1 もうヤダ、人間やめる
「もうヤダ、人間やめる」
膨らんだ頬からこぼれ出たぶっきらぼうな言葉はある種の合図。運動会のかけっこと同じ。位置について、よーいドン、の掛け声とともに高らかに鳴るピストルのようなもの。
この暗黙のルールを知る者は皆、一斉に前のめりになって顔を寄せる。
「ちょっと考え直して。あんな奴にそんな価値ないよ」
ある者は真剣な眼差しで特定の誰かを侮蔑し、
「そうだよ。むしろ別れて良かったと思う」
また別の者は落ち込む彼女の選択を肯定し、
「むしろ別れられてラッキーじゃない? もっといい人は必ずいるし。それはそうとあんたがフリーになるってことは、また恋愛市場が賑わっちゃうね。みんな目の色を変えるよ」
砕けた口調で彼女の悲しみを笑い飛ばそうとする者もいる。
「──ま、とはいえ結局は魅力が足りなかったてことかも。こっちに反省点がないこともないんじゃない?」
ただ一方で、あくまで自分の所感を率直に口にする正直者もいるわけで。
「ひとまずのところ次の教訓にすればいい。人間やめるのはまだ先延ばしにしておきなよ」
周りのぎょっとした視線も気にせず、正直者は美しく彩った自分の爪を眺めてそう続けた。
爪から目を離した彼女は、そこでようやく友人たちがユニークな表情でこちらを見つめていることに気づく。
「え? だって──そうでしょ?」
きょとんとした様子で瞬きした彼女は、前に並んだ困り顔、あきれ顔、苦笑いを順に見やり、最後にこれら三つの顔に囲まれた中央の青白い顔にじっと目を向ける。
悪気のなさそうな美しい漆黒の瞳と目が合い、話の中心人物はハァっと大きく溜息を吐いた。
「もうしょうがないなぁ。そりゃー、そうですよねきっと! 私にも悪いところはあった。たぶんありました! でも最終的に浮気したのはあっちなの。少しは私を慰めてくれてもいいじゃん」
「そうだけど。里依紗も浮気させる隙をつくっちゃだめでしょ」
「手厳しいぃ~」
ぴしゃりと言い切られ、里依紗は雷に打たれたかのように身体を硬直させ後ろに倒れるふりをした。ふざける里依紗の背中を支えたのは彼女の隣に座っていた三香だった。里依紗が恋愛市場に戻ることを喝采していた彼女は、当の本人が元気そうな様子にほっとして笑う。
しかし侮蔑の女、澪奈はそうもいかないようだ。和みつつある空気にあまり馴染めない面持ちで何かを言いたそうにしている。澪奈のそんな複雑な心境を汲み取ったのか、ここで美しい漆黒の瞳は気を取り直したように里依紗に向き直る。
「里依紗、そもそもあの男のこと本当に好きだったの? これまで黙ってたけど、正直二人、お似合いではなかったよ。里依紗には勿体なくて」
「好きは好きだったよ?」
「というと?」
「私に告白してくれたの、彼が初めてだもん。そりゃ、好きになっちゃうでしょ」
「それが理由?」
信じられないとでも言いたげな漆黒の気高い瞳に、里依紗は肩をすくめる。
「そりゃあ花梛には分からないかもしれないけど。花梛はとんでもない美人でスタイルもいいんだから、引く手あまたでしょ。でも私は違う。好きって言ってくれるだけで舞い上がっちゃうの」
里依紗の主張に花梛は友人たちの顔を再び順に見回す。里依紗の言っている意味があまりよく分かっていないらしい。
そこで役に立つのが肯定の女、純佳だった。自分の役割を熟知している彼女は、首を大きく縦に振ってから感情を込めた一言を放つ。
「わかる!」
そこから純佳は畳みかける。
「花梛はちょっと目を離せば誰かに告白されてるけどわたしたちはなかなかそんな機会に巡り合えなくて! 別に気にもしてなかった相手が自分のこと好きかもって思うと急に気になってきちゃうことあるよね。そりゃそれでも無理なことはあるけど、でも悪い気はしないし、邪険に扱う理由もない。特段こちらに危害がない場合に限られるけど。だから里依紗の気持ち、すっごくわかる! でも相手が浮気したのは最低でしょ! 多分、里依紗が自分を好いてくれることに甘えてたんだろうね。よっしゃ、これでクリアって気分? で、調子に乗って浮気したと。里依紗は別に悪くない。花梛、それは分かってあげてよー」
当事者のように語る純美がとりわけ流暢なのは、彼女自身もまた、ここのところ恋愛といったあれそれと縁がないこともあった。息を吸うだけでモテてしまう花梛とは正反対の自分の境遇を純佳はもはや諦めてさえいた。だからこそ、そんな気持ちを彼女に知って欲しい思いもあったのだろう。
「そういうもの?」
「あるあるだよねぇ」
未だピンときていない花梛が首を傾げるので三香は眉尻を下げて頷いた。
「そっか。私は浮気されたことないからちょっと気持ちが分からなかったな。みんな私からは離れられなくて。それはごめん、里依紗」
「いいよ、気にしてない。花梛に言われちゃしょうがない」
花梛のウェーブのかかった長い美髪が流れるように肩に落ちるのを眺め、里依紗は首を横に振る。花梛の滑らかな明るい茶髪が眩しく、目を細めていた。
「それにしてもさ、ほんと花梛は罪な人間だよね。どうしたらあんたみたいになれる? 綺麗なのもそうだけど、私、あんたに憧れずにはいられないの」
「どういうこと?」
「花梛と付き合う男は皆、花梛に夢中で花梛一筋じゃない。もう花梛しか目に入らないって感じで。どうしてあんたはそんなに魅力的なの。ズルすぎる!」
無駄のない造形でありつつも愛嬌のある花梛の完璧な顔面に嫉妬するように、澪奈がなげやりに問いかけてきた。ほかの友人たちもその答えに興味があるようで、花梛の答えをワクワクとした様子で待つ。
「そうだなぁ──」
皆の期待を知ってか知らずか、花梛は少しだけ考える素振りを見せてからあっけらかんと答える。
「彼らにとってすべての道は私に通ずるから──しょうがないのかも」
「ハァ?」
「ほら、私と一緒にいると皆、本当の安らぎを知るの。皆が評価してくれるように、確かに私は美人なのだと思う。高嶺の花。普段は遠い存在に見える。そのせいもあるのか、最初は皆、美しすぎる私のことをまるで得体の知れない存在かのように怖がるんだけど、でも興味は隠せない。それでいざ近づくと、怖気づいていた人たちもなんだこんなものかって、だんだん落ち着いてくる。日常と変わらない、親しみやすい存在なんだって。それで共に時間を過ごすうちに、私の存在にも慣れて、心からリラックスできることに気づく。私は束縛もしないし、相手が何をしようと基本的には温かく見守るだけ。それが居心地よくて、自由でありながらも私という存在が傍にいることに安堵して──離れ難くなる。皆、夢中になってしまう。そうなると彼らのすべては私に帰結する。私のもとに帰りたくなる。最後の砦みたいに。私はひたすらに彼らの帰りを待つ。彼らの生き様を見守ること、私が常に望むのはそれだけ。そんな心持ちでいれば、自ずとこうなるのでしょう」
謙遜する仕草もなく自己分析をする花梛に皆は二、三回瞬きをした──数秒後、自然と拍手が沸き上がる。
「さすが花梛先生!」
「素晴らしいです花梛様。私も花梛様の揺るぎないマインドを見習いたいです!」
三香と里依紗は花梛にあやかろうと両手を伸ばして土下座するふりをする。
「もうこりゃぐうの音も出ないや。あんたは強い女だよ」
堂々とした態度と美貌に圧倒されたのか、澪奈は参ったように額に手を乗せる。花梛の燃えるような赤い唇から紡がれた言葉たちに反論の余地はないようだ。
「ねぇ純佳」
「えっ?」
「アンタ、さっき自分を蔑むようなことを言っていたけれど、あなたたちはとても素敵な人だと私は思う。もっと自分に自信を持って。そりゃ、私みたいになれとは言わない。なれないとは思う。だって他人だから。でも、純佳には純佳の良さがあるでしょ。それをまず自覚しないとダメ。純佳は素敵だよ。あなたが望めば、きっとなんだってできる力がある。まだそれに気づいてないだけ」
漆黒の瞳が真っ直ぐにこちらを向き、純佳はその迫力に何も答えられなかった。揺らめく焔のごとき情熱を宿した瞳だ。ひとたびその瞳に見つめられれば、誰もが息を吞むほどの力強さを秘めているのに気づかされる。ただ、彼女が嬉しいことを言ってくれているのだけは辛うじて脳が理解できた。
「それにね、求められるのも、それに応えるのも、案外大変で難しいものなのだから」
そう言って花梛は、ほんの少しだけ困ったように口角を下げた。同時にくるんと持ち上がった長い睫毛もやや伏せる。
彼女が見つめる艶々に輝く爪には漆黒の瞳に負けぬ美しい暗黒が広がっている。
花梛がこんな物憂げな表情をするのは珍しい。
彼女の瞳に吸い込まれた暗闇の煌めきが、純佳の心を焦がして離れなかった。