皇帝の帰還
もうすっかり家族のように馴染んだ陛下と風呂と夕食を共にし、その翌朝の鍛冶場は、前日までの張り詰めた緊張から解き放たれていた。
剣はすでに完成している。火床に新たな鋼を入れる予定もなく、鍛冶場には珍しく穏やかな空気が漂っていた。
「さて……帰る前に少し試してみたいのだが」
「もちろん。どうぞ」
俺が頷くと陛下は剣を携え、庭に歩み出る。俺と家族のみんなもそれに続いた。
まだそう高くない日が射す庭の端に、俺とクルルで丸太を据える。
いつもの稽古に使っている、すっかりボロボロになっているのとは別のやつだ。
稽古のを試し切りに使ってもらって、稽古用には新しいのを据えるのもありだとは思うし、実際それを使ってくれと言ったのだが、陛下の、
「いや、朽ちてきているとは言え、永らく使ってきたのであれば愛着もあろうよ」
の言葉で、新しいものを用意する事になったのである。
「これでよろしいですか」
「うむ」
俺がぽんぽんと丸太を叩いて言うと、陛下は頷き、剣を構え、俺とクルルは離れる。
動作に一切のためらいはない。ゆったりとした歩幅で近づき、次の瞬間、剣は風を切って振り下ろされた。
勢いと、斬りつけたものからすると違和感のある、軽く乾いた音が響いたかと思うと、ズズズと丸太の上半分が滑り落ちた。
後ろから覗いてみると、断面は滑らかだ。
「……見事な斬れ味だ」
陛下は満足げに口元を緩めると、続けざまに二度、三度と斬りつけた。
振るう剣はぶれることなく、彼の意志そのもののように走る。
「鋼は素朴であるが、鍛えられたものは応えてくれる。まさにお前の言った通りだな」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
リケとリディが感嘆の息を漏らし、ディアナとサーミャは目を見開いている。
ヘレンは腕を組んでいるが、あれはきっと手合わせしようと言うのを堪えているのだろうな。
アンネはと言うと、デカいため息をついていた。
試し斬りが一通り終わると、陛下は剣を鞘へ収めた。簡素な普及品の鞘と革巻きは、輝く刃を包むには少し頼りなく見える。
「柄と鞘が仮のものなのが惜しいところだ」
「生憎、私は帝国の様式には通じておりませぬもので」
「よい。うちの鍛冶には伝えておこう。……もっとも、これに相応しいものとなると、難儀するだろうがな」
そう言って、陛下は豪快に笑う。だが、その言葉に込められた信頼をひしひしと感じ、俺はもう一度頭を下げた。
その日の昼前、陛下は帰還の支度を始めた。昼食を食べてからではどうか、と提案したのだが、
「実はなるべく早く帰ると言ってしまっていてな」
と笑われては引き留めるわけにもいかず、陛下の仰せのままということになった。
陛下が来たときと同じ旅装に剣を佩く。護衛も従者も連れず、単身で黒の森に来たその人が剣を佩いて立つ姿は、それだけで場を圧倒する。
「本当にお一人でお帰りになるのですか」
「心配はいらぬ。行きと同じだ」
眉を寄せて言うアンネに陛下は笑い、彼女の肩を軽く叩いた。
「危険はあるだろう。だが――」
そこで一拍置き、俺を見やった。
「この剣を得たばかりだ。もう少し試すのも悪くない」
「あまり乱暴すぎないようにお願いしますよ」
俺は苦笑しながら答えるしかなかった。
家族全員が集まり、見送りの列を作る。
マリベルが「また来てね」と小さな声で言い、ルーシーは鼻を鳴らした。クルルは低く喉を鳴らし、ハヤテは羽を広げて見送る。
「……やはり、賑やかな家だ」
陛下はしみじみと呟いた。
「宮殿の広間にはあまり笑いが響かぬが、ここには絶えず笑顔がある。鍛冶屋殿」
「はい」
最後に、陛下は俺の前に立つ。
「この剣を得たこと、俺にとって大きな喜びである。帝国の皇帝としてではなく、一人の男として礼を言おう」
「ありがたいお言葉です」
俺は深く頭を下げた。
「機会があれば、余のところへ参れ」
皇帝はそう言って背を向ける。
その背は、帝国の皇帝であることを示すかのように堂々としていた。