出陣
翌朝、朝メシは軽めにしておいた。まぁ、あまり食わないほうが動きやすいとかそういう話ではなく、単にヘレンを除く皆が緊張であまり食えなかっただけなんだが。
ヘレンはさすが本職というべきか、普通にモリモリ食べていた。
「さすがだなぁ。緊張はしてないのか?」
「いや? 普通にしてる。やりあったことのない相手だし。緊張してるかどうかと胃袋を切り離せるようになっただけ」
俺が聞くと、ヘレンは事もなげに言った。その言葉を態度で表すかのように、無発酵パンの2枚めにとりかかっている。
「食えるときに食っとかないと、次いつ食えるか分かんないことが多かったし」
「なるほどなぁ」
ここに住むようになってから随分穏やかになったが、ヘレンはプロの傭兵である。場合によっては数日飲まず食わずということなんかもあったのかも知れない。その結果、いかなる時でも食えるときに食っておけ、となったのだろう。
色々頼まれすぎとはいえ、基本的には鍛冶屋のオヤジである俺が常在戦場の心構えである必要はないと思うが、こうやってプロがその心構えでいてくれるのはなんとなく安心感がある。
「緊張し過ぎも良くないけど、相手をナメてかかるのはもっと良くないからな。皆も……もうちょっと緊張をほぐしてもいいとは思うけど、昨日やったことを思い出して動けば滅多なことにはならないさ」
素早く2枚めのパンをスープで飲み込んだヘレンがそう言った。皆の間の緊張した空気が多少ほぐれたのを感じる。専門家のお墨付きの効果だな。傭兵時代にもこうやって新人を励ましたりしたんだろうか。あるいは自分がそう励まされてきたとか。
俺は「さて、準備準備」と慌ただしく席を立つヘレンを見ながら、そんなことを思った。
鍛冶場に柏手の音が響いた。家族全員フル武装状態で手を合わせる。今日願うのは言うまでもなく、皆の無事と邪鬼討伐の成功だ。最優先はもちろん皆の無事である。
しんと静まり返る鍛冶場。身じろぎ一つすることなく、皆願っている。大丈夫だとは思っていても、万が一が起こらないでいて欲しいのは皆変わらない。
やがて、誰からともなく一礼をした。ガチャっと音を立てたのはヘレンの胸甲だろう。皆の装備もそれぞれの音を立てている。
顔を上げて神棚を見ると一瞬、女神像が輝いているように見えた。誰も反応してないし、日がよく当たるような場所でもないので気のせいだろうが、祝福されたような気分にはなれたし、上手くいくような不思議な確信がある。
……太陽の光を反射させて、朝夕拝む時間だけ光が当たるようにするとかはありかも知れんなぁ。そんな益体もないことを考えられるくらい、緊張がほぐれてもいる。これ以上ない御利益だな。
「火の始末はできてるな?」
「できてるわよ」
「戸締まりは確認したか?」
「はい。鍵は私が持ってます、親方」
いつものお出かけのときのようなやり取り。皆無事にここへ帰ってくると決めたのだから、当たり前のことではある。
クルルとルーシーも小屋から出て、2人とも俺たちのそばでお座りをした。俺たちの緊張と決意が伝わっているのだろうか、なんとなしに顔がキリッとしているように見えなくもない。
ディアナがそっとルーシーの頭を撫でる。クルルもアンネが頭を撫でてやっていた。
それから時間にすれば5分もかかっていないのだろうが、それよりも遥かに長いように感じられる時間が過ぎていく。ジリジリと暑さが身体に染み込んで来るような気がする。
水は持ったっけ、頭の中で自分が水筒を荷物に入れたかどうか思い出そうとしていると、空中から滲み出るように女性が姿を表した。
この“黒の森”の主である樹木精霊のリュイサさんだ。“大地の竜”(の一部)でもあり、今回の邪鬼討伐の依頼主でもある。
リュイサさんは挨拶もそこそこに話を切り出した。
「おはよう皆さん。早速案内をしようと思うけれど、準備はいいかしら?」
俺たち家族は無言で力強く頷く。リュイサさんは満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。それじゃ、向かうわね」
俺たちは再び頷き、リュイサさんを先頭に歩き出す。俺たち家族全員の覚悟の一歩が今踏み出されたのだった。