いなくなる、ということ
施設に通うようになって、まだ、一年も経っていない。
だが、自分が就労支援施設探しをしていることを聞きつけた色々な人から「寂しくなるね」と言われる。
現在。
自分と、自分より下の年齢の利用者は、施設側の方針で就労へ向けた何かしらのアクションを取っている。
親と子ほど歳の離れた集団が仲良くやっているのだ。
定年を越えた年齢層の利用者からは、特に声をかけられるようになった。
花札の師匠と勝手に仰いでいる方からは、ほぼ毎日、三本勝負をやらないかと誘われる。
わかっているのだ。
自分を含めた所謂「若い世代」が居なくなると、この施設の空気がどうなるか、という未来が。
だが、そうはいっても、自分には自分なりの人生がある。
彼らは大人だから、無理な引き留めをしようとはしない。
それこそ、息子を社会へ送り出す親のような気持なのだろう、と察する。
三十代前半の利用者が、どうやら来月下旬にも就労支援施設へ通うことに決めたそうだ。
それが、寂寥感のトリガーになったのだろう。
彼は人当たりも良く、快活で、すぐに人と仲良くなれる性格の御仁だ。
彼のやり方は、施設利用者にまんべんなく仲間意識を共有させる社交術であり、自分には真似ができない。
仲間意識を作るのに長け、定年退職組の人達を相手にしても、ため口で会話が許されるキャラクターだ。
自分には、それが出来ない。
年長者への敬意を払ってしまい、今一歩を踏み出すことが出来ないのだ。
また、社会復帰なった際に、言葉遣いに失礼があってはならないという自戒の念も、ここには含まれている。
だが彼からすれば、自分こそ心をつかむ社交術を心得ているのだ、と返される。
自分がやったことと言えば、「同好の志」を、少なからず喋るようにしただけの話だ。
ただのオタク話に食いついて、ただのオタク話で盛り上がっているだけ。
ひたすら「すごーい」「たーのしー」言いまくってる=ポジティブな会話が出来ている。
けものフレンズの話題で盛り上がっているだけで、スタッフからは「劇的な状況改善」と捉えられているのだ。
内向的なオタクの典型例、何が好きかに興味を持って話を振ってあげれば、引っ張り出してあげるのは簡単、何の問題も無いというのに。
それが出来ないからなのか、自分が体調不良や用事で施設を休んだ日は、彼は昔に帰ったかのように誰とも話さないそうだ。
それでも、自分が居る時限定だが、彼は他の利用者にツッコみを入れるまで饒舌になった。
数年通所している彼が、半年も経たずこんなに話すようになったのは、驚きだったらしい。
自分の存在で、施設内の空気が明るい方向に変わった、とも言われる。
だが、自分には自分の未来、失ったものを取り返すという目的がある。
確かに、彼の今後は心配だ。
かといって、自分は彼のもとに寄り添ってあげられる立場にはない。
確かに、ここは居心地がいい。
だからと言って、そこで満足してしまってはいけないのだ。
自分には、まだ先、歩いて行かねばならない道があるのだ。
時間的には、一年も経っていない付き合いだが、その内容は濃厚なのだ。
こちらとしても、寂しくないわけが無い。
決められたカリキュラムをこなし、オタク話に花を咲かせ、少し気をまわすことで全体の輪を円滑にするくらいの事しかしていない。
オタク話云々以外は、社会で必要なスキルであり、特別なことは何もしていない。
しかし、自分には時間が無い。
このまま生活保護に堕した状況を甘受するつもりはないのだから。
あと二か月ほどは、今の施設に厄介になるだろう。
就労支援施設の業態によっては、顔を出す頻度こそ落ちるものの、今の施設に出入りするだろう。
未来の事は、今はまだわからない。
出会いがあれば、当然別れもあるのだ。
それよりなにより、自分だ。
自分をどうにかするのが目的で入ってきたのだから、当然の話だ。
寂しくなるね、この言葉に報いるためにも、今の施設に居る間は、頑張ろう。
それくらいしか、出来ることは無いのだから。




