獲物
俺とサーミャは置いていた弓をそっと手に取った。
樹鹿は泉の向こう岸にいて、こちらはずっと低木の陰から様子を窺っている状態なので、向こうからはっきりと見えてはいまい。
まぁ、そういう状態だからこそ、泉のほとりまで出てきたのだろうが。俺たちが完全に見えているなら、警戒して近寄らなかったはずだ。
そろりそろりと矢筒から矢を取り出して、弓につがえる。弦はまだ引かない。
ややあって、樹鹿が水を飲み終わるかも、というタイミングでサーミャが俺の肩を軽く叩いた。狙えってことか。
俺はゆっくりと左腕をピンと正面に伸ばし、右の親指の付け根が頬骨に当たるようにして弓を引き絞った。この距離でこの弓、そして俺の力なら放物線ではなく、ほぼ直線で標的まで到達させられるはずだ。
なので、矢の角度はつけずにまっすぐ狙う。
「頭か?」
「ああ」
ごくごく小さな声で、とても短い会話を交わす。すると、水を飲んでいた樹鹿の頭が持ち上がり、ふとこちらに向く。気付かれたか?
樹鹿は見定めるようにこちらをじっと見ている。逆に言えば、微動だにしていないということだ。
俺は引き絞った弓に蓄えられた力を解き放つ。カン! と鋭い音が響き、速度を得た矢がまっすぐに樹鹿へと向かっていく。
狙い過たず――といけば良かったのだろうが、放った瞬間のなにかが影響したのか、それともそもそも狙いがズレていたのか、矢は樹鹿の頭ではなく、首の辺りに当たり、その速度を失う代わりに深々と突き刺さる。
あれは致命傷だろうが、逃げられる可能性が高い。これならいっそ肩か腿の辺りに命中してくれたほうが脚が使えなくなっていたのに。
「しまっ」
た、と俺が言うが早いか、すぐそばでカン! と音がした。俺の放ったものよりもさらに速い矢が、首に矢が当たり少し下がった樹鹿の頭に鈍い音を立てて突き刺さる。
暴れかけていた樹鹿はそのままどうと地面に倒れた。仕留めた以外の樹鹿は脱兎のごとく逃げていく。
「仕留めたか?」
「うん」
俺の質問に何事もなかったかのように答えるサーミャ。さすが森のプロと言うべき貫禄である。
俺たちは再び弓を肩にかけると、獲物を回収すべく泉のほとりを歩き始めた。
少しして、不意にサーミャが小さく笑う。
「フフッ」
「どうした?」
「いや、エイゾウでも苦手なことはあるんだなって」
「そりゃそうさ。剣や槍はともかく、弓には慣れてないからな」
「そういうもんかな」
「そういうもんなの」
そう言って俺とサーミャは2人で笑った。
獲物のところに辿り着くと、首と頭に矢が突き刺さり、そこから血を流していた。結構な巨躯だが、ピクリとも動かない。
「ちょっと移動させるぞ。泉のそばで血の臭いをさせすぎるのはよくない」
「わかった」
俺はまず倒れ伏している樹鹿に手を合わせた。
「それ、飯食うときにもやってるやつか」
俺の仕草に気がついたサーミャが聞いてきた。
「そうだな。奪った命に対する謝罪と感謝と、魂の救済を願ってだ」
「ふうん」
サーミャの返事は素っ気ない感じだったが、彼女もそっと手を合わせる。
ほんの数秒ではあったが、そうして仕留めた樹鹿の冥福を祈る。もしかすると、彼(見たところオスだった)も異世界に転生してるかも知れんな。
その後、サーミャが手早く縄を脚にくくりつける。2人で縄を引っ張って引きずっていった。
泉から大きな樹鹿を急いで引きずり、離れたところまで持ってきた。そのまま縄を使って樹につるすと、サーミャが首のあたりにナイフを入れる。既に心臓は止まってしまっているらしく、派手に噴き出すようなことは無いが、まだ固まっている訳でもないらしく、じわりと垂れてくる。
サーミャがナイフを器用に扱い、腹をさばいて内臓を取り出した。最初は腸や膀胱のあたり、次に肝臓や胃や肺、そして心臓だ。
「さすがに手慣れたもんだな」
「そりゃそうさ。それにここでもたつくと肉がまずくなるからな……」
「なるほど」
どういう理屈でそうなるのかは分からないが、少しでも美味いに越したことはない。ここはプロであるサーミャに任せて正解だったと言うべきだろうな。
他の臓物はそばに捨ておいてある(そのうち狼だのが食べに来る)が、心臓だけは
ナイフで土を掘って埋める。こうすることで、森に命を返し、森が新たな命にしてくれるのだ。
手早く内臓を抜いたら、後は湖まで引っ張っていけば、今日やらねばならないことは終わりである。
吊り下げた樹鹿を降ろすと、俺とサーミャは再び引っ張りはじめた。