝してる」
思えば、たった一人の聖者がいたからこそこうして死神として白羽の矢が立てられた。変なことに巻き込まれたことを憎んでもおかしくない。しかしシュモンを前にすると、不思議とそのような気持ちはどこかへ消えてしまう。これが聖者の持つ力なのだろうか。純佳はそわそわと騒ぎ出す胸の鼓動を抑え、赤らんだ頬を綻ばせた。




