独りの年越し
クリスマス?
あの体調の悪さで祝う気になれますかと私は言いたい。
十二月の生活保護費は、普段と比較して一万円ほど多めに支給される。
いわゆる「餅代」と言われるものだ。
十月頃から支給されている暖房費も含めれば、ちょっとした贅沢も可能になる。
独身家庭向けのおせち料理を買うことも夢ではない。
酒だって買える。
何かあった時のために貯めている資金も動員すれば、三が日くらいは半額弁当に頼らずにも済む。
だからと言って、そんな贅沢な浪費は、これをよしとは出来ない。
生活保護者が貯金可能とされる限界は存在する。
窓口で言われたのは、大体六十万円くらいまで。
そこまでの資金を貯め、心に余裕を作るのが先なのだ。
施設に通うのは、社会復帰のためだ。
社会復帰できたとしても、当面の生活費は必要になってくる。
その時に無一文では、元の木阿弥だ。
精神の病みを治しつつ、施設で社会復帰までの道程をこなしつつ、貯蓄が出来るほど生活を切り詰める。
いつまでもこの立場にいるつもりはさらさらないが、幾重にも重なる壁の厚さは半端ではない。
社会復帰に至らず、生活保護のままで良いや、と思う人たちの気持ちも、その実、わからないでもない。
まず、ハローワークに行ってみたとしても、生活していけるだけの賃金を提示している仕事が無い。
社会実態に即した仕事が無い、という訳だ。
仮に高いものを見つけたとしても、話を聞く限りでは労働環境が劣悪なものが多いという。
そんな思いをしてまでも働きたいか、と、開き直ってしまえば、生活保護は楽でいいという話になる。
本当に貧困問題を解決したいのなら、公務員への雇用を促進すればよいのだ。
かつて公務員と仕事をしたことがあるが、彼らの仕事内容は部署にもよるだろうが、楽に思えてしまう。
カネを出す側根性が染みついていて、その傲慢さが鼻につく奴もいた。
学生時代にその道を選ばなかった癖に、と、今更わがままを言っているわけでもない。
民間が雇用の受け皿として機能していない状況下、先ず隗より始めるべきなのだ。
選ばなければ仕事はある?
そんなのは嘘だ。
老後の食い扶持を貯蓄すらできない「仕事」は、ただの「労務」「労役」だ。
自分で食い扶持を稼げない「貧困層」だからこそ、思う。
この選択肢は、楽だし、堕落しようと思えば、どこまでも堕落できる。
施設に通い、飯を恵んでもらい、半額弁当の争奪戦に明け暮れるだけの生活で満足できるなら、それで十分だろう。
病院の窓口でカネを支払わない奇妙な光景を見せつけて構わないのなら、それもまた良しだ。
時折、考えてしまう。
自分はIT業界の隅っこで仕事をしてきた。
自分の仕事は、労働効率の改善のために役に立ってきたのではなく、働きたくても働けない人を増やし、まるでそれがいい事であるかのように振る舞い、仕事を取り上げることばかりを頑張ってきたのではないだろうか、と。
駅の改札から人が消えたように、効率化という名の大義名分を盾に労働を奪ったから、そのツケが来た。
きっと産業革命時代を生きた人々が怒り狂ってラッダイト運動に励んだのに、恐らく近い感情を覚えているのではなかろうか、と。
自分は恵まれている。
生活保護受給を認められ、餅代まで頂き、師走の寒空の中、部屋で一人ぬくぬくとインターネットで遊んでいるのだ。
働かずに食べる飯は旨いか、と問われたとしよう。
質さえ求めなければ、こんなに楽なことは無い。
自嘲するしかない、みじめだ、本当にみじめだ。
自分はそれほどプライドが高いという訳でもない、至極一般平均的な生活を営んでいたはずなのに。
どうしてこうなった。
三年前の今頃は、おせち料理の自作に励んでいたはずだ。
今年は、おせち料理を準備する予定もない、野菜の高さにめまいがするからだ。
年の瀬に奮発するような気力すら、無い。
年末年始に激減する半額弁当の買いだめ量を増やさなければ、程度しか考えることもない。
せめて、年越しそばくらいは食べよう、そばは比較的安い食品だから。
咳をしても独り、とは、誰の言葉だったろう。
今年は業者間交流を兼ねた忘年会にも、お呼びがかからなかった。
当然だ、看板を下ろした者にかける声などない。
カネの匂いがしない相手で飲みに誘ってくれるのなんて、学生時代の友人たちくらいのもの。
そんな彼らも、やはり優先するのは家庭になってくる。
咳をしても独り、だ。
お医者さんから処方された風邪薬だけが今年の友達です。




