羊雲が見える季節に・眠らない町で・真珠の耳飾りを・ぎゅっと抱きしめました。
葬儀だ。本日は葬儀だ。あの高い高い手の届かない煙突から、天へと煙となったあなたが昇っていく。ゆらゆら、ゆらゆらと、誰かの手に引かれながら時折落ち着きなく辺りを見回す子供のように。その煙を見る目に、自然と涙が浮かんできた。葬儀だ。どうして葬儀なんてものが、この世にはあるのだろう。強制的に此岸と彼岸を分けるような儀式が、慣例化して当たり前になるのだろう。いつぞやは愛しさ余って遺骨を食った者をあざ笑ったものなのに、今目の前に死を見送るという通過儀礼がこんなにも両肩に重くのしかかるなんて。
「可愛がってなかったでしょ」
違うもん、と子供は泣いていた。母親が厳しい顔でたしなめているので、どうやらペットの葬儀を隣の斎場でやっているらしい。最近は子供よりもペットが多いから、人間も動物を見送るのに喪服を着込んでいる。なんだかおかしいね、と言葉が喉から出かけたが、言葉にうなずいたり首を振る相手がいないのだから仕方ない。どうやら母親は、幼い娘(小学生中学年だろうか)を糾弾しているらしい。父親らしい男は間に入って窘めるが、それは娘を庇うものだったのでより母親の怒りは燃え上がる。同性の嫉妬は親子にも適用されるし、うすい性愛だって存在するので、母親は夫にも激情を向けた。
どうやら話が耳に入ってしまう限りは、娘にねだられたローンを組んだ可愛い小型犬を亡くしたらしい。だが娘は糞尿のお世話に飽きてしまって、散歩もほとんど母親が行っていた。だがある日、母親が手が離せないからと娘が散歩に行った時、リードがすっぽぬけて、そのまま居なくなった。家に帰って母親に問われ、だんまりを決め込んで捜索が遅れたようだ。そして小型犬の捜索は、仕事から帰宅した夫も連れだって行われ、やっと見つけた時には牽かれていたのである。夫は娘をかばいだてするのは、子供だからという最大級の要因であり、それにつけあがって甘える娘可愛さだろう。よくある話だ、子供を産んで育てていくうちに殺気立つ妻に、夫は少しずつ心を離す。その離れた距離を埋めたのが娘だった。だが小型犬を実際に可愛がっていた母親には怒髪天だったようで、斎場でも娘を問いつめる。
「いい加減にしないか、他の方のご迷惑だ!」
「じゃあ。じゃあいつ話すのよ!? 家で説教しようとしたら貴方が邪魔立てしてきて、ここでならいいと思ったら、この子はただむっつり座ってスマホ見てるし! 何の反省をしてるっていうのよ! どこが! あなたどこがこの子が正常だって言うの?!」
母親の言うことはまごうことなき正論だが、小学生には酷かもしれない。先ほどは葬儀というものに耐えきれず、待合室で呆けていたが、この家族は隣でも怒鳴り合いになったからこちらに来たのだろうと思った。小型犬の遺影を抱えているのは母親である。母親の心のより所は、きっと犬だけだったのだ、それは怒ってしまうし、娘の反省が見えないのに我慢ならない。だが普段から育児に参加していない夫は、子供がいつまでも赤ん坊のように見えて女のようにも見えて、無条件で甘やかしてしまうのだろう。よくあることだ。この歳になると、ようやく家庭というものの流れが見えてくる。娘は叱られていることで泣いているのか、犬が居なくなった恐怖で母親をおそれているのか、体を小刻みに震わせていた。
「ごめん、って、思って、るもん」
「嘘よ!」
「ごめんって・・・思ってる・・・!」
娘の反抗とも意志とも取れる行動に、母親はまた激高したようだ。食ってかかろうとするのを夫が止めている。親子にも相性がある。それを私は50年近く経ってから気が付いた。冷えた缶コーヒーをあおる。
「お嬢ちゃん。ごめんって思ってる?」
見知らぬ老人に声を掛けられたが、警戒するどころか娘は助け船のように目線ですがってきた。
「うん・・・ごめんって、何度も謝った・・・謝ったのに・・・」
「謝って済むことじゃないでしょ?!」
「でもワンちゃんはもう近くにいないからね。心を込めて謝るんだよ。きっとね、ワンちゃんは分かってくれるからね。スマホなんか見ないで、お坊さんのお経を聞いてね、謝るんだ」
「うん」
「言葉にしなくていいんだ。心の中でね、唱えるの」
「となえる?」
「口に出してもいいんだけど、ワンちゃんにはもう僕らの声は聞こえないんだよ。お耳がないからね」
そこで娘は何故かはっとしたようだ。死というものが少し理解したのかもしれない。
「お耳はないけど、こころはあるんだ。だからね、心の声で謝るんだ。心の声はね、
嘘をつけないから」
母親が何故かはっとしたような顔をした。
「そしたら、ワンちゃんも分かってくれるよ」
「うん。ありがとう、おじいちゃん! あのね、ワンちゃんじゃないよ、チロっていうの!」
「ごめんね、チロちゃんだね。チロちゃんも分かってくれるよ」
夫もはっとしたような顔をした。私は気づかぬうちに、この家族の足りない部分を補ってしまったらしい。別れ際に、夫はちゃんとした父親の顔になっていた。母親もしゅんとして一人の女性に戻っていた。母親、父親という役割は時に呪縛をもたらすのだ。この日本では、少しその傾向が強いようなので、それを脱ぎ捨てるのに時間がかかる。母親が謝るのを娘はじっと聞いて、わっと泣いたのを抱き抱えたのでこの家庭はきっと大丈夫だろう。
「お父さん、ごめんって思ってる?」
「思ってるよ」
「唱えたの?」
私の娘だ。母親には似ないが、私に似て衝突する。いわゆる相性が悪い親子で、彼女が就職するまでに私は何度彼女の生き方に口を出して、何度家が壊れるほど怒鳴り合ったか分からない。彼女はもう結婚しないと私たちに宣言し、その宣言を受けた片割れは亡くなってしまった。
「唱えたよ」
「あっそう。人には良いように言えるよね。昔はそんな人じゃなかったのに」
私はかっとなる気持ちを押さえた。昔は押さえられなかったから喧嘩になった。彼女に私は薄い性愛どころか、血が濃いために嫌悪を抱いていたように思える。それはお互いにだ。橋渡しの妻は亡くなった。
「これ、お母さんが付けてたやつ」
娘は耳元を真っ黒にぬった爪先で指差す。
「塗ったんだな」
いつもは派手なつけ爪だった。何気ない言葉だったが、娘は後ろめたそうに言う。
「だめだった? マナー見ても分からなくて」
「いいや、そんなつもりじゃないよ。お母さんはおまえの爪を綺麗だって褒めてたからな、きっと喜んでる」
「よかった」
娘の安堵は、率直で実直なな言葉だ。着飾りしていない彼女の、父親の前に出る娘の安堵だ。
「愛してたんでしょ?」
「おまえもだよ。おまえも、愛しているよ」
ようやく胸のつっかえが下りたような気がした。娘は何故か泣いていた。きっと胸ポケットに入れているタバコの見えない煙に巻かれたんだ。
「返すね」
真珠のイヤリングは、妻のタンスから拝借したものだと言う。窃盗まがいだと分かっていたが、どうしても付けたかったのだという娘の気持ちは痛いほど分かった。
「わたし、お父さんが死んだら、お母さんよりも泣くと思う。狂っちゃうほど」
「ざまあみろ、とか言うんだろ」
「言わないよ!」
妻はきっと、この寂しい秋の空の羊雲のかたわらで笑っている。
原典:一行作家