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しせつのはなしとせいかつのほご  作者: 鹿家加布里
就労移行支援施設期
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後の先の為とはいえ

 就労移行支援施設から「企業見学に行かないか」と言われたため、急ぎスーツ一式を揃えることとなった。

 一式は、すべからくと言う意味だ。

 スーツ、ワイシャツ、アンダー、ネクタイ、鞄、靴、すべてだ。

 フリーランスという名の自営の傭兵稼業であった都合、自分は衣装を持っていない。

 そもそも「おしゃれ」というやつにとんと興味が無い。

 モテたいという願望も無ければ、人に好かれようという向上心も無い。

 ただただ、目の前にやってくる案件をこなしていくだけ、それを終わらせてアニメを観ながら酒を飲むのが幸せな人種なのだ。

 就労移行支援施設で知った、喫煙所の陰口大会や家庭の境遇語りなんか、これっぽっちも興味が無い。

 そういった下世話な話に関わらないですんだ分、自分の心は周囲よりは幾許か綺麗なものだろうと思う。


 とはいえ、戦争に出るのに軍服も無ければ武器も無い、というのでは、どうにもしまりが悪い。

 わかっている負け戦に突っ込んでいくほど、愚かしいことは無いのだから。

 普段は布団入れにしか使っていないクローゼットにかかった、過去の遺物を試着して、ため息を吐く。

 スーツはとうにウエストが合わなくなっており、大変不恰好なものしか持ち合わせていない。

 飲んでいる薬の影響か、一か月で四キロも体重が増減する体質なため、多少大きめに作っておかないとダメなのだ。

 革靴なんぞ、持ち合わせてはいない。

 そんなものを履いて山や田畑を駆け回り、デジカメを光らせるような愚かしいことを、誰がするものか。

 唯一実用的な鞄に至っては十五年以上愛用しており、あちこちが擦り切れ、大変味のある風合いをたたえている。

 ここにカネをかける分には、異存はない。

 その程度の認識だ。

 

 就労移行支援施設に入ってから、生活保護費を貯蓄してようやく捻出できた金額。

 しめて五万円。

 二か月分の食費相当の金額を持っていかれた。

 居酒屋で八回は豪遊できるだけの蓄えが、ものの数十分で溶けて消え、形あるものに変質した。


 ああ、新卒採用の現場で、就職活動で、やれトレンドだやれ服装指南だ、と、したり顔で云々言う奴らがうじゃうじゃと湧いて当然な市場規模だな、と、改めて感じ入った。

 この消費活動を、就職活動をしている学生達、ひいては親達に要求する。

 再就職や、自分のような境遇の貧乏人に、出費を強要する。

 こういう時のために貯めておいた貯蓄を、一気に吐き出させる。

 容赦なく切り崩させておいて、購買意欲が無い消費者が悪いとわめきたてる。

 経営者が最も欲しがるのは人件費のかからない労働者だ、というのはどこで読んだ文章やら。

 これでスーツを着ない職業についてしまったら、鞄代を引いた四万四千円もの出費は、どぶに捨てたことになる。

 貧乏だから仕事を探しているのに、貧乏人からカネを巻き上げようという、あさましくも侮蔑すべき「トレンド」とやらに辟易する。


 この年齢でスーツを持たない職業は、たくさんあるのだ。

 大企業相手のプレゼンへ、GパンにTシャツといった出で立ちで挑む馬鹿だって、世の中にはいるのだ。

 スーツでなければ説得力が無い、ありゃ嘘だ。

 TPOを考えろと言われればそれまでなのだが、現場が面と向かって真っ向からやり合うのに、服装は関係ない。

 必要なのは、提案書の説得力と経験則、中抜きの無い実直な見積書と、圧力に負けない心意気だけだ。


 外注仕事を振られた場合、元請けの営業はそうだろうが、末端の孫請けは、それこそTシャツとパンツでケツをぼりぼり掻きながら作業をしている。

 上流のディレクターがアレで仕事がすすまないときなぞ、ビールをかっくらいながら作業をすることだってある。

 案件が終わるまでに、何本、鼻毛が抜けるかをティッシュを拡げて数えながら取り掛かる事すらあった。

 立派なものが出来ました、と、誉められるのは営業であって、現場の人間はそんな事知ったこっちゃない。

 傭兵は所詮裏方だ、作法なんて知る必要が無い世界で生きてきたのだから。


 それが社会のルールであるというなら、仕方がない、従おう。

 だが、なんと恐ろしい話であることか。

 仕事で知り合ったアメリカ人やドイツ人の恰好たるや、なんとラフなものであったことか。

 制服文化の継続そのまま来ている大多数の日本人は、これが「普通」と捉えてしまい、思考停止しているのだろう。

 考えることを止めてしまえば、その分リソースを使わなくていいから楽になる。

 その心理的弱点を狙い定めて撃ち抜く職業の一つが、紳士服なのだな、と、穿った見方をしてしまう。

 自分はそれほどまでに、社会の常識というレールから逸脱していたわけだ。

 雇う側も雇われる側も、共有概念のずれに苦しめられることだろう、お互いに。

 それが自分の切り開いてきた道だ。

 自分は獣道からいきなりアスファルト舗装の道に這い出てくる猪のようなもの。

 せいぜいはねられないよう気をつけねばなるまい。


 ズボンの裾上げに数日を要すると言われ、今日のところはすごすごと帰る。

 今日日、Gパンの裾上げだってユニクロなら二時間待ちで終わる話なのに、大した殿様商売だ。

 断言してもいい、自分にスーツは似合わない。

 スーツに着られている風体になる事だろう。

 カネの無い気持ち悪い四十路に、何を求めるというのか。


 正直少しだけ、こんなポンコツを社会に解き放っていいと考えている就労移行支援施設のサポート体制に戦慄したりしている。

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