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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

歯車猫と38号室

作者: 夜岸明希
掲載日:2022/02/04



 レディオヘッドのクリープを聴いている途中で眠ってしまったのは、楽曲が退屈だったからではない。愛している彼女が今夜、誰かに抱かれてしまうのかもしれないという不安に疲弊し、それまでの暗くて平穏だった感覚から、より深くて静かな憂鬱に沈んだ為だ。


 イヤフォンの中でトムヨークが歌っているのと同じ、僕も気味の悪い男で、彼女は特別なのだ。そんなことを考え、自分の卑小さを自覚しながらすべりおちる睡眠には、なかなか抗うことが出来ない。


 みじめな気持ちで夢に落ちる。夢の中で目を覚ますと、いつも決まって見知らぬ地下通路に立っている。見知らぬ、というのは間違いかもしれない。見知らぬ地下通路に訪れるのは、これで数十回目だからだ。


 見慣れた、見知らぬ、地下通路。床も、壁も、天井も、灰色のコンクリートで、蜘蛛の巣よりも複雑な展開の仕方で四角い道が伸びている。


 分岐、分岐、分岐。


 どこまで歩いても、曲がっても、同じ景色。


 換えたばかりみたいに真っ白い蛍光灯が、壁面上部に並んでいる。不必要に思えるほど明るく、眩しい。


 僕は歩きながらイヤフォンで音楽を聴いている。ニルヴァーナ、ドアーズ、マンソン。特に何かが良いから聴いているわけではない。僕には音楽的感性というやつが欠落しているのだ。それらはただの雑音にしか感じられない場合がほとんどだ。しかし、彼女が愛していたバンドの音楽なのだから、違った意味を持っている。分からないなりにも真摯に向き合い、良さを汲み取るべき音楽たちなのだ。鼓膜を震わせるメロディーラインは、彼女の鼓膜に、脳に、心に触れた愛しいものだ。それだけで僕の心は落ち着き、満たされる。


 これは夢なのだと自覚しながら、歩く。灰色の地下通路を、眩しい明かりの下を、分かれ道だらけの迷路を、愛しい音楽に包まれながら。


 どこを、いつ、どのように曲がっても構いはしない。僕は何もかも分かっている。たどり着く場所は、決まっているのだ。黒いパーカーのフードをかぶり、眩しさを防ぐ。ぼろぼろのスニーカーで、ゆっくりと歩く。曲のリズムにのる。口ずさむ。手を広げ、ターンする。けれど、そんな僕を誰かが見たら、困惑するだろう。僕は軽快に踊り、ステップを踏みながら、泣いているのだ。音もなく、声も出さず、ただみじめに。


 彼女が好きだという音楽は、どうして彼女から好かれたのだろう? 僕から見た彼女は神様よりも大切なのに、彼女は彼らが生み出す音楽にとりつかれている。彼らにあって、僕にないものは何だろう? 答えはすぐに出る。「全て」だ。どんなに真似したって、どんなに理解したって、ネズミが猫や犬にはなれない。だからといって諦めるわけにもいかない。僕が生きている理由は、彼女という記号に近付き、幸せにしたいということだけなのであって、それ以外には何にもないのだ。


 くるり、とターンする。角を曲がる。求めていた姿を見つけて、僕は頭を下げる。


「こんばんは。また、来たよ」


 足もとにちょこんと座っている猫に、僕は挨拶をする。


「やあ、また来たんだね。いらっしゃい」


 角を曲がった先にいた歯車猫は、とても迷惑そうにそう言って、僕を睨み付けた。鋭い目をしたラグドールだ。クリーム色の毛並みだが、頭部だけは薄いブルーで、真ん中わけにした髪みたいに見える。もこもことした狸みたいで、あまり猫っぽくは見えない。


「おや、相変わらず矛盾しているね。踊りながら泣いているとは。さすが矛盾くんだ」


 彼は、プラスチックで出来た前足をなめたあと、眉のあたりを撫でた。かちかちかち、と、腹部に内蔵されている歯車が鳴っている。彼が動いている間は、ずっと鳴る音。僕の拍動と同じように。彼の心臓は、内臓は、筋肉は、神経は、たくさんの歯車で補完されているのだ。


「君も、相変わらず迷惑そうだね。そんなに僕のことが嫌い?」


「分かっているくせに」


 かちり、と、猫ののどが鳴った。


「矛盾くん、君のことを好意的に見てくれる人なんて、どこにもいやしないさ。世界中のどこにもね。サンフランシスコ、山東省、青森、ヤースヤナポリャーナ、どこにもね」


「ヤースヤナ、何だって?」


「トルストイの墓があるところさ。アンナカレーニナくらい読んだことはあるだろう?」


 まあいいさ。良い機会だから、君の欠点を列挙してあげよう。出来損ないの猫はぐーっと伸びをしてから、ぼさぼさの冬毛とひげに埋もれていたピンク色の口を開き、画用紙を折り畳んだような作り物の舌をちろちろと上下させた。


 それから一息に僕の欠点を述べた。雨が降るとぐにゃぐにゃになる癖毛、反抗的で厭世的な目付き、形の悪い鼻、乾燥しがちな唇、痩せすぎている体、ストレスでぼろぼろの胃、さらには食事をとる際のマナー、右手の小指が怪我の後遺症で動かないこと、女性を抱く際に胸を強く噛みすぎること、音痴であること、極悪非道よりもたちの悪い、圧倒的外界無関心であること、シナコを愛しすぎていること、芋虫で蛆虫で糞虫であるくせにシナコを愛していること、シナコに関わろうとすること、歯車猫に頼み込んでまでシナコを手に入れようとすること。


 38項目にわたって彼は僕を馬鹿にした。


 38。


 それは僕と歯車猫にとって、大事な数字だ。


 僕は息を切らしている歯車猫の尻尾をつかむと、ぎこぎこ回してやった。


「無理をするなよ、死んでしまうぞ」


 ぷはぁ、と、猫は言った。


「私は死なないよ。というより、死ぬも生きるもないのだ。あるも、ないも、同じことだ。私はただの歯車猫だ。君が細胞人間であるように」


 猫は僕を軽蔑したように舌打ちをして、くるりと踵をかえした。かくんかくんと揺れながら、彼は通路を歩いていく。僕は黙ってついていく。


 やがて僕らは38と書かれたナンバープレートがかけられたドアの前についた。真鍮のドアノブには長くて銀色の鍵がささっていた。猫は無言のまま、頭でドアを開いた。猫がいつでも出入り出来るように、ドアは半分開けたままにしてあるのだ。


 室内には手術台がある。手術台といっても、病院にあるような立派なものではない。歯車猫が手術を行う際に使用する事務机を、便宜上そう呼んでいるだけだ。学校の応接間に似た部屋、黒い革のソファ、どっしりとした本棚、人間の手足を陳列しているガラスケース、それらに囲まれた中央に、手術台がある。その上に、シナコが寝ている。


「やれやれ。君の方からここに来るとは。そんなにこの子が好きなのか。何度来たって、そんな簡単にはくっつかないよ」


 そう言って、歯車猫はシナコの顔の横に飛び乗った。


「この子はすっぱりまっぷたつなんだ。まっぷたつ。君は現象が理解出来ないのかな? 人間を縦に、まっぷたつに切ってしまうと、どうなる? 普通は、助からないよ」


 シナコの顔面は、真ん中に醜い切れ目が入っている。首から下は毛布がかけられていて見えないが、性器までラインは繋がっているはずだ。


「だから、僕はここに来ているんだ、歯車猫。助からないから、助けたくて、ここに来たんだ」


 矛盾人間め、歯車猫は悪態をついた。


「この子をこんなにしたのはどこのどいつか、私は知っているぞ。君はこの子を殴り、縛りつけ、父親の工場に運び、電動ノコギリでまっぷたつにした。それを助けろだって? だったらはじめから、切らなければ良かったんだ」


「知りたかったんだ、」


 そのことについては、もう何回も説明したはずだ、と僕は震える声で言った。彼は僕が苦しむのを楽しんでいるのだ、くそったれの歯車野郎。


「シナコの全てを、知りたかったんだ。この子の内臓がどんな色で、血のにおいがどんなもので、骨のかたさがどれくらいか」


「君しか知らないこの子、そんな事実がどれだけの価値をもつのかね。内臓の色を知っているからといって、君は誰にも自慢出来ない。この子の処女を奪った素敵な彼とは違ってね。彼は君がこの子を殺すまで、周囲に盛大に自慢していたがね。君は出来ない。僕さあ、ゆうべ、彼女を拉致して切断したんだよ、なんて、君は言える? 言えないね。君には喋る相手が寝たきりの祖母と君のことを憎んでいる父しかいないのだから、余計にねえ」


 やめろ、と僕は叫んだ。泣きそうになるのをこらえながら、歯車猫の前足をつかんだ。


「僕のことはどう言われようと構わないよ。でもね、シナコは誰にも抱かれていない。彼なんていない。僕以外には、誰も抱いていない」


 いいや、違うね。彼はにたぁ、と笑った。


「この子は大学生と寝たんだ。酒を飲まされ、よく分からないままに抱かれたんだ。汚い性器を突っ込まれ、汚い精液を中に出されたんだ。そんな普通の出来事に君はとち狂って、恋人でも、知り合いでもないくせにこの子を殺した。まっぷたつにして、飛び散った臓物にお粗末なあれをさしこんで、泣きながら腰をふったのさ。けだものめ! 私は全て知っているぞ。君はクズだ。クズ野郎だ」


 だが、君は私のものだ。そうだろう、矛盾人間。


 歯車猫は、尻尾を僕の眼前に差し出した。


「38年だ。この子を生き返らせる代わりに、君は私の尻尾を38年間、まわし続けるのだ。歯車がとまりそうになる度、私は君を夢にひきずりこむ。君は私の尾をまわす。約束を違えれば、この子はすぐにまた、まっぷたつだ。良いな」


 僕は頷いた。


「この世のものではない私に魂を売るくらいなら、はじめから何もすべきではなかったのではないか? やりなおしたい、取り戻したい、下らないことだ。滑稽きわまる」


 選択に、生に、死に意味があるのではない。歯車猫は後ろ足で顔をこすりながら言った。


 精神的に疲れきった僕は、ソファを蹴り飛ばした。この猫を叩き潰せたらどれだけすっきりするだろう。選択に意味がない?


「それなら何故、君は尻尾をまわしてもらわなければならないんだ? 君だって滑稽だ、歯車猫。生と死に意味はなく、どちらもたいしたことではないのなら、いっそ停止した方が楽じゃないのか?」


 すると、歯車猫の全身の毛が逆立った。眼球がふくれ、背筋が隆起し、尾の毛が金棒のように密度を増した。


 貴様は、と、彼は叫んだ。釘の束を飲み込んだような、血しぶき混じりの声で。そして、ぎゃらぎゃら、と絶叫した。あたり構わず暴れ、牙を剥き出し、僕の足に噛みつき、壁を蹴り、天井を殴り、何度もほえる。全身を揺らし、派手に呼吸をしながら、僕を睨む。真っ赤に充血し、三角になった目で。


「歯車が停止した時、何が待ち受けているのか、貴様は知らんのだ。生きる、死ぬ? そんなもの、呼吸と同じことだ。だが、歯車が停止した時、私は恐ろしい目にあう。無限に等しい時間、無限の手段で、苛まれるのだ。分かるか? 無限の意味が、貴様に分かるか? いや、まあいい、いずれ貴様も知ることだ」


 歯車猫は、元の姿に戻った。そして、シナコにかぶせられていた毛布の端を噛み、手術台から飛び降りた。


「本当はもっと焦らして遊んでやりたかったが、気が変わった。君と無駄な会話をする気が失せた。ほら、こいつが約束のモノだ。これで君は私のものだぞ、二度と生意気な口を叩くなよ。いいな!」


 はらりとめくれたそこには、シナコの体があった。荒々しく縫い合わせたあとが体の中心にある。シナコは不格好ではあるものの、一人の人間の輪郭を取り戻していた。僕のシナコが、そこにいた。洋楽が大好きで、文学が大好きで、男を知らない処女のシナコだ。スリップノットを聴きながら尾崎紅葉を読んでいたシナコだ。


 その胸が、膨らみ、しぼみ、膨らみ、しぼんでいる。呼吸だ。呼吸をしているのだ。


 僕はシナコを抱き起こした。彼女は目を開けず、眠ったままだ。きれいに洗浄された肌に温度はない、だが、重みがあり、柔らかみがある。それだけで十分すぎる奇跡だ。


「歯車猫。シナコは、生き返ったんだね? 今度こそ僕のものになるんだね?」


 ああ、そうさ。セックスでも何でも好きにやるがいい。歯車猫は不吉の化身となったように微笑んだ。

 嫌な予感が背筋をかけめぐる。


 シナコの目が開く。それは二つの硝子玉。青い、ビー玉。室内の様子、僕と歯車猫が、ぐにゃりと歪んで映っている。


 次いで、口が開く。画用紙を折り畳んだような舌、その奥には、無数の、歯車。


「ヤ、ア。ムジュン、クン。オハヨウ。シナコダヨ」


 かちかちかち、シナコの中から、歯車が軋む音。


 シナコの胸を触る。柔らかい脂肪の奥に、かたい金属の感触がある。尻を触る。内側に、棒状の金属が埋め込まれている。性器を開く。大小の歯車がびっしりと並び、噛み合っている。


「あははははは! あははははは! やったぞ、38年だ!」


 歯車猫が笑う。けたたましく。シナコも笑う。室内に、かちかちかちかちと、歯車の噛み合う音が響く。


 38年。


 僕の、38年。





 電車は、ホームについていた。僕は不思議と安らいだ気持ちで目を覚ました。レディオヘッドのクリープが、イヤフォンの中でまだ流れている。エンドレスリピート。


 離れた座席に座っているシナコに似た女と、酔っている男が寄り添って立ち上がり、降りていく。二人は僕の方をちらとも見ない。


 僕は黒いパーカーのフードをかぶり、彼女らのあとに続く。ホームの喧騒、発車ベル、新聞を布団がわりにしてベンチで眠る老人、騒々しい家族連れ、予備校生の集団、第二のシナコたちはそれらに紛れて、どこかへ消えた。僕は見失った。どれだけ間抜けなのだろう。こんなだから、いつだって僕は大事な人を奪われてしまうのだ。


 ぎこぎこ、と、僕は言った。階段の手前で。回さなければならない尻尾は、どこにも見当たらなかった。


 彼女は去っていった。去っていったのだ。僕は蘇った彼女を再び切断することも、再び内臓と性交することも、再び繋ぎ合わせることも出来ない、ただ気持ちの悪い男にすぎない。


 僕は階段に背を向け、引き返して白線の外側まで歩いた。


 歯車猫、君に会う為には、どうしたら良い?


 だが、その問いに答えてくれるものはいない。


 生も死も、等しく無意味だ。僕には何もなく、世界にも何もない。それは死と何ら変わらない。


 ぎこぎこ。僕の頬を、何かが流れていった。


  なあに、悲しむことはない。いつかまた、僕は呼ばれるだろう。無限の地下通路、38号室に。その時まで、僕は僕に出来ることをするのだ。何もかもが無意味だとしても、からっぽのまま死ぬよりはましなのだから。


 そうして僕は振り返り、走って階段を上がった。


 まずは、あの子を奪い返すことからだ。どんな手を使っても。




 なあ、そうだろう? 歯車猫。





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