チガウ イキモノ
私は仕事をほっぽり出した。
文字通り、そう、華麗にオフィスを去ったのだ。
人差指と親指をくっつけたその隙間ほどの罪悪感はあったが、
それ以外はなにも考えることなく、ほっぽり出した。
その日、簡素で味気のないオフィスには、パソコンと電話機がずらりと並べられたデスク
に、皆がいつものようにガチャガチャとキーボードを叩き、電話機の甲高い電子音が鳴り響いていた。
業務の最中、黙々と電話を続けていた上司の遠藤は、自分の業務の手を止めパソコンから顔を上げた。
小麦色の肌で、齢四十にしてシンと締まったスーツの着こなし。
もう厚く膜が張ってしまった、左耳の二つのピアス穴。
若い頃からサーフィンが大の趣味だという。うんうん、分らんこともないぞ遠藤。
初めて彼を見た時には、四十の頃には私もこんな男性になりたいと思ったものだ。
二十を過ぎた人のピアス穴の跡は、なにかそそられるものがある。
ともあれ、周りを見渡していたからには、誰かを呼び出し喝でも入れるのだろう。
嗚呼、南無三南無三。
私はというとその時、
オフィスチェアと受話器に接着剤がベタリと付き、誰一人席を立たず受話器を離そうとしない状況を、
嘲笑気味に隅のデスクから、人間とは倦怠さをここまで露出できてしまうのか、と言わんばかりの姿勢で
オフィス全体を眺めていたところだった。
遠藤の標的は私だったわけだが、それは無理もなかろう。
強面な顔つきとは裏腹に、いつものように柔らかい物腰で私にこう尋ねた。
『お前どうした。ここのところ電話の本数だだ下がりだぞ。なにかあったのか。』
『遠藤さん、実はテレアポばかりの毎日で、気が滅入りそうなんです。
別の部署に行かせていただけませんか?』
『何言ってんだ、俺も含め、ここにいる全員が、この仕事、いや業務を面白いと思ってやってる奴なんか
いやしねえよ。』
この言葉に私は戦慄した。戦慄という言葉以外に、遠藤のこの言葉から来た衝撃を描写する言葉が、
今の今となっても見つからない。
楽しくない、好きでもない仕事をして、稼いだ金で飯を食う。
あぁそうか、私とこのオフィスにいる人たちは、「チガウ イキモノ」なんだ。