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僕達の中の幻影

第七章 僕達の中の幻影

 

 

 暗い、真っ暗な空間が続いている。

 右を向いても左を向いても広がるのは漆黒に塗りつぶされた闇。

 慎重に一歩、踏み出してみる。なんの抵抗も障害もなく、前へと進むことが出来た。

 しばらく歩くと、突然明るい場所へ出る。

 明るい場所、ではなく、そこがただただ白いだけの空間なのだと理解するのに少し時間がかかってしまった。

 三百六十度どこを見ても白白白。本当に自分が今立っている場所が地面なのかどうかさえ不安になってしまいそうなほどだ。

 それでも僕は歩く。それしなければならないと、心が叫んでいるから。

 一歩を踏み出す度に自己認識という部分が曖昧になる。

 僕は一体どんな人間で、これからどうしたらいいのか。そんなものが消しゴムで消されていく様に頭の中から消え去っていく。

 やがて歩みを進めていくと、今度はどんよりとした灰色が世界を覆っていた。

 周りを見回して見ても、特別なものはなにもない。僕の理解のおよぶべくもないその空間は、しかして僕を捕まえて離さないと言わんばかりに歪みを生む。

 そして、白い影が生まれた。その中から黒い人の形をしたなにかが出て来て、これ以上僕が前へと歩むことを阻害してくる。

「なんだ、おまえは?」

「……わたしのこと、忘れちゃった?」

「――――ッ!」

 びくん、と肩が跳ねた。

 忘れる訳がない。忘れられない声。

「ど、どうして……」

 ニィィ、と口元を裂くようにして真っ黒な中の一部分から白亜が覗く。

 その姿を思い出すことを拒否するように、今だ彼女の体は真っ黒なままだ。

 しかし知っている。僕は、知っている。

 その声の正体を。

「どうして、とはどういう意味? わたしはあなたに会いたったのよ? あなたもわたしに会いたかったでしょう?」

「ぼ、僕は……」

 スッと、黒い影が手のようなものを伸ばしてくる。その手が僕の頬に触れそうになって、僕は一歩後ろへ下がってしまった。

「どうしたのかしら? どうしてわたしを避けるの?」

「あっ――と。別に避けてる訳じゃ……」

 避けている――のとはちょっと違う。

 ただ顔を合わせずらいだけ。彼女の姿形を思い出すことに躊躇いがあるだけだ。

「ねぇ……こっちを見て」

 黒くて細い腕のようななにかが僕の頬の上を滑る。

 僕は背中にぞくりとした感触を覚えつつも、その行動をとがめることはしなかった。

「どうしてこっちを見てくれないの?」

「い、いや……」

 おそらくこれは夢なのだろう。悪い、夢。悪夢という奴だ

 なぜこんな夢を見るのか。理由は簡単だ。近頃、昔を思い出す出来事続いていたからだろう。

 彼女のことはよおく覚えいていた。それでもこんな姿だということは、僕の心の奥底では彼女のことを思い出したくもない過去と認識しているからだ。

「――君は、僕のことを怨んでいるんだろうね」

「怨んで? ……そうね、その通りだわ。だってわたしは、こんなにもあなたを……」

「でも僕はそうじゃなかった。それが君を追い詰めてしまった」

「その通りよ」

 ヒッ――と喉奥が干上がってしまいそうなほどの緊張を感じた。

 必死に、これはただの夢なのだと自分に言い聞かせる。しかし、そんな行為がどれほどの意味を持つのか、果たして僕は明確に理解などしていなかった。

 彼女の手が僕の頬を離れる。数歩後ろへと下がり、スッと俯かせていた顔らしきものを持ち上げる。

「どうしてあなたはわたしにあんな仕打ちをしたの? あなたはわたしのことを好いていてはくれなかった。でもそれでもよかった。嫌われてない。側にいてもいいんだって、そう思うことは出来ていたから。でも、でも」

「……僕は」

 ギリィッと奥歯を噛み締める。

 僕の後悔の残照。あの日の出来事、あの悲劇を僕は止められたはずだった。

 もう少しだけ、彼女に感心を向けていたなら――。

 

 

                ◆

 

 

「なにしているんですか?」

 蔑まれることに離れているつもりだった。

 それでも、ムシケラを見るような視線をやっぱり胸に痛い。

「……昼寝、だけど?」

「一人ですか? 凜は?」

「友達と遊びに行くって。……一緒じゃなかったのかい、加賀さん?」

「一緒じゃなかったんですよ。まぁあの子はあれで校内での人気は高いですから。あたしなんかよりよほど友達多いですし」

「ふーん。それで加賀さん、君はなにをしているんだい?」

 僕の頭上で、眼下にいる僕に対して侮蔑の視線を送ってくる。どんなご褒美だよって話だ。

「見てわかりませんか?」

「君の顔を見る限りにおいて、木陰で昼寝をしている知り合いを見つけたので蹴り起こしに来たって感じかな?」

「概ね正解です。実は部活の帰りでして」

「部活……そうか、部活か」

「それで、あなたはこんなところで油を売っている内に暖かい陽気にまぶたが重くなってしまったという口ですか」

「概ね正解だよ。ついさっきまで鏡谷さんと一緒だったんだけどね」

「凜と? ……変なことしてないでしょうね?」

 加賀さんがぎろりと視線を鋭くする。

 僕は慌てて両手を振り、弁明を試みた。

「してないしてないなんにもしてない。神に誓ってだよ」

「そんなに強調すると逆に怪しいってものですよ。……まぁ凜からSOSも来てませんし、今のところは信用してあげます。今のところは」

「……それはどうも」

 SOSが来てないってどういう意味だろう? なんだか恐いから聞けないけど。

「それで、どうしてここに?」

「いえ、近くを通ったらたまたま見かけたので」

「いや、僕が聞きたいのはそういうことではなく」

 君が僕に話しかける理由はないだろう、と言外に問うてみる。と、加賀さんは僕の意図を察したのか、ふんと鼻を鳴らして答えてくれた。

「凜の現状が聞きたいと思いまして。この間のハンバーグをご馳走してくれるという約束も反故にされましたし」

「うう……それについては申し訳ないと思ってるよ」

「本当ですか?」

「本当だよ、鏡谷さんはあまり気にしてないみたいだったけど」

「ま、概ねの事情は凜から聞いてるので私もあまり気にはしてませんけど。それでも凜と二人きりで小旅行とはずいぶんと思い切りましたね」

「あはは、あれは鏡谷さんが強引に……」

「そのような言い訳が通ると思ってるんですか?」

「……はい、すいません」

 またもや加賀さんが侮蔑の視線を向けてくる。

 なんだろう、体の奥底からむくむくとなにかがせり上がってくるような感覚がある。

 癖に……なりそうだ。

「まぁそのことは置いといていいんじゃないかな? 問題は鏡谷さんがいつまでうちにいるのかってことだよ」

「あなたにとってはその方が都合がいいのでは? 家事全般をこなしてくれるかわいい家政婦のいる今の状況はあなたにとってそう悪い者ではないと思いますけど?」

「ま、本来ならそうなんだけど。彼女がそういうことを仕事としているなら別にいいんだ。でも鏡谷さんは学生だし、家出中の身だ。あの子の両親がいつまでもほったらかしにしとくとも思えないし、そろそろ帰った方がいいんじゃないかなとも思う」

「……ま、普通ならそうでしょうね」

「? なにか問題でも?」

「……あなたに話すようなことではありません。凜をだまくらかしているあなたには」

「だから僕は鏡谷さんを騙してなんかないって」

「どうだか。実際はわかりませんから」

 きらりと眼鏡が光る。

 僕はサッと彼女から目を逸らし、どうしたもんかと頬を掻いた。

「うーん……どうしてこう信じてもらえないんだろう」

「あなたが信じるに値する人物だと思えないからです。具体的には凜を自分の家に連れ込んで家事等の労働を強要している上に毎晩変態ちっくなプレイに勤しんでいるとか」

「情報源はなんなのさ?」

「凜本人から聞きました」

「あんの……悪魔め……!」

 なにを余計なことを言っているんだ、あのアマ……! なんだよ変態ちっくなプレイって!

「図星ですか」

「待ってなにを確信を得たみたいになってるの! そんなこと僕は一度たりともしたことないよぉ!」

「ではどうして凜はあんなこと言ったのですか? ……頬を真っ赤に染めて、腰をくねらせて、やたら色っぽい声で、情感たっぷりにぃぃ……!」

「知らないよそんなこと! なんであの子はそんなねつ造を周囲に振り撒いてんの!」

「誰もがいいます。凜自身が納得し、そして甘んじて今の境遇を受け入れているならそこに私たちのような部外者の入る余地はないと」

「それおかしい、絶対おかしいから! 絶対にそれ関わりたくないだけだよね絶対に!」

「うるさい、どんなに言い訳しようとあなたが凜を毒牙にかけ、その貞操を奪ったことは事実」

「限りなく冤罪な上に一向に話を聞こうとしないって、どんな裁判だって被告人に発言の機会は与えられるのに」

 そういえばこの子はこういう子だった。

 思い込みが激しくて、他人の話を聞かない。それでいてこうと信じたら少しも揺るぐことのない。そういう子供だった。

 僕は彼女のことを多く知っている訳ではない。そもそもがこの間一度、始めてあっただけの間柄だ。そこには本来、なんの繋がりもないはずだった。

 僕らが出会ったのは偶然だ。たまたま鏡谷さんがうちに来て、そして彼女によって引き合わされたに過ぎない。

 それでもこの子も、鏡谷さん同様にまっすぐなんだなって。

 短すぎるつきあいの中で、そのことだけは如実に感じ取ることができた。

「……すごいな、君たちは」

「はぁ? なんですかいきなり意味不明です気持ち悪いですさっさと死んで下さい」

「そうやってなんでも思ったことを直球で言うの止めた方がいいと思うよ?」

 なんだろう、今僕は結構感動的な心持ちだったのに。さっきの加賀さんの一言で台なしだ。

「ま、どうだっていいや」

「どうだってよくないです、なに帰ろうとしてるんですか!」

 僕は立ち上がり、ぱんぱんと二度お尻のあたりを叩いた。

 すると、加賀さんはビッと僕に人差し指を突きつけて、怒り心頭といった調子で言ってくる。

 そんな彼女へ、僕はなんの気なしに提案した。

 降って湧いたような、なんの考慮もないアイデアを。

「うちに来る?」

「へ――?」

 加賀さんの惚けたような表情が面白くて、笑いを堪えるのが大変だった。

 

 

               ◆

 

 

「……ここが、あなたのおうちですか」

「そうだよ。まぁ今は鏡谷さんが居候しているんだけどね」

「あなたが囲ったの間違いでしょう?」

「そのネタはもういいから……」

 ネタじゃありません、と加賀さんが憤慨する。

 僕はそれを軽くスルーして、自動ドアを抜けた。

 守衛のおじさんからの疑惑の眼差しを向けられる。

「さっきの人、すごい見てましたね、あなたを」

「んー……まぁ鏡谷さんがよく出入りしているし。そこに君を連れて来たからね。そりゃあ何者かと思われても仕方ないよ」

 さて、これでご近所づきあいがかなり面倒になって来たぞ。

 とはいえ、そんなものあってないようなものだけど。

 エレベーターで上へと上がり、僕の部屋の前まで移動する。

「さっ、どうぞ」

 僕はロックを外し、加賀さんを中へと招き入れた。

「……まさか、私まで囲うつもりじゃないでしょうね?」

「それならまだ別の手段を使ってるよ。あとそんな事実はないと何度言えばわかってもらえるのかな?」

「……そうですね。凜が一体どんな生活を送っているのか。それがわかれば私も多少は安心できるのではないでしょうか?」

「はぁ……信用してもらうにはまだ先は長そうだね」

「こんな風に女の子をポンポン部屋に上げている時点で信用もなにもないと思いますけど」

「はは、これは手厳しいなぁ」

 しかし僕と鏡谷さんの間にやましいところはなにもないのだと証明するためにはこうするより他にないのだ。

 二人の生活環境。生活スタイル。それさえ理解してくれたなら、変な誤解もなくなるだろう。

「さて、まずここがリビングだ」

「へぇ……中々綺麗にしていますね」

「鏡谷さんのお陰でね」

「あっ……そうですか」

 うぐっ……なんだかすごくかわいそうな人を見る目で見られてしまった。

 とはいえ仕方がないだろう。僕一人だと、ここまできちっとした整理整頓は望むべくもない。

「ところであなたはいつもどこで寝ているのですか? まさかとは思いますけど、凜と同じ布団で……なんてことありませんよね?」

「そんなことある訳ないじゃないか。あと顔恐いよ」

 無論、鏡谷さんとは部屋を別々にして寝ている。そんなの当然だろう。

「……一先ずは信用してあげます。それにしても」

 加賀さんはぐるりと部屋の中を見回して、顔に疑問符を浮かべた。

「? どうしたの、加賀さん?」

「気安く呼ばないで下さい。……いえ、凜の私物がないのは当然としても、あなたの私物も少ない様に見えまして」

「ああ、まぁね」

 ここにあるものといえばテレビと仕事用のパソコン。そして小さな本棚くらいだ。

 衣服も最低限のものしかないし、そっちへ別の部屋に仕舞ってある。鏡谷さんが。

 なので、パッと見は片づいているような印象を受ける人もいるかもしれない。

 まぁ単純に物が少ないだけだけど。

「あなたは普段からここに住んでいるんですよね?」

「そうだよ。僕の寝蔵だけど、それがどうかした?」

「……なんでもありませんよ」

「…………?」

 なんだかよくわからなかったが、一人暮らしなんてそんなものだろう。

 今は鏡谷さんもいるからあれだけど、彼女がこの部屋を出て行く日は必ずやってくる。なにせもともと、あの子はこの部屋の住人ではないのだから。

 絶対に、もといた場所に戻らないといけない。

「……ま、なんでもいいです。では他の部屋も見せて下さい」

「他の……と言われてもあとは鏡谷さんが寝泊まりに使ってる部屋と風呂場、キッチンに洗濯物を収納しておくための部屋くらいしかないんだけど」

「凜が使ってる部屋……?」

 ぴくっと加賀さんのまゆが僅かに揺れた。

 僕はなんだか嫌な予感がして、それを見なかったことにしたのだった。

「案内して下さい」

「や、でもプライバシーに関わる部分だし」

「案内して下さい」

「えっと、本人が帰って来てからの方がいいんじゃ」

「案・内・しろ!」

「……わ、わかりました」

 加賀さんの圧力に気押されて、僕は彼女を鏡谷さんの部屋へと案内することにした。

 部屋、といっても以前に僕が使っていたもので、鏡谷さんが使い出して以降まったくと言っていいほど足を踏み入れてはいない。

 ので、現状がどんな事態になっているのかを僕は知らない。

「……うわぁ」

 思わず声が漏れた。

 それは感嘆のため息などではなく、どちらかといえばショックを受けた割合が大きい。

 なぜならその部屋は、この上なく綺麗に模様替えされていたのだから。

「こ、これは……!」

 ごくり、と隣で加賀さんが息を飲む音が聞こえてくる。彼女もまた、この光景に度肝を抜かれているようだ。

 当然だろう。なぜならその部屋は以前僕が使っていた頃の面影など微塵も存在していなかったのだから。

「なんだか……すごく華やかですね、あなたの部屋」

「いやいや、ここは既に僕の部屋じゃない。僕はこんな部屋にした覚えもないし」

 全体的にピンク色だった。

 壁や床、ついでにベッドのショーツや枕に至るまで、あらゆる物がピンクと桃色とさくら色で構成されていた。

 色合い自体は……さほど嫌いではなかった。

 うすい色や濃い色、時には目に悪そうな派手な色までもを巧みに使い、以前僕が使っていた時とは比べ物にならないほどの華やかさを手に入れている。

 が、やはり僕はその部屋をそれ以上見ていることが出来ずにそっと扉を閉めた。

 うん、まぁなんだ……女の子らしくていいんじゃないかな。

「ふむ、なるほど」

 加賀さんはあごに手を当ててなにやら納得顔で頷いている。

 一体なにがわかったというんだ……?

 最近の女子高生は末恐ろしいな。

 僕達はリビングへと戻り、僕は椅子へ、加賀さんにはソファを勧めた。

「さて、これで僕達の生活の片鱗くらいはわかったんじゃないかな?」

「……部屋も別々のようですし。それに凜も今のところあなたについてなにかが文句を言っている訳じゃありませんから。いくら私でも二人のことに対してぐちぐち言うことは出来ません」

 なんだろう、さっきからちょっと変なニュアンスが混じるな。

「あのさ、なんかちょっと勘違いしてない?」

「勘違いですか?」

「そもそも加賀さんは僕と鏡谷さんの関係をどんな風だと思ってるの?」

「どんな風って……恋人だと」

「ああ、なるほど……」

 なるほど合点がいった。

 僕と鏡谷さんの関係は恋人同志。世間的にはそう思われているらしい。

 考えてみれば、確かにその通りだ。

 ここのところ毎日鏡谷さんは僕の家へと足を運んでいる。僕からしてみればそれは行き場を失った彼女に寝床を提供しているにすぎないが、周囲の目はそうは見ないだろう。

 世間知らずな女子高生をたぶらかす不届きな輩として認識されていてもおかしくはない。

 とすれば、加賀さんのこの度を超えた僕への憎悪にも納得がいくというもの。

 ン?

「いや納得いかないから」

「どうしたんですか気持ち悪い」

「なんでもないよ。ひとり言」

「尚更気持ち悪いです」

「なんでだよ」

 どうしてそう気持ち悪いを連呼するのか。

 加賀さんを始めとした大多数の人間がどう思おうと、僕はその実正しいことをしたはずだ。

 だというのに変態扱いされて当然という道理はないだろう。

 納得なんて、そんなもの出来る訳がない。

「……ま、とにかくだ」

 ことは僕一人ではどうしようもないのだから、どんなお題目を並べたところで意味はない。

 そこに、なにか行動が生まれる訳ではないのだから。

「ところで、ひとつ訊いておきたいことがあります」

「んー? なんだい?」

「あなたは凜のこと、どこまで知っているんですか?」

「…………いや、なにも」

「なにも? 一ヶ月近くも一緒にいてなにも知らないと?」

「ああ、僕は鏡谷さんのことをはなにも知らないし、知る必要もない」

「それは……ちょっと冷たくないですか?」

 その一言を、僕は軽く聞き流すことが出来なかった。

 そんなことを言われる筋合いはないと、声を大にして訴えたかった。

 が、そんなことはしない。相手はただの学生だ。子供相手にそんな大人気のないことはしないと決めている。

 僕は大人だから。

「……それで? 本人の問題に僕が首を突っ込んだところで事態が好転するとは思えない」

「だから黙って傍観しているだけだと?」

「その通りだよ。いずれ時間が解決してくれる。いつまでもこのままではいられないのだから」

「……大人の言いそうなことですね」

「ああ、僕は大人だからね」

 僕は加賀さんに背を向けて、キッチンへと向かう。

 冷蔵庫を開けると、一ヶ月ほど前までは存在しなかったジュースの類いがあった。

「なにか飲むかい?」

「……いえ、気分が悪いので今日はもう帰ります」

「そうかい。気をつけるんだよ」

「言われなくても」

 冷蔵庫を閉め、玄関まで加賀さんを送って行く。

 加賀さんが僕から視線を外した。と同時に僕の方も扉を閉める。

 リビングへと戻る。殺風景な部屋の中で、椅子に座り天井を仰いだ。

 白い、無機質な、どんな表情も持たない天井。それを眺めている内に僕はなんだかすごく心が落ち着いてくる。

 おかしなものだ。鏡谷さんが居候を始める以前はこんなことはなかった。

 それこそ数年ぶりのことだ。慣れない、というよりは気持ちが悪い。

 吐きそうになる。

「……ふー」

 深く、深く吐息する。

 無論意味なんてない。この世のすべてに、意味なんてない。

 それを知り、どうしようもないことだと諦めてみんな大人になる。だからこうして時々、虚無感に苛まれてしまう。

「なにも知らない方が幸せなんだよ、きっと……」

 加賀さんの言葉の意味も。僕の過去も。

 ――鏡谷さんがどうして家出なんてしたのか。その理由も。

 なにもかも、知らなければ考えずにすむのだから。

 

 

                ◆

 

 

 知らない内に眠ってしまっていたらしい。

 かけられていた毛布を手に取り、ためつすがめつする。

 間違いなく、うちにあった毛布だ。

 でも誰が? と考えて、心あたりは一人しかいないと思い至る。

「……帰ってたんだね」

「あっ、起きました?」

 キッチンの方から、鏡谷さんの声が聞こえてくる。そうと意識すると、同時に夕食の支度をしているのだろう、美味しそうな匂いまで漂ってきた。

「もうすぐ出来ますから、ちょっと待ってて下さい」

 僕は椅子から立ち上がると、伸びをした。

 座って寝ていたからだろう。腰のあたりが割と痛かった。

「なにか手伝うことはあるかい?」

 キッチンに出向き、そう言うと鏡谷さんはしばし考え込むようにしたあと、食器棚を指差した。

「じゃあお皿を並べてもらっていいですか?」

「わかったよ」

 僕は鏡谷さんの指示通り、食器棚から人数分の皿とはしを取り出してテーブルに並べる。

 人数分、なんていっても、いるのは僕と鏡谷さんの二人だけなんだけどね。

 僕が食器を並べ終えると同時、背後からいい匂いが漂ってくる。

 料理が完成したらしい。

「あっ、僕が持つよ」

「大丈夫ですよ、これくらい」

 フライパンごと持って来ていたので代わりに持とうとすると、やんわりと拒否されてしまった。普段からこういうことをしているので平気なんだとか。

 テーブルの上にフライパンを置く。

「さっ、食べましょう」

「ああうん、そうだね。いただきます」

 両手を合わせ、合掌する。それから、菜ばしを使ってフライパンの中身を先ほど僕が持って来た皿の上に盛り付けていく。

 鏡谷さんの作る料理は、相変わらず美味しかった。

 これは単なる想像でしかないが、これほどの腕前になるにはほぼ毎日料理をしないとだめだろう。加えて、レパートリーによどみがない。

 たくさんの料理を知っている証拠だ。

「……ねぇ鏡谷さん、鏡谷さんはどうして家出なんてしたの?」

「――――!」

 びくっと鏡谷さんの肩が揺れる。食べ進めていたはしが止まり、意外そうに大きく瞳が見開かれる。

「どうしてって……」

 そんなこと訊かれるなんて予想外だ。そうとでもいいたそうにじっと、彼女は僕の顔を凝視していた。

 僕の方も少しも目を逸らすことなく、鏡谷さんを見つめていた。

「ど、どうしたんですか急に?」

「んー、さすがにずっと今のままって訳にはいかないと思ってね」

「それは……どういう?」

「君もいつかは家に帰らなきゃいけないんじゃないかと」

「どうして?」

「どうしてってそりゃあ」

 ――ここは本来、君の帰る場所じゃないから。

 そう伝えると、鏡谷さんははしを取り落とし、ふるふると体を震わせ始めた。

「……どう、して?」

 彼女の目は苦痛を我慢しているようでもあり、僕を責め立てているようでもあった。

 どうしてそんなことを――と。

「まぁ僕も大人だから。家出なんて大抵は双方の誤解が原因なんだから、少しの間頭を冷やして冷静になったら解決するだろうと思ってた」

 でも違った。鏡谷さんは一向に自分の家に帰ろうとなんてせず、むしろここでの生活が気に入っている節さえある。

 これはよくない兆候だ。全然、よくない。

 彼女にとっては。

「……前に先生言ったじゃないですか。僕のことを詮索しないでくれって。だからわたしのことも詮索なんてしないって」

「ああ、言った。その方針は基本的に変わってない」

「だったらいいじゃないですか」

「論点をずらそうとしても無駄だよ」

 まっすぐ、真摯そう告げる。

 そうだ、無駄だ。僕にその手の駆け引きは通用しない。

 僕はもう二度と間違えたりしない。

「もう一度言う。君は帰った方がいい。もう十分頭は冷えただろう?」

「わ、わたしがいなくなるとごはんを作ってくれる人がいなくなりますよ?」

「それは仕方のないことだよ。もともと一人だったんだ。これからも一人でやっていくさ」

 料理の味なんてわからなかった。

 せっかくの鏡谷さんの手料理だというのに、胃袋を満たされている感覚がまるでしない。

 それでも、僕は言わなくちゃいけない。

 一人の大人として。

「もう一度言おう。ここは――君の帰るべき場所じゃない」

「……でもいいじゃないですか! だって、他にどこへ行けって言うんですか!」

 ヒステリックに叫び声を上げる。

「わた、わたしだって、帰れるものなら帰りたいです! でも、あの場所にはわたしの居場所なんてもうないんですから!」

「……本当にそう思う?」

「は? なにを言ってるんですか、そうに決まってます。だってお母さんはお父さんとの思い出を忘れてあの人を……」

「ふむ」

 なるほど、話が見えて来た。

 僕は基本的にことなかれ主義だ。何事もなければ、ただ傍観するだけ。

 しかし、今回の場合はそうも言っていられないらしい。

 なにせ僕の家に居候している家出娘がこうとまで言っているのだから。

「ま、今日はもう遅いし、全部明日からだね」

「えっと……なにがですか?」

「ごちそうさま」

 パンッ、と手を手を合わせて合掌する。

 美味しかった、と思う。

 僕は立ち上がり、上着を羽織った。

「こんな時間にどこへ?」

「んー? まぁちょっとそこまで。先に寝てていいよ。遅くなりそうだから」

「あの、先生」

「なに?」

「……余計なことしなくていいですから」

「わかってるって」

 僕は鏡谷さんに笑いかける。

 おそらく鏡谷さんは、僕が彼女の言うところの余計なことをするとわかっている。

 だがしかし、強くは出れない。自分の立場と僕の気持を理解しているから。

「なるべく早く帰るから」

 言って、ヒラヒラと手を振った。

 鏡谷さんも振り返してくる。それを確認し、僕は部屋を出た。

 エレベーターで一階に下り、守衛さんの不審者を見るような目を我慢して外へと出る。

 吐く息がまだ白くなるくらい、外は寒かった。

「ふー、まだまだ夜は冷えるなぁ」

 誰にともなく言って、携帯電話を取り出した。

 とある番号へと連絡を入れる。

「あっ、花園さんですか? ――僕です」

 それはのろしだった。

 あるいは彼女――鏡谷さんを元の居場所へ帰すためのかがり火かもしれない。

 

 

              ◆

 

 

「くぁぁ~」

「口を閉じていろ。あんな常識外れの時間に連絡を寄越してきたのはおまえの方だからな」

「わかってますよ。今日鏡谷さんの両親と会わせてくれるんでしょう?」

「その通りだ。ふたりとも鏡谷さんのことをすごく心配していた」

「ふーん」

「くれぐれも余計なことは口にするなよ?」

「わかってますよしつこいなぁ」

「なんだと? と、来たようだな」

 花園さんが僕への怒りを引っ込めて居住いを正す。

 さすがは社会人で、僕より立派に大人を演じている人だ。切り替えが早い。

 一方の僕は中々眠気がとれずに目をしょぼしょぼさせいた。

「すみません、おまたせして」

「いいえ、大丈夫ですよ」

 申し訳なさそうに頭を下げる女性に対して、花園さんもどこから声を出しているのか、若干高めのトーンで応じていた。

 彼女の隣には眼鏡をかけた気のよさそうな中年の男性が佇んでいる。

 ふたりが花園さんに勧められて椅子へと腰かける。

 僕達は今、とある喫茶店に来ていた。

 鏡谷さんの通う学校からもそれなりに距離があり、それでいて鏡谷夫妻の住居からほどほどに近い場所にあるおあつらえ向きの場所だ。

「凜の父と母です。この度は娘の面倒を見ていただいたそうで、なんと言ったらいいか」

「気にしないで下さい、年頃の娘さんを野宿させる訳にはいきませんから」

 面倒を見ていたのは花園さんじゃなくて僕なんだけど。なんて子供じみたことは言わない。

 本日の議題はそんなところにはないからだ。

「それであの……その人は?」

 鏡谷夫妻は僕のことを不思議そうにチラチラと見ていた。

 ま、そうだろうと思う。もし逆の立場なら、僕だってこんな風にしていたかもしれない。

「ああ、実は彼なんです。娘さんを保護したのは。私は単なるつき添いで」

「え……! 男の人、ですか……」

 鏡谷母が息を飲むのがわかった。

 まぁ年頃の娘が男の家にいたというのなら、こんな反応になるのも当然か。

「ご両親の心配はご理解しているつもりです。けどまぁ安心して下さい。この男にお譲さん二手を出す勇気、というか異性と肉体関係を持てるほどの器量はありませんから」

「はぁ……そうなんですか」

 ずいぶんな言い方ですね、花園さん。こんな場じゃなかったら即刻打ち首ですよ本来なら。……なんだか返り打ちにあう未来しか見えなかったので絶対に実践はしないでおこう。

「……そ、それで娘はどこに?」

「今頃学校に行ってるんじゃないですか?」

「学校に? でも学校の方からはなにも連絡なんて……」

「そこはまぁうまく誤魔化してるんじゃないですかね。それよりもです。僕としてはおふたりに幾つか訊いておきたいことがあるんですよ」

「な、なんですか一体?」

 明らかに警戒の色を濃くする鏡谷母。

 娘と同棲している男の発言だ。どこまで信用されるかわからないけど。

 言うだけ言ってみるか。

「おふたりは再婚だそうですね」

「……凜から聞いたんんですか?」

「ええ、聞きました」

「凜はあなたをずいぶんと信用しているようだ」

 僕達の話を黙って聞いていた鏡谷父が眼鏡の位置を直しながら、重々しい口調で入って来た。

「なるほど、我々を呼んだ道理がわかりましたよ」

「へぇ……それは話が早いです」

「つまりあなたはこう言いたい訳ですね? 凜の家出は我々の再婚が理由で、つまり別れた方が我々のためだと」

「……半分正解です」

 彼の言っていることは大体僕の思惑通りだ。

 でもまだ間違っている。

「半分正解? どういうことですか?」

 鏡谷父が不快感を表すように眉根を寄せる。

 僕は三人に気づかれないようにごくりと喉を鳴らし、声が震えるのをどうにか抑え込んだ。

「別に僕はあなた達家族の破滅を望んでいる訳じゃない。しかし残念なことに不幸な行き違いのせいで家族はバラバラになってしまっている」

「それがどうしたと? あなたには関係のないことだ」

「他人を巻き込んでおいて今さらそういうことを言うのはなしですよ」

「私がこんなことを言うのは筋違いでしょうが、そうと言われるのでしたらもっと早くに行動を起こすべきだったのでは?」

「その点に関しては弁解のしようもありません。けど言い訳をさせてもらえるなら、娘さんはあなた達のことをなにも話したがらなかった。本人の情報提供なしに探し出すのはやはり時間がかかる」

「探したのは私だけど」

「花園さんは黙ってて下さい」

 今いいとこなんです。

「つまり僕はこう言いたいんです。あなた方三人の中の蟠りを解消して下さい。僕は本人が望む形ででしか娘さんを帰すべきではないと考えます」

「…………」

 鏡谷父は目を熟考するように目を瞑り、腕を組んだ。

 そんな彼を鏡谷母は不安そうにただ見ているだけだった。

 どれくらいの時間が経っただろう。少なく見積もっても十分は経過している。

 やがて、鏡谷父が重々しく口を開いた。

「……あなたの言いたいことはわかりました。では、次には娘も同席させて下さい。そして三人で話し合う機会が欲しい」

「わかりました。約束しましょう」

 それきり僕達は言葉を交わさず、その日はお開きとなった。

 鏡谷夫妻が喫茶店を去り、僕と花園さんが取り残される。

「……で、どうするの? 調べた感じじゃあの子、あのふたりに会いたがらないと思うんだけど?」

「大丈夫です」

「ふーん、なにか策でもあるのかしら?」

「とっておきがありますよ」

 僕にひとつの自信があった。

 あの歪な家族を真っ当な家族に出来る、自信が。

 

 

              ◆

 

 

 あれから少し街をぶらついて、それからマンションへと帰った。

「あれ? どこへ行ってたんですか、先生?」

「鏡谷さん……ちょっとね」

 鏡谷さんの質問には答えず、はぐらかす。

 明らかに不信がっていたがそれ以上の追及はなかった。

 おそらくは居候という立場が彼女が踏み込むことを躊躇わせているのだろう。部屋をあんなにしたくせに、変なところで臆病な子だ。

「それより、鏡谷さんの今のお父さんってどんな人?」

「……なんですかいきなり? 自分が詮索されたくないことは他人にもしない主義なんじゃないんですか?」

「はは、少し気になって」

 どうポジティブに受け取ったところで、今の鏡谷さんはご機嫌斜めだった。

 当然といえば当然だろう。なにせいきなり踏み入った質問をしてしまったのだから。

「……では、わたしが話したら先生も話してくれますか?」

「なにを?」

「先生の……昔の話です」

「…………」

 やはりそう来たか。あたり前だ。自分だけ語るのではフェアではない。

 鏡谷さんは僕の過去を知りたがっていた。この餌は今回の問題を解決する上で真っ先に思い浮かんだものでもある。

 が、この話は論外だ。今回のことと釣り合いが取れていない。

 たかが家族の喧嘩と殺人紛いの行為。考えるまでもないだろう。

「……うん」

 しかし、僕は頷いた。

 今はこうするしかない。

 どうせ全部終わったら二度と会わないんだ。約束を果たせるかどうかも怪しい。

 そんな僕の意図を理解するはずもなく、鏡谷さんは僕から目を逸らし、窓の外を見やった。

「およそ一ヶ月ほど前のことです。わたしが家出を決意する二日前。あの人はやって来ました」

 あの人、とはおそらく鏡谷父のことだろう。今日会って来た感じだとあまり自分の気持ちを表に出す人物ではないようだったが。

「突然やって来て、母はあの人と結婚するんだと言いました。……うれしそうに、とてもうれしそうに……」

 ぎりぃ、と鏡谷さんが歯軋りする。

 それはもう、悔しそうに。

「それまで住んでいた家も引き払って、全部を始めからやり直すんだって。お父さんもきっとそれを望んでいるからって」

「もしかして鏡谷さん、君が家出を決意したのはそれが原因?」

「ええまぁ……お父さんが亡くなったのはわたしが中学二年の頃でしたから。――とても優しい父親でした。お母さんのこともわたしのこともすごく大事にしてくれていて、わたしもお父さんのことは大好きでした」

「なぜ、亡くなったんだい?」

「交通事故でした。飲酒運転の車が突っ込んで来て、撥ねられて。わたし、悲しくて鼻しくて……そのあとのお葬式でわんわん泣きました」

 その光景は簡単に想像出来る。

 鏡谷さんは思ったこと、感じたことはなんでもすぐに表情に出るから。

 当時を思い出していたのだろう、鏡谷さんの表情が暗く、沈んでいく。

 悲しげに眉根を寄せ、目の端に涙を溜めて……、

「先生はどう思いますか? もし自分の大切な人が死んでしまったとして、そんなに簡単に切り替えられますか?」

「僕は……無理、だったよ」

「無理……だった?」

 先の僕の発言が意外だったのだろう。

 鏡谷さんが驚いたように僕を振り返る。

「どういう意味ですか?」

「あー……うん、まずは鏡谷さんの話を聞こう。僕の話はそれからだ」

「むっ……わたしも無理でした。不可能なんです、そんなこと」

 それはそうだ。

 自分にとって大切な人っていうのはそうそう変わらない。どれだけ忘れたふりをしていても心の奥底にこびりついたようにいつまでも残っている。

 まるで呪いか、呪詛のように。

「でもお母さんにはそれが出来た。簡単にお父さんを忘れてしまった」

 崩れ落ちる鏡谷さん。

 僕は彼女の体を支えてあげることも出来ずにただじっと、見下していた。

 ただひとつ、頭の片隅にもやを残して。

「……ごめん、辛い話をさせて」

「次は先生の番、ですよ」

 顔を上げ、そう微笑む鏡谷さん。

 その表情は、年不相応の大人びた、悲しそうな笑顔だった。

 

 

                ◆

 

 

 高校二年の夏。僕の通ってた学校は毎年夏期講習が開かれる。

 僕はそれに参加するのが嫌で、でも家でじっとしていることも出来なくて。田舎だから近所に遊べそうな場所もない。

 学校へ行けば友達には会える。だからとりあえず制服を着て、校門をくぐるところまではしていた。

 教室へはいかず、屋上で夏期講習が終わるのを待つ。そんなことを三日は繰り返していたかな。いやー、しんどかったよ。

 じりじりと日差しの強い日だった。日付は忘れたけど、なんとなく土曜日だったような気がするんだ。

 いつものように、僕が屋上で友達を待っていると、姿を現したんだ。

 彼女が。

 ――こんなところでなにをしているの?

 鈴の音のような綺麗な声だった。

 汗ばんだ肌に張り着いた髪を払う仕草がとても魅力的で、僕は思わず見惚れていた。

 神や仏の類いなんてこれっぽっちも信じてやしなかったけど、その時の僕は反射的に思ったんだ。

 女神だって。

 そのことが声に出ていたんだろう。彼女は一瞬の内に頬を赤く染めた。のかは実際のところわからない。単に日差しのせいだったのかもしれない。

 とにかく、僕は自分の口走った言葉に対して必死で弁解しようとした。

 けど彼女はそれにとりあわず、くすくすと笑うだけだったんだ。

 ――恐い人かと思ってたけど、結構面白いのね、あなた。

 この時、僕の彼女は面識はなかった。クラスも違うから話す機会もほとんどなくて、廊下ですれ違ったりはしてたから同じ学年ってことは知ってたんだけど。

 それからだった。僕と彼女が話すようになったのは。

 実を言うと、僕はその当時から既に彼女に好意を持っていた。

 だから、夏休みが終わる頃、思い切って言ってみることにしたんだ。

 好きだって。

 ――私もよ。よろしくね。

 すると彼女も僕のことを好いてくれていたらしくてね。一発でOKをもらったよ。

 それからだ。僕達がつきあい始めたのは。

 楽しかったよ。世界の全てが虹色に見えた。

 綺麗で美しくて、言葉じゃ言い表せないくらいにキラキラしていた。

 彼女のことを考える度、声を聞く度にどきどきした。それが心地よくて、僕はずっと一緒にいたいって、そう思っていたんだ。

 でも、その願いは儚く崩れ去った。

 原因は彼女の家柄と、僕の学校での評判だった。

 彼女の家は代々地主の家系で、端的に言ってしまえば親が取り決めた婚約者がいたんだ。そして僕は学校では落ちこぼれで、周囲から見た時どうやっても釣り合わないと判断される。

 そのことを彼女は気にしていた。特に自分の家系のことに関しては。

 僕は……どうでもよかったんだ。周りの評価なんて。大したことじゃないって思ってた。

 自分達の気持ちが最優先されるべきだって。どんなにお題目を並べたところで、人権を無視した婚約なんていつでも覆せるだろうって。

 今にして思えば若かったなって思うよ。当時の僕は彼女さえいてくれたなら、きっとなんでも出来るんだって本気で思っていたから。

 結果から言えば不可能だった。

 再三に続く彼女の実家からの別れろという命令。

 もちろん僕達は拒否し続けた。お互いに好きあってるんだからほっといてくれと。

 でも次第に彼女は疲れてしまったんだろう。それはそうだ。僕なんかよりよっぽどあの家にいる時間が長いんだから。それでも彼女は戦ってくれていた。

 僕なんかのために。

 しかし、やがて彼女は学校に姿を見せなくなった。原因は体調不良だと聞かされていた。

 一週間ほどが経過した頃だろうか。僕は思い切って彼女の家に見舞いに行くことにした。

 先生に住所を聞いて。僕達がつきあっていたのは周知の事実だったから先生もすんなりと教えてくれたよ。ちょっと変わり者の先生だったけど、いい人だった。

 僕は彼女の家の前まで行った。

 大きな家だった。外壁に囲われた武家屋敷にも似た日本家屋で、いかにもお金持ちといった風情だったよ。

 なんだか急激に喉が干上がったのを感じたよ。

 今でも覚えている。あの他人を寄せつけない鬱々としたオーラ。

 僕はインターホンを押した。すると、家政婦さんだろうか、聞き慣れない女性の声が聞こえて来た。

 僕が要件を伝えると、その人はお嬢さまは元気でいらっしゃいます、と言うだけで僕を彼女へ合わせようとせず、むしろ追い返そうとさえしていた。

 今にして思えば当然だ。娘をたぶらかす不良にはさっさとご帰宅願うものだろう、普通。

 しかし当時の僕がそんなに物わかりのいい子供な訳がなくて、彼女の元気な顔を一目見せてくれなくては帰れないと強情を張ったんだ。

 僕が言葉の通り一向に帰る気配を見せずにいると、その女性はうんざりしたようなため息とともに門を開いてくれたんだ。

 客間に通され、彼女と会わせてくれたんだ。

 まぁ……元気そう、だったよ。

 ピンと背筋を伸ばし、まっすぐに僕を見つめてくる。

 とても、病気の類いを患っているようには見えなかった。

 でも、僕は思ったんだ。

 こんなのは元気とは言わないと。

 彼女の瞳に光がなかった。

 この一週間、一体なにがあったのかを僕は知らない。

 しかし、僕の想像出来ないような過酷が彼女の身に降りかかったのではないかと用意に想像出来た。

 服の裾から僅かに除く青あざが僕のその考えを更に加速させた。

 僕は思わず彼女を抱きしめたくなって、でも背後にいた女性に止められてしまった。

 未婚の女性にそんなことをするのは失礼ですよ、と。まるで常識を弁えた大人のような言い方だった。

 僕はカッと頭に血が昇って、叫び出しそうになった。

 それを止めてくれたのは、彼女だった。

 ――今日はもう帰って。

 彼女の声はとても冷たく、およそ暖かさとは対極にあると感じた。

 人間とはここまで感情を殺せるものだろうか。

 僕はショックのあまり呆然と彼女を見つめていた。

 その時の無機質な人形のような表情は絶対に忘れない。

 一生、僕の記憶に刻まれている。

 その日はそれで帰った。

 例の女性に見送られて、トボトボと家路についた。

 それから間もなくだ。

 彼女が自ら命を絶ったという知らせを聞いたのは。

 気が狂いそうになる、という感覚を始めて知った瞬間だった。

 後悔の念が泥水のように湧き出てくる。

 守れなかったという自責の念に押し潰されそうになって、どうにか自分の中で折り合いをつけないと耐えられないと思った。

 その後、僕も長期に渡って学校を休んだ。

 一ヶ月だか二ヶ月だか。もしかすると半年も休んだかもしれない。

 出席日数が足りなくて当然留年した。

 でもその間にどうにか自分の中で折り合いがついて、妥協点を見つけて。

 フラフラと学校へと向かった。

 その日は曇ってたけど、久しぶりの外は眩しくて、僕には曇天さえ日差しが強すぎた。

 そうして学校での光景、本来なら後輩になるはずだった生徒達を目の当たりにして思ったんだ。

 ――ああ、彼女がいなくても世界は回っている。

 無論、彼らにとって彼女はいない存在だ。おそらくはニュース等で知っているだろうが、そんなものはテレビの中の出来事でしかない。

 その光景を見た時、僕の中のなにかが音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。

 恐かったんだと思う。その光景が、すごく。

 すごく、すごく……。

 

 

                ◆

 

 

 体中の震えが止まらなかった。

 僕は両手を強く握り、どうにかその震えを止めようと必死に考えを巡らせる。

 そうすることで意識を逸らすことが出来ると思うから。

あの頃の出来事から。

「……それで先生はどうしたんですか?」

「どうしたもこうしたも、普通に三年間学校生活を送って、普通に卒業したよ。そこに彼女の死の悲しみを断ち切れるようなドラマなんてないよ」

「……そうですか」

 鏡谷さんの発した言葉はそれだけだった。

 たったそれだけ。でもそれが僕にはありがたかった。

 これ以上踏み込まれずに済むから。

「……みんな僕のせいじゃないって言うんだ。だから自分を責める必要なんてないって」

「でも先生は自分のせいだと思ってるんでしょう?」

「ああ……あれは僕の責任だったんだ」

 僕があの夏の日、学校にいなかったら。

 僕が彼女と出会っていなかったら。

 僕が彼女に告白さえしなかったら。

 僕が彼女を好きにさえならなかったら。

 どれだけ自分を責め立てたところで罪が消える訳じゃない。

 それでも僕はそうせずにはいられなかった。

「たぶんそれが僕にとっての最初で最後の恋だ」

 僕にとって恋愛と呼べるのはそれだけで。

 だからこそハッピーエンドなんて微塵も思い浮かばない。

 人生の主人公は自分自身だって言う人がいる。

 なら僕は幸せになっちゃいけないんだって。そんな気がするから。

「だから、僕は……僕、は……」

 ふわりとした春の匂いがした。

 次いで、やわらくてあたたかな感触。

「大丈夫です、先生」

 それが鏡谷さんの腕の中に包まれているのだと理解するのにそう時間はかからなかった。

「なに、が……?」

 大丈夫なの? と訊くより早く、鏡谷さんの染み入るような優しい声が聞こえてくる。

「それは先生のせいじゃないです、なんて無責任なことは言いません。でも、大丈夫です」

「だから、なにが大丈夫?」

「先生はきっと、その人に幸せを届けられました。その人を笑顔に出来ました」

「……そんなの意味ないよ。ずっと、永遠に笑顔に出来なかったら意味がない」

「そんなことはありません」

 やさしく否定される。

 こんなことは始めてだ。昔の話をするのも。

 全部始めてだ。

「先生はなんでハッピーエンドなお話を書かないのか。その理由、なんとなくわかる気がします」

「本当に?」

「はい、一ヶ月ずっと一緒に暮らしてきたわたしが言うんですから間違いありませんよ」

「なに、それ?」

「えへへ、内緒」

「ふーん」

 本当はどうだっていいことだった。

「わたしだけが知る先生の秘密です」

「そっか」

 鏡谷さんの声を聞いていると安心する。

 なんだかとっても安心する。

「……今日はこのまま寝てもいいかな?」

「いいんじゃないですか、またには。女子高生の胸に顔を埋めて眠るとか全国男子の夢ですよ、たぶん」

「いや、それじゃ鏡谷さんが寝れないからいいや」

 彼女の腕の中から顔を上げて、スッと立ち上がる。

 お風呂にでも入ってさっぱりしよう。

「じゃ、お湯溜めてくるよ」

「はーい」

 鏡谷さんの返事は妙に機嫌がよさそうで、なんだかすごく気味が悪かった。

 ……なにか変なことを考えてるんじゃないよね?

 心配しつつも明確な証拠となるものはない。加えて証明出来る気もしないので、大人しくお風呂場へと向かう。

 お風呂掃除を簡単にすませ、給湯開始のボタンを押す。

 この辺はオール電化の強みだろう。

 すべてボタンひとつで簡単に終わってしまう。実に便利でいい時代になったものだ。

 ゴポゴポッと給湯口からお湯が出始めたのを確認して、ふたをする。

 それからリビングへと戻る。と、鏡谷さんの姿がなかった。

 トイレだろうか?

 まぁなんでもいいだろう。

「それにしても不思議だなぁ」

 よっこらせっと腰を下ろして、誰にともなくつぶやいた。

 鏡谷さんと出会う以前、絶対に他人に僕の過去を話すつもりなんてなかった。

 それがこうもあっさりと口を開き、あまつさえ多少のすっきり感を味わっているのだ。

 これを意外と言わずしてなんと表現したらいいのか。

 僕の貧困なボキャブラリーでは表し切れないな。

「さてと……お風呂が湧くまで大体一五分くらいか」

 その時間、どうやって時間を潰そう。

 仕事……はする気になれないし。

「先生」

「ン? ああ、鏡谷さんどうした――のッ!」

 のどの奥がひっくり返るかと思った。

 とは単なる比喩表現で、ただまぁそれくらいびっくりしたと、そういうことだ。

 なぜなら、僕の目の前には鏡谷さんがいたから。

 それもほぼ全裸で。

「な、なななななにやってるのぉぉッ!」

「え、えーと、わたし達お互いに秘密を分ちあったじゃないですか。だから、もうそろそろこういう段階かなって」

「ごめんまったく意味がわからないんだけど」

 なに段階ってッ! どういうことなのッ!

 鏡谷さんは顔中を真っ赤に染めて、タオルケットを持つ手を更にぎゅっと握った。

「ま、前に言いまいたよね。わたし先生のこと好きだって」

「あああれは作者と読者としてでしょッ! それがどうしてこんなことにッ!」

「ち、違います、あれは一読者としてという意味だけじゃなくて……」

 鏡谷さんは一旦目を閉じて、それからスーハーと数回深呼吸を繰り返す。

 そして意を決したようにカッと大きく見開いた。

「わたし、先生にずっと抱かれたいって思ってましたぁぁッッ!」

「待って待って全然話についていけないんだけどぉぉぉぉッッ!」

 鏡谷さんのなんだか男らしい叫び声に思わず僕も叫び返してしまっていた。

 が、声がすごーく上擦っていてなんだかとても恥ずかしかった。

「先生はわたしが想像していた通りの人でした。優しくて、とても他人思い出」

「え……?」

「そしてなにより、純粋でした。すごく、すごーく」

「えーと、どういうこと? 話が見えない。鏡谷さん、君は一体なにを言っているの?」

 僕に対する評価がかなりねじ曲がってた。

 いや、これはねじ曲がっているというよりもむしろ、最初から最後まで徹頭徹尾間違っているのだと言った方が適当だろう。

「……僕は、君の思っているような人間じゃないよ」

 好きだった人ひとり守れなかったんだ。

 それなのに、鏡谷さんにそんなことを言ってもらう資格なんかない。

 僕は彼女のむしろ輝いているようにさえ見える肌から目を逸らし、俯いた。

 そうだ、僕は最低の人間だ。

 こうして後悔するくらいしか出来ない、どうしようもない臆病者。

 それが僕。

「だから、悪いんだけど君気持ちには答えられない。その言葉も行為も、いつか本当に好きだって思える人が出来た時のためにとっておいた方がいいよ」

 これくらいしか、僕が彼女のためにかけられる言葉はなかった。

 鏡谷さんはまだ高校生だ。これから先、出会いなんていくらでもある。

 その出会いの中で、ほんのちょっとだけ僕みたいなばかな奴がいたなぁって思い出してくれたらうれしいな。

 なんて思ったのに、鏡谷さんは少し表情を険しくして、タオルケットを握ったままずんずんと歩み寄って来た。

「え? え? どうしたの?」

「どうしたのじゃありませんよ。どうして先生はそんなことが言えるんです?」

「いや、だって僕は大人で、君はまだ子供で……」

「そんな答えが聞きたいんじゃないんです」

「じゃあなんだっていうんだ?」

「わたしのこと好きですか? 嫌いですか? イエスですかノーですか?」

「いくらなんでも極端過ぎる」

「それくらいがいいんです。わたし、ぶっちゃけ頭よくないんで。はっきり言ってもらわないとわからないことの方が全然多いんですよ」

「……はぁ、わかったよ」

 この子には本当に、手を焼かされる。

 僕は諦め混じりにため息をついて、首を振った。

 二度、三度。

「イエスだよ。君のそういう、頑固でまっすぐなところが大好きだ」

「わたしも先生のこと大好きですッ!」

 僕が答えたと同時、鏡谷さんが盛大に抱きついてきた。

 そのまま唇と唇を重ねる。

 長く、濃厚なキス。

 どれくらいそうしていただろうか? 実際には数十秒にも満たない時間かもしれない。

 頭がボーッとして、とろけてしまいそうなほど甘い匂いに包まれる。

「……ぷはっ」

 鏡谷さんが唇を離し、酸素を求めて大きく息を吸う。

 それからまた、キス。

「……もうすぐお風呂が湧くよ?」

「そしたら、たぶん汗だくだと思うんで一緒に入りましょう」

 僕達は何度も何度もキスを交わし、肌を重ねた。

 その時間をむさぼるように、味わうように。

 二度は訪れないだろう、今この時を。

 

 

               ◆

 

 

「……ごめんなさい」

 あの喫茶店で。

 僕と鏡谷さん、そして鏡谷夫妻は向き合っていた。

「心配したのよ。無事でよかっわ」

 鏡谷母は目の端に溜まった涙を拭い、鏡谷父も無言で頷いていた。

「ほんとにごめん、お母さん。……お母さんがお義父さんと再婚するって聞いて、ほんとのお父さんのこと忘れちゃったのかなって思って。そしてら悲しくて」

「凜……ばかね、本当に。誰に似たのかしら」

「そんなこと言わなくてもいいじゃん」

「お父さんのこと、忘れてなんかいやしないわよ」

「……君のお父さんと私は会社の同僚なんだ」

「そうなんですか」

「ああ、君のお父さんに頼まれてね。家族を守ってほしいって」

「お父さんが……」

 鏡谷さんが天国にいるであろう本当の父親に思いを馳せるように天を仰ぐ。

 僕はそんな彼女と、彼女の家族をただじっと見つめているだけだった。

 と、鏡谷母が僕へと向き直り、深々と頭をさげた。

「この度は本当にありがとうございました」

「いえいえ、僕は別になにも……」

「そうだ、ふたりに報告があるんだ」

「今?」

 鏡谷母が疑問符を頭に浮かべる。

 それを受けて、えへへ、と鏡谷さんがいたずらっぽく笑った。

 あーあ。

 これからまた、ひと波乱ありそうだなぁ。

 

 

               ◆

 

 

「どうしたのよ、あんた」

「なにがですか?」

「最近全然非恋もの書かないじゃない」

「前におまえの書くハッピーエンドは陳腐だって言われたんで」

「ふーん、それで闘志に火がついたってこと?」

「んー? まぁ大体そんな感じで」

「なによその言い方、煮え切らないわね」

「いや、ちょっと昔のトラウマを払拭させてくれる人に巡り合えて」

「へー、恋人でも出来た? 今度紹介しなさいよ」

「ま、気が向いたらですね」

「そーね。でもま、よかったじゃない。これであんたも一皮剥けたって感じね」

「今の僕ってそんなにいい感じですか?」

「前よりもだいぶ文章の雰囲気が柔らかくなった。これなら、たぶんこれまで以上に受け入れてくれる人が増えそうよ」

「それはよかったです」

 たんっと花園さんが腰かけていた僕の机から体を浮かし、ちょっとしたステップを踏む。

「なにかいいことでもあったんですか?」

「んー、ちょっとねぇ。この間いい酒を見つけたのよ」

「へぇー、いいですね、お酒」

「なに、興味ある?」

「いえ、遠慮しときます」

「ちぇっ、なによつれないわね」

 花園さんが不満そうに唇を尖らせる。

 年齢を考えろと言いたくなるが、今は気分がいいので口にはしないでおこう。

「さてと、次のとこいかないと」

「大変ですね、編集って」

「本当よ。でもそれ以上の見返りがあるから」

「そんなに給料よかったでしたっけ?」

「ばーか、給料目当てでこんな仕事続けてらんないわよ。もっと割のいい仕事がいくらだって世の中にはあるんだから」

「だったらなにを目当てにしてるんですか?」

 花園さんが首だけで振り返る。

 にやりと笑って、こう答えた。

「そりゃあんた達の成長具合とこの原稿よ。どんな読者よりも早く読めるのは私達の特権だもの。こんな割のいい仕事、他にないわよ」

「……はは、それはよかったです」

 なら安心だ。

 僕は花園さんを見送ったりせず、原稿へと舞い戻った。

 

 

               ◆

 

 

 地面には、さくらの花弁が落ちていた。

 木々はすっかり花を失い、枝葉をかすかに揺らすくらいしかせず。

 春の終わりは一抹の寂しさを誘う。

「……もうすぐ初夏か」

 四月下旬、道行く人の大半が半袖へと衣替えしていた。

 僕はあの桟橋を歩いて一五分のコンビニを目指して歩いていた。

 日曜だからだろう。河原には親子の笑い声が響いていた。

 鏡谷さんが実家へと戻って二日。彼女のいなくなったあのマンションの一室は、がらんどうとしていて、それまでよりも一層広く感じられる。

 なんだか落ち着かなかった。だからこうして部屋を出て、散歩をしている。

 橋の中ほど。鏡谷さんと始めて出会った場所。

 あの時、もしかすると彼女はここでひとり泣いていたのかもしれない。

 当時の僕はそのことに気づかず、ただそうすることが世の中の常識なのだと思って声をかけた。

 まさか、あんなことになろうとは微塵も予測していなかった訳だが。

「……それにしても濃い一ヶ月だった」

 むしろあれだけのことがたった三〇日あまりの時間の中に集約されていたことの方が驚きだ。

 どうしたら、あれだけのことが一辺に起こり得るのか。

「まぁとにかく、全部終わった」

 風が吹く。散った花弁が舞いあげられ、空の彼方へと飛んでいく。

 その光景はまさに、これからの彼女の行く末を暗示しているようにも思えた。

 そのままどこまでも飛んでいけ。密かにそう願う。

 高く、高く――。


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