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愛せぬ櫻

作者: 雅晟


 僕は様々な非難を受けるだろう。でも、どうすればよかったのだろうか? 十六才の恋にしては望みすぎていたのだろうか。あの一瞬で湧きあがった衝動はふつう十六才という年齢では体験しないものだった。いや、幾つになってもふつうは体験しないだろう。そしてあの衝動の後、僕が逃げ出したことを皆が無責任だと言って非難するだろう。けれど僕が思うにあの衝動は誰であっても逃げ出すだろう。愛をつかさどる天使でさえあんな矢は持っていやしない。とにかく僕は稀有な体験をしたのだった。


           ***


 僕の一家は上野公園に程近い坂を登った所に住んでいた。

 僕の両親は男子と女子が一緒に遊ぶことにどちらかと言えば反対だった。けれど僕はこの男女で遊ぶ事が困難な環境に居たからこそ幼少期の早い段階から心の中に埋もれていた性の意識が濃密になったのも事実だった。僕は女子に好かれる方であったが年頃になっても別段極端に異性を意識する事も付き合いたいという感情に駆られる事も無かった。

 しかし、遥香は違った。

 彼女との出会いは高校の入学式だった。別学を進める両親を押し切って都内では最も優秀な共学の高校に僕は入った。無論、人とも獣とも区別が付かない連中しかいないむさ苦しい男子校に入りたく無かったからである。幸い、僕は勉強が得意だったので特に苦もせずにその高校に入る事が出来た。

入学式の前夜は憂鬱だった。共学に入ったもののこの学校じゃ大半が瓶底メガネで、せいぜい良くて天狗のお嬢様だろうなんて事を考えていたからだ。そしてその予想は的中してしまった。入学式の朝、制服を着ながら自転車という高校生らしい不格好な姿で坂を下り、皇居を回り、その高校に近づくにつれて疑惑が確信に変わっていった。仕舞には「子も瓶底なら、親も瓶底」とか「天狗の子は天狗」なんていう標語を半ば苦笑いで考えていた。(今更言うのも、自分で言うのもなんだが僕は割と容姿端麗の部類である)。


           *


 あまりの長さに逆に惚れ惚れとしてしまう程の永遠たる校長の挨拶が終わり(この異様なまでの長さの修飾からも分かるだろう)男子総代として僕は檀上の上に立った。成績最優秀者として檀上に立つ総代の荷は普段余程の事でも緊張しない僕でさえも第一声を震わせる程の重圧だった。

 しかし、あとは何も覚えていない。檀上からの景色も、講堂の静けさも、そういった事ですら覚えていない。極度の緊張が三割、そして遥香との出会いが七割だ。

 その出会いはあまりにも唐突すぎた。先に檀上にいた女子総代、これこそが遥香だったのだ。その時はまだ彼女の名前すら知らなかったが、燦然と真珠の様に輝く肩にかかる黒髪、女性らしいか弱いうなじから零れ落ちる様に流れる肩口、いかにも呼吸の強そうな胸、そして腰から脚にかけて描かれる曲線、その全てが戦慄そのもので僕は何かバットの様な鈍器で後頭部を思いっきり殴られた様な気持ちになった(これが俗に言う一目惚れだ)。

勘違いして欲しくないのは遥香は時たま見るダラシノない魅力、といった類ではなくそうかといって取っつきにくい流行りの外国人の様な冷たい美貌という訳でも無いという事だ。また、単に僕がその類まれな容姿のみに惹かれた訳では無いことを強調したい。ただ、なぜこの様な戦慄が僕に走ったのかは僕自身今になっても分からない。僕の中の第六感が遥香に運命を感じたのかもしれない。


**


 そこからの僕は早かった。学校が本格的に始まってからというものの僕は遥香を自分の物にする事しか考えなかった。幸い遥香はいわゆる「話せない人」では無かったためかなり早い段階で彼女と親しくする事が出来た。しかも遥香への恋心は限りを知らず、僕は彼女の生来持っているのであろう快活さ、華やかさに日に日に惹かれていった。

 結局僕らは周囲からの祝福の元、成夏の七月に晴れて付き合い始めた。わざわざ文に入れ込んだ「祝福」という言葉に読者は一抹の疑問を抱くだろう。かくいう僕も祝福という状況はその時になるまで描きもしなかった。

端的に言えば遥香が「華」だった。ただそれだけの事であった。遥香には前述した外面的な魅力もさることながら天性の気質、これこそが彼女の最大の魅力であり真骨頂でもあった。どんな場であっても遥香がいるだけで明るくなり、どんなに女嫌いな男でもどんなに自己顕示欲がつよい女でも遥香とは自然と話せる、そんな包容力と機敏さを彼女は持っていたのだ。実際この華を手にするまでには何人かの恋敵が現れた。だがここで問題なのは敵がいた事では無く、その敵があまりにも必然的すぎた所である。遥香が人に好かれる事に関してどこか欠けていた方が自然でかつ僕としては恋敵に苦戦を強いられただろう。だが人に好かれるべくして好かれる華に群がる虫はほぼ無意識の内になんの理由も無く近づいていた。僕もその虫の内の一匹だったかもしれない。だが結果として僕は善戦を繰り広げる事なく遥香を比較的容易に手に入れる事ができた。恐らく彼女と意識的に同じ委員会に入ったり、積極的に話したり、偶然にも趣味が同じだったりといった僕の献身的かつ盲目的な日々の努力が実を結んだのだろう。そして僕が遥香を手に入れたと言う話がクラスに広まるとクラスには祝福の風が舞い込んだ。僕自身、遥香に引けを取らない位良い人をクラスの中では演じていたのも祝福の理由の一つではあるだろうが、僕が推測するに「遥香が誰かと付き合う」というのは「蜂鳥が花の蜜を吸う」と同義な位必然で「僕が遥香と付き合う」とか「七月ごろから付き合い始めた」とかいうのはあまり意味のない情報だったのかもしれない。こうして少なくとも僕のクラスでは思っていたより早かったこの事実に対して全員一致で感嘆の声や温かい冷やかしといった形で祝福された。


今思うと、極めて不愉快な祝福であった。


           *


 暑すぎる夜だった。聴こえるはずのヒグラシの声もコオロギの声も、暑さにやられたのだろう、何一つ聴こえなかった。飾り気のない閑寂の中に一筋だけ聴こえる沢の水の流れる音がいたずらに駸駸と時が流れるのを誇張していた。

 八月の上旬、僕たちのクラスは恒例行事の一環として林間学校に来ていた。この話はその時の事である。

あの異常なまでの暑さと静寂の中、僕は居ても立っても居られず独り男子寮から抜け出した。時刻は夜中の二時を回っていたがむさ苦しい男子寮にいるよりかは独り外の空気でも吸いたかったのだった。外に出ても暑さはさほど変らなかったが上高地特有の清涼感溢れる緑の風と都会には無い漆黒の闇という形容が最適であろう夜の暗闇に映える壮大な星空が僕の気分を幾分良くした。

しばらくして目が暗闇に慣れてくると僕はもう一つの星空を自分の手の届く辺りに発見した。その謎の星空は沢の方向に広がっていたので足場に気をつけながら一歩一歩を踏み締めつつその星空の正体をしきりに目を細めて確認した。蛍だった。これまた都会では見られない物珍しい星空を僕は他にやることもないのでしばらくぼんやりと眺める事にした。不規則に動き、時たま点滅するその緑の光は雄が雌を呼び寄せるために光らせているらしい。差し詰め恋のともし火である。そしてその怪しげなともし火は僕にあらぬ事を思い起こさせた。(この壮大な星空と蛍の光を遥香に見せたら何というだろう)。この言葉の裏には二つの真意が隠されている。一つは普段優等生をやっている僕が女子寮に入り込み遥香を連れてくるという冒険をしてみたかったという何とも子供らしさ溢れる理由。二つ目は壮大な星空と蛍の光に囲まれる遥香を僕が見たかったという理由である。星空が発する程度の弱さの光に照らされる遥香の美しさは考えただけでも身震いする程に美しいと思ったのだ。

しかし前者の期待はいとも簡単に裏切られてしまった。いざ女子寮に行ってみると待ってましたと言わんばかりにあの「祝福」の下の善意によって女子のクラスメイトによって遥香は呼ばれ事無きを得てしまった。「やっぱり来たよ~」という言葉に僕はもどかしさを感じたがそれ以上に気が抜けてしまった。それでも遥香を連れ出したのは間違えでは無かった。それどころか大成功だった。僕の予想通り星空の元の遥香は美しさそのものだった。更に彼女の星空に対する可愛らしい反応が彼女の美しさに愛おしさというオマケまで付けて僕はもうどうにかなってしまいそうだった。

初めての抱擁だった。いや、強引に引き寄せたといった方が適切だろう。異常なまでの暑さと暗さとそして彼女の美しさに僕は正気を失い、最後に彼女の愛おしさが僕の理性という器の均衡を破った。あまりに無意識の内の一瞬の出来事で彼女よりも当の本人である僕自身が一番動揺したが一拍置いて彼女がその柔らかで小柄の体で力一杯に抱き返してきたので僕も気を取り直して抱き返した。


この合宿を皮切りに僕らは互いに恋人として時を過ごしていった。青春であった。

しかし、悲しい哉。僕は全く予想だにしない衝動と終焉を迎えることとなってしまうのである。


           **


 正直クラスでの花見には気乗りがしなかった。なんでも高二に進級する四月の第一日曜日にクラスで花見をするといった話が持ち上がったらしいと聞いた時に僕はそう思った。大体僕は世間体でいう花見がとにかく嫌いだった。花見とは名ばかりでただの宴会と大差がないからである。オマケに僕の場合は自分の部屋がある家の三階から上野公園の桜を見た方がよっぽど花見ができたから尚更に嫌いだった。だが、クラスでの花見にはやはり体裁上行かなくては分が悪いし、何より桜自体は沢山ある花の内でも一番好きだったので渋々行くことにした。

 場所は上野公園、午前十一時に集合との事だった。結局当日も気乗りはしなかったのっだが僕の気分とは裏腹に桜は一番の見ごろで、陽気まで花見日和だった。

 そんな僕も以前にモルディブのお土産に買ってきた薄ピンク色がかった夜光貝のブレスレットをつけて来た遥香の可憐さを実に二週間ぶりに見ると思わず笑みがこぼれてしまった。またもや遥香の天性の気質にやられてしまったのだった。


           *


 花見の佳境も過ぎ皆が思い思いのメンツで話しだした頃、僕は他の女子と話す遥香を横目で見つつ、異常なまでに差し込む上野公園独特の日光に照り付けられているまだ比較的若い桜の木をぼんやりと眺めていた。桜というものはこうして眺めてみると実に見事な花で、遠目で見ても近くで見てもその美しさは無条件に心に訴えてくる節があり、また木であるからその根幹には見るものを安心させる度量の広さがあるようにも感じた。

 目に留まっていた一輪の花から一枚の花びらが無風の内に落ちて来た。その不規則な軌道を描きながら止まっているようにも見える花びらを僕が目で追っているとその視線の先に一組の男女が入り込んできた。普通のどこにでもいる様な男女であれば僕の意識に入り込む事は無かっただろう。しかしその二人は入り込んできてしまった。

あまりに醜悪な女性だった。こう言うのは語弊があるが、少なくともその時の僕はこう思った。普段から容姿に過敏に反応する僕であるからだと言われるかもしれない。しかしあれは僕の謗言の範疇を超えた悪寒がした。ただすぐにこの悪寒は女性の容姿に対するものでないことが分かった。あまりの光景に僕はすかさず疑問が湧いてきた。あの横にいた男性はあの女性のどこを気にいって付き合っているのだろうか? どうでも言いことなのかもしれないが僕にはその疑問が何かとても大きな意味を持っている事を第六感で察して必死に考えた。

あくびが出るほど遅い速度で落下していたさっきの花びらが気づくと地面に生えている名もなき雑草の小さな白い花の群生の上に落ちていた。その既に踏み固められている白い花に僕は何らかの意味を感じた。

その白い魅惑の花は僕の疑問を解消し、僕に遥香を愛せなくした。

 醜悪な魅惑の、その一瞬の内に誕生した嫉妬という真実をその瞬間のものでしか無いこととしてやり込めようという焦燥に駆られた僕は同時にその妖姫のもつ毒に心が溶けているようにも感じた。僕は彼らの中に崇高な愛を見出していた。その不変的な世界観に。

かくしてその嫉妬は僕の紛いの愛から発していた。誰しもが祝福し必然とまで思われた愛に彼らの様な確固たる独自の世界観はあるわけが無かった。檻の中の羽を奪われた鶴同様に結局は他の視線の元に制約された愛だった。檻から放たれた動物は戻っては来ない。僕の意識は既に檻の外を向いていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 恋は盲目で落ちるもの。愛は登り坂。 まさにその折り返しで冷めた恋。 彼は恋をする事、以外に彼女に価値を寄せなかったのだ。凄く冷静なのにミーハーだったのだ(笑) [一言] 「私のどこが好き…
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