12月25日クリスマス
クリスマスにはキリストの誕生日として。祝わなくてはならない。
クリスマスイブには、クリスマス礼拝があり、祝わなくてはならない事にされている。
三位一体ではなく、三位三体として、神がお現れに成られている。
いわば、神という概念は崩れてしまった。しかし、未だに三位一体として信じているのが、キリスト者というものである。生きない神は必要ないものとされているので、三位三体として、お現れに成られているのだ。
生ける神は三位三体の神として、三体として現れておられる。
それはそれで生かして三位から御父は御父、御子は御子、御霊は御霊として、お現れに成っている為、いわゆる偶像主義の神である三神一体と違って込み入った事情があられる様だ。生きるという明確なテーマがある中で生ける神として、生き延びる。アメノミナカヌシノカミが絶対神であったのに、それを殺してしまって、何が神々なのか?という問いを突き付けたい所だ。
概念神は脆いものだ。少し条件が変わってしまっただけで、概念神は概念神として、滅んでしまうものだから。
生ける神は生ける神なのだから、それは変わらない。事実、六人格として人々の中で生きているではないか?六気流として。
しかしながら、このジレンマもうしとらの金神が復活されるまでだ。
三位三体として生き延びる事を選んだペルソナは有機的なものだ。
神とは有機的という点で日本神話の八百万の神でさえも、共通しているものだ。有機的、機械的ではない事を前提に、生命的である。いわば、偶像と偶像に対しての信仰が機械的である事を考えると、神道とはまことに有機的であるという事である。生けるという点と有機的という点を重ねて考える事は有機的に機械的に、という事は行えるものの、生けるというのは、「主は生きておられる」という宣言をする上で重要な事である。人間の中で生きているという事と、実際に生きているという事は、神の御体であるという六気流と、キリストの御体であるという教会と、御霊が宿る人間の体、この三つに「主は生きておられる」の鍵があると想う。三位三体であるにせよ、三位一体であるにせよ。「主は生きておられる」のだから、それは大した事ではないと、言う事が出来る。しかしながら、三つ体が一つ体に成る事はなく、それなりの寂しさは感じるものの、体を確保しているという事は、復活にそれ程、力を使わないという事である。三位三体もまた、神、三位一体もまた、神。神は神であって、三位三体の神も、三位一体の神も神なのだから、それには変わらないのである。復活の日は近い。