帝都の晩餐
アンネのお母さんから聞かせてもらった、アンネの小さい頃の数々のエピソード――例えば、力加減が上手くできずに家の扉をうっかり外してしまった話や、小さな虫を怖がって泣きべそをかき、怖がって姉に抱きついたはいいものの、身体の差で押しつぶしそうになった話など――は、どれも愛情に溢れていて心が温まるものだった。
だが、〝黒の森〟に帰ってからアンネ本人にこの話を振ってからかうようなことはすまいと思う。本人が恥ずかしがるだろうというのもあるが、何よりこれは、離れて暮らす母と娘の間の大切な思い出の欠片なのだ。俺はそれを預かった者として、なるべく胸の奥に秘めておこうと決めた。
やがて、話が一段落したところで、お母さんは姿勢を正し、真剣な表情で俺を見つめた。
「エイゾウ様、本日はお時間をいただき、本当にありがとうございました。先ほど陛下も仰られた通り、本来私はあまり公の場に出ることはありません。これ以降、私がこのようにエイゾウ様に近づき、お話しすることはほぼできなくなるでしょう」
少し寂しそうな、しかしどこか晴れやかな顔で、お母さんは深く、深く頭を下げた。
「どうか、どうかこれからも、娘のことをよろしくお願いいたします」
「ええ、任せてください。アンネはうちの大切な家族の一員ですから」
俺がはっきりと頷いて答えると、お母さんは何度も何度もお礼を口にしてくれた。
「よし、長居しすぎては怪しまれるからな。私たちはこれで失礼しよう。エイゾウ、ゆっくりと夜を過ごしてくれ」
皇帝陛下も満足げに微笑むと、お母さんを労わるように促しながら、来た時と同じようにこっそりと部屋を退室していった。
二人の気配が完全に遠ざかり、俺がようやくソファに深く背中を預けて息をついた、ちょうどその時だった。
コンコン。
再びドアがノックされ、文官の声が響く。
「エイゾウ様、夕食の準備が整いました。食堂へご案内いたします」
様子を窺っていたのだろう。さすがは宮殿の職員といったところか。
案内された金剛宮の食堂は、落ち着いた照明と豪奢な調度品で整えられていた。
大きな長テーブルの上には、すでに湯気を立てる料理が並べられている。そして席には、帝国側の案内役であるヴィクトリアさんと、王国からの同行者であるカテリナさん、アネットさんの三人が既に待っていた。
「お待たせしました」
「いえ、私達も今来たところですわ。さあ、冷めないうちにいただきましょう」
ヴィクトリアさんに促され、俺も席に着く。
テーブルの中心を占めているのは、香辛料をふんだんに使ってじっくりと焼き上げられた巨大な肉料理だった。
牛肉のように見えるが、何か他の獣の肉かも知れない。ナイフを入れると、外側はカリッと香ばしく、中は驚くほど柔らかい。口に運ぶと、幾重にも絡み合ったスパイスの刺激と、濃厚な肉の旨味が爆発するように広がった。
「これは……凄いですね。とても美味い」
「ふふ、お口に合って何よりです。帝都は各方面から様々な香辛料が集まる場所ですから、肉料理には特に力を入れているのですよ」
ヴィクトリアさんが優雅にグラスを傾けながら答える。
そのグラスも俺が普段使うような木製のカップではなく、ガラス製のものである。透明度は前の世界のものとは比べるべくもないが、なかなか薄く作ってあり、恐らくは大事な時に出すものなのだろう。
カテリナさんとアネットさんも、最初は帝国の本拠地での食事に少し警戒していたようだが、一口食べてその美味しさに目を見開き、今では無言でナイフとフォークを動かしている。
美味しい食事を堪能しながら、俺はふと、ヴィクトリアさんがこうして同席している理由について考えていた。
もちろん、帝国側のお世話役としての接待の意味合いもあるだろう。だが、ここは帝都の中枢であり、俺という両国に関わる人物を含めた、王国の使節が食事をする場だ。
万が一にも、この食事に毒が盛られたりするような事態が起これば、国際問題どころの騒ぎではない。帝国の皇女であるヴィクトリアさんが同じ釜の飯を食うことで、「この食事は安全である」という帝国側の保証と、暗殺などを防ぐための監視・護衛の意味合いを持たせているのだろう。
……まあ、多分に形式的なものかもしれないが。
そんなきな臭い想像は頭の片隅に追いやり、俺は再びスパイスの効いた肉を口に運んだ。
それにしても、皇帝陛下は俺をこの帝都にまで呼び寄せて、明日の公式な場で一体何の話をするつもりなのだろうか。
王国の二人も同席する公の場で出される話となれば、個人の頼みごとレベルでは済まないはずだ。具体的にどんなことが待っているのか。
香辛料の心地よい余韻を感じながら、俺は明日の会談に思いを馳せていた。




