孤高者の寄る辺 2話
「――んんっ……」
紫紺の少女がシーツの上で寝返りを打つ――その都度、クロスは胃が縮むような感覚を味わい身体を強張らせていた。
時刻は世間が寝静まった深夜。場所は二階にあるクロスの部屋――その窓辺からは月明かりが差し込み、普段よりも室内の明度を高くすると、彼女の寝姿を見やすく照らした。
そして彼女が身を捩る動作を終えると――、場は再び静寂を取り戻す。
「ふぅ……、いちいち心臓に悪いな――」
一見すれば安らかに眠る少女を傍らで青年が見守る、という平穏な構図に映るが――、そのクロスの心中においては穏やかではいられない状況が続いていた。
――目覚めた彼女の状態によっては、手に負えない場合も考えられる。
――できることならばこのまま何事も無く過ごし、翌朝レインが立ち会う時機に起きてもらえた方が好ましいだろう……。
再び寝息を立て始める少女の様子を見、彼は息を吐きつつ下向くと――、その胸を撫で下ろすように緊張を和らげた。
だがしかし、その次の刹那――、
顔を上げた彼の視界に飛び込んできたものは――、その仰向けから上体を起こした少女の姿であった。
「――なっ!?」
突如一変する状況。急転する事態。その急激な場面変化に対し、クロスの鼓動が跳ね上がる。
先程までは、あどけない寝顔の少女が安らかに寝息を立てる穏和な空間であったのだが――それが、殺伐とした空間へと瞬時に様変わりしてしまう。
素早く椅子から立ち上がった彼は、不用意に少女を刺激しないようにしつつ――その動向を注意深く窺う。
「………………」
まだ完全に覚醒していないのか、彼女は半ば瞼を閉じたまま――ぼんやりとした様子で頭を揺らしている。
しかしその最中、傍に人の気配を感じ取ったのか――彼女はゆっくりとクロスの方へ頭と目線を向けた。
微睡む眠気を残しながらも……徐々に開いてゆく両瞼――。
次の瞬間、少女の『奸邪の魔眼』がクロスの姿を明確に捉え、その己以外の異者――警戒対象を認識した。
と同時に――彼が、室内の時空が凍りつき静止する感覚を肌で体感する。
「――ッ!?」
その目を剥き、豹変するように目の色を変える少女。
直後、自身に纏わり付く毛布を取り払い飛び起きると――まるで四足獣のような姿勢を取り、敵対視するクロスに対して臨戦態勢となった。
寝起きの彼女が荒々しく牙を剥く。その放たれた脅威は圧倒的で――思わず彼も椅子を倒して後退りしてしまう。
その持ち前の『奸邪の魔眼』の双眸へと――高濃度の憎悪と敵意を宿し、相手を睨み据える。
するとその高まる緊張の渦中、不意に彼の脳裏にて――帰り際のレインとの対話の場面が回想される……。
数時間前の玄関にて――レインが履く革靴のつま先で地を叩くと、帰路につく準備を整える。
そんな中、彼女を引き止めるようにして――神妙な面持ちとなったクロスが開口した。
「――レイン、最悪の場合……いや、もしもの話をしていいか?」
どうぞ――、と会話の先を促すレイン。
「もしも夜の内に――彼女が目覚めた場合は、どうすればいい?」
直後、彼女のその表情から感情が消え失せたように錯覚する……。
当然レインの側も理解している――その彼の問いが、最悪の事態を危惧してのものであることを……。
そしてその災厄の展開を想定した上で心構えができるクロスだからこそ――、レインも隠さず本音を告げることとした。
「――その時は、どうか……、」
一旦、ここで発言を区切る彼女。思わず唾を飲み込むような間が生じた。
次いで意を決するようにして、今までにない冷淡な色が含まれた声音を発する。
「……死なないでください――」
レインは下手に繕った言葉を重ねず、自らの考えと思いのみを告げた。
逆の見方をすれば、常に相手へと配慮する心優しき彼女が、そういった言い方しかできなかったのである――。
また、その彼女の無慈悲な返答からは――当該の展開に対し、手の施しようがない事実を認めるものでもあった。
すると途端、非情なる現実へと引き戻される感覚。否応なくクロスは、あの苛烈な戦闘時の緊張感を想起させられてしまう。
しかしながら、まるで突き放し見捨すてるように……そう告げられた彼の側も、そう述べるしかない彼女の心境は察している――。
「――ああ、善処するとしよう」
「もし、クロスが私に――っ、」
「いや――、やれるだけやるさ」
「……、申し訳ありません――」
その謝罪を最後に――レインは、やり切れない思いを抱えたまま目を伏し、そこでクロスとの対話を終える。
その後、居心地が悪くなった彼女が帰り、意を決した彼が居間へと戻るのであった――。
【特異元素能力者】である少女の保護は――常に重大な危険が伴い、生半可な実力や覚悟ではやり遂げられない。
そして単純な人助けでは済まされず、その成り行き次第では……関わった者の生命も脅かされる事態も予想される。
他者では堪え難い危難に晒されるが故に彼女は彼を頼り、その過酷な現実を予感していたからこそ――彼は彼女の思惑を知りつつも無事のまま帰した、それが此処に至るまでの真相なのだろう……。
レインには『心の繋ぎ手』としての身分や立場があり、他にも多くの業務や責務を担っている。これ以上、特定の個人に肩入れし続けることはできない。
そしてまた……彼女はクロスだからこそ、この事態を乗り越え――解決へと導けると心底から信じているのである――。
レインとの対話の回想を終え――紫紺の少女と対峙する極度の緊張感の渦中に引き戻されると、クロスは強く歯噛みした。
――相手からの強い敵意……やはり、このような展開は避けられなかったか……ッ。
――とはいえここで自棄を起こし、慎重な行動が取れなければ……それこそ最悪の事態に陥るだろう。
救助した相手が脅威と化す理不尽な現実。この紫紺の少女が普通の女子であったのならば……、その一宿一飯の恩義に対して礼の一つでも貰い受け、翌日の出立を見送る――そんな心温まる場面も想像できたのだろう。
しかしそのような希望的観測――淡い期待は彼女が目覚めた瞬間に砕かれ、不本意な衝突が余儀なくされる。
薄暗い室内にて、妖しく揺れる少女の紫色をした獣の眼光――。
その少女とクロスの両者が――部屋という狭い空間内にて、互いの動きを注視し警戒する。
――このまま互いに身構えていても、状況は好転しないだろう。
――刺激するのは危険かもしれないが……、穏便に対話での和解を求めたい――。
一触即発の緊迫した渦中、それでも彼は一縷の望みを繋ぐようにして弁明を試みる。
「どうか落ち着いて話を聞いて欲しい。君は目覚めたばかりで混乱していると思うが――、自分は君を追い回していた組織の人間では無いし、危害を加えるつもりもない」
黙然としたまま少女はクロスを凝視し、その言動から他意を探るように目を細める。
「これから現時に至るまでの経緯を説明するが――先ず確認したい。此方が君の身を保護することを約束し、この家まで運んできたことは憶えていないか?」
出来る限り丁寧かつ簡潔な言葉を意識し、彼は根気よく語り掛けようと努めた。
しかし相手の少女の反応は薄く――此方の質問には回答せず、その眼球を左右に振り動かすと、この場の空間を把握することに意識を向けていた。
その様子から事前に戦闘や逃走を想定し、自身が即座に動けるよう考慮していることが知れる。
また充分な休息を得たためか、少女は万全の状態であることが見て取れる。それは就寝前までにあった目元のクマが消えていることからも分かった。
回復したその心身は活力を取り戻し、自らの【元素能力】を行使するにあたり――過去の戦闘時と比べて最大限の威力を発揮できることだろう。
するとここで――、不意に少女はその手に握られるマフラーに気づく。
何故このような物を今まで無意識の内に持っていたのか……彼女自身も疑問に思うが、この状況では邪魔にしかならぬため、気に留める事無くその布地を放り捨ててしまう。
一方のクロスは、そのような少女の反応や態度から――状況が芳しくないことを懸念した。
――どうやら、ここまで背負って運んできた自分のことも憶えていないようだな。
――だとしたら、話を信用してもらうことも困難か……?
――何としても交戦する事だけは避けたいところだが……。
少女にとっては、不眠不休の逃走劇を繰り広げた後にやっと得た睡眠である。
限界まで疲れ果てた状態から寝入ったことで、就寝前の記憶が消失または曖昧と化していても無理はないのだろう。
或いは状況不明の現状、敵方であろう男を前にして過去を思い返す作業に思考を割くつもりはないのかもしれない。他にも此方に取り入るため、注意力を削ぐためなどの虚偽の策略を警戒している可能性も有るのだろう。
依然として臨戦態勢を維持し続ける紫紺の少女――。
ならば――、とここでクロスも気持ちを切り替え、最初から経緯を説明することで信用を得、無血による和解の糸口を探ろうと動く。
「自分はこの住居の家主であり、霊園の管理者を務めるクロスという民間人だ。街中にて君が疲弊し倒れたため――その身柄を引き取り、この場にて休ませていた。その行為は純粋な人助けであって他意はない」
引き続き手短に事情を伝え――此方が厚意による保護を実施し、また無害であることを理解してもらうべく話す。
しかし相手の少女は以前よりも猜疑心が強く刺々しい雰囲気を纏っており、その『奸邪の魔眼』で彼を睨み続ける姿に変化は見られなかった……。
「君にも何かしらの事情があるのだろう? 此方としては最後まで協力したいと思っている。翌朝になれば――『心の繋ぎ手』レイン・ウォーフェアキャンセラーも此処へ訪れる。それまで……っ、」
その言下、少女が放つ敵意が害意に変わり、その手足に力が籠る動きが視認できた。
彼女にとって眼前の男一人を相手にするのならば――手早く圧倒できるし、もしも手強いのならば逃走を選択する余裕もあった。
しかしこれ以上、外敵と成り得る存在が増加し、不利な状況へと追い込まれることまでは看過できない。
自分には誰一人として味方などいない。周囲の者たちも信用ならぬ敵方だ――そう自覚する少女にとって、また別の人物の介入を告げたことが裏目に出てしまう。
――まさか、最初に話し掛けたレインのことも憶えていないのか……ッ!?
――いや、以前から『心の繋ぎ手』という存在すら知らない反応に見える。
そう胸中で漏らし、クロスは苦々しい表情を浮かべる。彼にとって少女がレインの存在を無知であったことは手痛い誤算と言えた。
〈心都〉のみならず、他国にも人格者として周知される著名人――『心の繋ぎ手』レイン・ウォーフェアキャンセラー。その少女とも同性である彼女の名を出せば、たとえ就寝前の記憶が一部消失していたとしても気を許してくれると見込んでいたが……、結果として逆効果となってしまった。
おそらくは研究施設に収容されている期間――外界の情報は一切与えられていなかったのだろう。隠匿する人体実験の被験者であるならば、それも必然の生い立ちなのかもしれない。
これでもはや少女との接点は皆無――再び確証が得られない説明を続けても、余計に誤解が生じるだけとなるだろう。
――一体、どうすればいい……っ。
――相手は今直ぐにでも凶行に打って出る勢いだぞ……。
クロスの頬に緊張の汗が伝い、奥歯が噛み締められる。
ただ一人の少女を保護しただけの出来事が、ここまでの深刻な事態を招いてしまう。それによる行き場の無いやり切れない思いが、彼の胸に迫ることとなった……。
そしてそんな時、更なる事態の悪化を招く出来事が起きる。
何と――、その張り詰めた空気に満ちた部屋のドアがノックされたのだ。
「――クロス、何か物音が聞こえてきたけど……何かあったの?」
そのアスタの声が耳に入ると――紫紺の少女は即座にクロスへと飛び掛かった。
予期せぬ同居人の存在の発覚。その人数での不利に対し危機感を覚えた少女が、先制の初動を起こしたのである。
「おいっ待て――、止まれ!」
クロスが制止の声を張り上げた。が――、
既に動き出した彼女はもはや聞く耳を持たず、飛び掛かる勢いのままに彼を強襲する。
瞬間、反射的に彼が防御姿勢を取り、迫り来る彼女の両手に自身の手を合わせると、互いに押し合うような格好となった。
しかし余る突進の勢いによって――そのまま彼の身体は背後の窓を突き破り、二階の部屋から野外へと吹き飛ばされる形となってしまう。
その月と星々が輝く夜空へと――無情にもクロスは放り出されたのであった……。