心より弱っていた肉体
寒さが続きますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?
私は布団とパソコンの排熱だけが頼りです。
執筆スタイルですが、体調がいい日だけぐねぐねと書かせていただきます。
需要はないでしょうが、お付き合いいただければ幸いです。
本当に保護受給者の日常を淡々と描くだけですので、オチも糞もありませんが、よろしくお願いいたします。
施設の担当者と相談の結果、当面の利用は週に二回とすることで話は決まった。
二週間、つまり四回通所してみて、回数は改めて検討する方針だ。
これは金銭的な理由ではなく、体力面を考慮してのことだった。
恥ずかしい話だが、施設での自己紹介の際。
半年の長きにわたり、ほぼ独りでいたせいで、声がかすれてうまく言葉を発せられなかったのだ。
そこで初めて、仕事に奔走し、打ち合わせを頻繁に繰り返していた日々が、昔の話となって久しいことに気が付いた。
同時に、己の勘違いにも思い至った。
心中では現状を憂い、常にその件に関して多弁であるかのように考えていた。
パソコンの前に座り、ネットの利用を繰り返すことで満足し、本来声音が持つべき雄弁さが、キーボードを打つ指先に移っているとはつゆとも知らずに。
思い返してみれば、一日のうちに他人と意思疎通を図るため音声を使用するのは、弁当を買う際に交わす
「袋は必要ですか? お箸は必要ですか?」
「いいえ」
の、たった一単語くらいのものとなっていた。
独り言を口にするでもなければ、鼻歌の一つも歌わず、うずくまる日々。
結果、使わないせいで声帯が弱り切ってしまっていたのだ。
これは医師の診断に拠るものではなく、実感として、思い当たる節として、のものだが、まず間違いはないだろう。
何の悪い冗談だ、と思った。
これが仮に仕事の場だったなら、どうにも体の調子が良くない、くらいの嘘でやり過ごしていただろう、発覚しなかっただろう、とも。
また、よろけていて危なっかしさがあることも担当者から指摘された。
アパートから施設まで約三十分しか動いていないのに、ひどく疲れているように労わられたのは、心外だった。
自分はまだ大丈夫、動けるし疲れてもいないと主張しても、落ち着きなさいとたしなめられる。
そのたしなめ方は、自然で圧力もないが、逆らえない種類のものであった。
十数年前。
自営業になる前、友人たちと起業した会社を、脳と心の病を併発したことを理由に辞せねばならなくなった際にかけられた、医師からの言葉。
一言一句そのままではないが、同じような意味合いを含む声が、優しく投げかけられる。
――大丈夫じゃないからここにきているんでしょう?
――まだまだやれる気持ちはわかりますけど、まずは体も心も、間に開いた距離を縮めないと
あの日突き付けられた病名宣告に、似たような。
あの時受けた衝撃を、思い出した。
何重もの分厚い装甲を何か所も貫通され、黒煙どころか炎を吐き、半ば沈みながらも見えない敵に砲を指向し、ひたすら戦場でのた打ち回る軍艦。
自分を例えるなら、これが良く似合う姿だろう。
職を辞する際に一度。
障碍者手帳の交付で一度。
生活保護で一度。
よくもまあ反省も、失敗から学ぶこともなく、性懲りもなく、思いつくだけで三度も。
よくもまあ三度も、絶対的な敗北の宣言を突き付けられたものだ。
そして、四度目は、たしなめに軽く用いられている。
ああ。
ここに来てよかったな、と思った。
自分は、就職氷河期世代のど真ん中だ。
食っていこうにも働き口が無い、バイト先も見つからない、そんな時代だった。
だから、起業という若気の至りに及んだ。
そして頑張りすぎて、体も心も追いつかなくなって、会社から身を引いた。
会社法の改正で、有限会社が設立できなくなった頃の出来事だ。
自営業を営むことを決意したのも、治療費に充てていた蓄えが底をついたが、働く先は相変わらず無かったからだ。
現在おかれている状況と、似たような状態にはまっていた。
だが、社会のセーフティネットは整っていない、そんな時代だった。
今にして思えば、だが、嘆いても時間は戻らない。
幸いまだ若く、会社をやっていた頃の伝手があったし、食うためには法に触れない限りのことは何でもやる気概があったし、なにより親のすねかじり、所謂ニートになるつもりはさらさらなかった。
当時の自分は、自営業でもなんでもない、何でも屋か、傭兵稼業のようなものに周囲からは見えただろう。
少なくとも父親にはニート以下のそういうものと判断され、今では顔を合わせれば下手すると刃物が飛び交いそうな勢いで険悪な関係だ。
努力も我慢も、何も報われなかった。
あの時から、本当に、笑ってしまうくらい何も変わっていない。
むしろ、立場は悪くなってしまっている。
かといって、もう若くはない。
医者の苦言を無視して体をぶん回し、カネを得て、ギリギリカツカツのところで治療しつつ世間を渡ってきたが、遂に力尽きる日が来たんだな、と。
心の奥底では、それを自分に言い聞かせるために決断した事だ、と、きっちり諦めをつける時期が来たのだな、と。
昼飯にありつけるなんて上っ面を未だ理由に据える自分は、さぞ滑稽なことだろう、と。
決断の重さを、自分で茶化しでもしなければやっていけない。
その受け入れ先に、笑顔で先制攻撃を仕掛けられた。
悔いはなかった。
他方、現実的にも、担当者の指摘は的確であった。
一日の運動量も、よくよく考えてみれば、買いものに行く往復十分程度の自転車が関の山。
一か月のうち数回ある通院日は、ある意味イベントのようなものだった。
掃除や洗濯などを除けば、それ以外の時間は、ひたすらじっとしていただけ。
脚力が衰えるのも、さもありなんといった体たらく。
通所の間に怪我でもされてはたまらん、と判定されるのはあまりにも当然な話だ。
従うほか、なかった。
それから数日というものは、ひさかたぶりの多忙を味わうこととなる。
四十辺りををうろうろしていると、体があっという間に言うことを聞いてくれなくなります。
ここまで落ちた年寄の愚痴に付き合っていただき、ありがとうございます。