勝利の定義
そもそも勝利を定義すること自体がおかしいのだが。
自分はいったい、何を以て勝利・ゴール地点と考えているのだろうか。
生活保護からの脱却、なるほど確かに勝利要件だ。
職にありつく、それもなるだけ良い条件の場所に。
確かにそうだ、就職はあくまでスタートラインだ。
だが、現在求めているものは「その先」を照らし出そうとはしていない。
就労移行支援施設のスタッフに聞いても、就職という名の「入口」を探す方法を示してくれている。
進む先では、一歩踏み入れた「就労定着」まで一通り面倒を見てくれるという話だ。
だが、施設に、施設のスタッフに自分の人生をお任せしたままでいいのだろうか、という疑問がわく。
ことここに来て、健常者の転職・再就職はすごい決意のもとにあるんだろうな、と、感じいる次第だ。
誰も道標を示してくれない、自由ではあるが、指標も無い道を進んでいる健常者。
制度を賢く使った、精神手帳を持たされた、障碍者であり生活保護受給者である自分。
不公平感が出来ているのではなかろうかと、最近常々思う。
障害者雇用なんて言葉が、なんとなく一般的に使われる場所、いい時代だなと思う。
自分が起業したころ、十数年前にこんな概念は無かった。
障碍者を雇用する側を経験したコトは無い。
時代が変わっているのだ、それをまざまざと感じる。
故に、世の「経営者」はすべからくすごいな、と思う。
常に変わっていく社会情勢に順応することを余儀なくされているのだから。
職人は経営者にはなれないが、経営者は職人になれる。
自分が悟った真実だ。
目の前の業務に傾倒してしまいがちな者は、大きな視野でモノをみる人々と肩を並べられようもない。
そう、自分には経営者の側の素養が無かった、それだけの話だ。
部下の教育などといった内向的な作業は得意だが、外部からの要求要望に対しての断り方がへたくそ。
なるほど、常務が毅然とした対応を取れない会社では社長への意見具申など出来ようはずもなかった。
かつての会社は今でも存続しているらしいが、経営はどうなっているのだろうか。
まあ、心配しても詮無い話ではあるのだが。
それでもフリーランスという名の傭兵稼業が続けられたのは、ひとえに客先に恵まれたからだこそだろう。
事実、コンペで負けて以降、業績はがくんと下がり、あっという間に廃業・生活保護まで一直線に転げ落ちた。
相手が巨大すぎては、敗れた後に都合よく潜り込む隙間もなかった。
業界では知らぬものは無い企業と組んでいたからこその安寧、それが引っくり返ったらどうだ。
いくら中小零細を抱え込んでいても、主力が鈍れば何をやっても出血しかありえない。
まるで、ミッドウェー海戦以降の日本海軍のような凋落っぷり。
一瞬で廃業一直線に進むしかなかった。
そしてその傷は、現在は生々しく、服で隠せぬくらいに生々しく。
生々しく、生活保護という名のもとに、生々しく白日の下にさらされている。
確かに、言葉にせねばバレはしないだろう。
だが、外見はまともなふりを維持できても、心が重い。
心が重いから、何をする気にもならない。
掃除すらまともにする気になれない。
段ボール箱の解体すら、面倒くさい。
捨てなければならない壊れた家電の回収すら、億劫である。
ゴミ屋敷が出来るプロセスだけは、よくわかってしまった。
熱意を失ってしまうと、人は本当にダメになる。
就労移行支援施設に通うようになって半年目。
このまま二年間を過ごしてしまえば、自分はダメになる。
ゆっくりと降下していくエレベーター、その最下層には、巨大な針の山が鎮座ましましている。
そこに落ちれば、どうなるか。
おそらく一生、デイケア施設通いを甘受して死なないだけの生活を謳歌するだけだろう。
そこには新しい友人関係も、娯楽も無い。
一日をひたすらに浪費するだけの生活が待っている。
それだけは、嫌だ。
人は衰え、いつかは死ぬ。
その、死に方を選ぶ権利だけは、手放したくない。
家族に面倒をかけたくないというのもあるが、せめて最後位は、あがないたい。
はたして、自分の勝利条件はなんなのか。
自問自答の毎日である。




