それでも僕達は
第六章 それでも僕達は
ざああああああ――、と雨が降り続いていた。
僕はその音で目を覚ます。
「……んと、もうこんな時間か」
時刻は十二時をとっくに過ぎていた。耳を澄ませば、雨の音以外に音らしい音はなく、僕はソファから立ち上がった。
んー、と背筋を伸ばし、軽くストレッチをする。ふうと吐息し、なんの気なしに近くにあったテーブルを見下した。
そこにはラップに包まれた料理と書置きのメモが一枚。
「……えーと、朝はちゃんと食べて下さい、か」
そのメモの差出人はわかっていた。おそらく、と言うまでもなく鏡谷さんだろう。
そしてこの料理は彼女が作った物で間違いはない。なぜなら僕は料理なんてしないし、この家には他の人間は住んでいないのだから。
僕はその場に腰を下ろすと、ラップをはがして近くにあったはしを手に取る。
両手を合わせて合掌してから、それを口に運ぶ。
「へぇ……うまい」
おそらくはイタリアン系の料理だろうと思われるが、イタリアンなんててんで詳しくない僕はこの料理の名前すらわからあない。
なんだろう……貝? なんだかおかゆっぽい食感がする。きっと暖かい内に食べるのが一番いいのだろうが、冷たくなってしまった今、この料理のもともとの味なんてわからない。
食べ終えて、一時の満足感に浸る。
「鏡谷さんはまだ学校か」
窓の外、降りしきる雨粒に視線をやりながら、ふと一人ごちる。
先日、花園さんが言っていたこと。そのことがずっと、心の片隅にもやのように蟠っているのだ。
自分達の娘が失踪しておおよそ一ヶ月が経過しようとしている。だというのに、彼女の両親は鏡谷さんを探そうなんてしていないらしい。
その心情は、人の親になったことのない僕にはわからない部分だった。
こんなことは、頻繁に起こっていたことなのだろうか? だとしても、いくらなんでもと思うが、それもまた他人の家の事情という奴だ。僕がおいそれと口を出していい問題ではないだろう。
家庭の問題……例えば親が大企業の社長とかで、勝手に許嫁を決められている、とか。そしてその社長は娘の居場所を把握していて、だから探したりしない。……なんて使う振るされたような展開はないだろう。まだ高校生だから見逃してたんだ、なんていう親が本当にいるとも思えないし。
親っていうのは、子供の幸せを一番願うものだと思う。
そうあってほしいと心の底から願う。
「なんて僕が願ったって意味ないんだけど」
食べ終えた皿を持って立ち上がり、シンクのところまで持って行く。
そうしてから、僕はPCの前まで戻り、腰かけた。
電源をオンにして、いつものように書きかけの原稿を呼び出す。
まっさらな、純白の画面。
さて、どうしたものか。
先日書きあげたハッピーエンドな話は却下されてしまったので、いつも通りの非恋を描くことになるのだが。
まずはキャラクター設定から始めてみよう。あまり現実にいないような、それでいて読者が共感しやすいようなキャラクターがいい。
……となると、モデルがいた方がいいよな。そしてモデルを探そうとすればおのずと外へ出なくてはならない。しかし外はあいにくの雨。
よし、今日はここまでにしよう。締め切りまでもう少し時間があることだし。
僕はPCの電源を落とし、くるりと椅子を反転させる。
立ち上がり、書棚の中から一冊の本を取り出す。
それは僕がこの世でたった一冊、心の底から面白いと思えた本だった。
タイトルは『悲報の城』。城下で起こる数々の事件の報告を受け、苦悩する統治者の話だ。
恋愛の要素はなく、ただのコメディであるこの作品。特に有名になることもなく、作者もこの一冊を世に出してから他の話を書いてはいない。
僕の書く物語りとは、真逆を行く。それゆえに面白いと本気で思う。
そういう作品だ。
パラリとページを捲る。一話完結の構成で、僕が開いたページはちょうど中央、一番盛り上がる部分だった。
「……はは」
やはり面白い。あっという間に一話読み終えてしまった。
僕は本を閉じ、表紙を撫でる。
「『リード・M』……なんでもう書かないんだろう?」
リード・M。それがこの『悲報の城』の作者の名前だ。当然、ペンネームだろうが。
僕はその本を持って椅子に座り直し、表紙を捲る。
それから数時間をかけてじっくりと僕は『悲報の城』を読み返していく。
◆
玄関の戸が開く音がして、僕は活字を追いかけるのを止めて時計を見た。
時刻は五時半過ぎ。ちょうど学校が終わり、鏡谷さんが帰って来る時間だ。
帰って来る、という表現にすでに違和感を覚えなくなっていることに気づいて、自分で主wず苦笑してしまった。
「ただいま、先生!」
「おかえり。もうそんな時間か」
「はい、すぐに晩ごはんの支度しますね。……って先生、その本は?」
「ん? ああこれね。僕が純粋に好きな人の本だよ。面白いんだ」
「え? ええと、そ、そうなんですかー」
「鏡谷さん? どうしたの?」
「な、なにがですか? わたしはどうもしてませんよ?」
「いや、なんか顔が赤いよ? それになんだかそわそわして……」
「そんなことないですよー、それじゃあキッチン借りますね」
「う、うん……」
一刻も早くこの場を離れたいらしく、鏡谷さんは早歩きでキッチンへと向かう。が、さほど広い家出もないため数秒とかからずに到着してしまう。
それからそわそわそわそわと落ち着かない様子で料理を始める鏡谷さん。なんだか全体的に小刻みに震えていて、包丁を使っている時なんて僕でもハラハラした。
「大丈夫? なんなら今日も冷凍食品でもいいけど」
「だめです、作家は体が資本ですから。ちゃんとした物を食べないと」
「あーと……それはありがたいんだけど、でもなんかすごく恐い」
「大丈夫ですよ、見てて下さい――痛ぁ!」
「ああもう」
包丁で切ってしまったらしい。
鏡谷さんは指を口に含みながら、泣きそうな顔で僕を振り返る。僕は救急箱を取り出して鏡谷さんを手招きした。
「す、すいません先生」
「いいよ、気にしなくて。それより手、見せて」
「はい」
よかった。あまり深く切ってはいないようだ。これなら軽く消毒して絆創膏を貼っておけばすぐに治るだろう。
僕は手もとで作業をしながら、気になったことを鏡谷さんに聞いてみた。
「どうしたの? なんだかすごく変だったよ」
「ど、どどどうもしませんよ?」
「どうして疑問系なんだい? まぁいいけど。でもなんでもないってふうには見えないんだよなぁ」
「ほんとになんでもないですから。あ、ありがとうございます」
絆創膏を巻き終えると、鏡谷さんはそそくさと台所へ戻ってしまった。
今まで、全然気にしたことがなかったけど、鏡谷さんの手は小さくて、すぐに壊してしまえるのではないかと思えた。
「……いやいや」
なにを考えているんだ、僕は。彼女はあくまで僕のファンの一人。ファンは大切にしないといけないんだと花園さんも言っていた。
こんなことを考えてしまうなんて、言語道断だ。
僕は雑念を振り払うようにぶんぶんと首を左右に振る。
と、頭上から鏡谷さんの不思議そうな声が降りてくる。
「どうしたんですか?」
「な、なにが?」
「いえ、なんだか難しい顔をしていたから」
料理を持って戻って来た鏡谷さんにそう言われ、僕は努めて平静を装った。
いや、きっとあまり装えていなかったのかもしれない。
だって鏡谷さんの表情が晴れることはなかったから。
「なんでもないよ。ただ単に仕事のことを考えていただけだ」
「お仕事のことを考えるとそんな顔になるんですか」
「なるよ。僕は仕事がこの世で一番嫌いだからね」
「嫌いなのに続けてるんですね」
「まぁ……他に出来ることもなかったし。それより、早く食べよう」
「はい」
鏡谷さんがテーブルに料理を置き、僕にはしを手渡してくる。
僕はそれを受け取り、いただきますと一言添えてから食べ始めた。
うん、今日もおいしい。なんだかんだで、僕の胃袋はすっかり鏡谷さんに籠絡されてしまったらしい。
そんな自分がなんだかおかしくて、緩んでしまった口もとを隠すように一気に料理を口の中に押し込んでいく。
◆
その日の夜。深夜三時半を三分ほど過ぎた時間。
突如として携帯電話が鳴り響く。こんな時間に誰だろうと思って着信画面を見ると、花園さんからだった。
「……ん、もしもし」
『ああ、寝てた? 悪いわね』
「いえ、それでどうしたんですか? こんな時間に珍しいですね」
隣の部屋で寝ている鏡谷さんに聞こえないよう、努めて声を殺す。
するとなぜか、電話の向こうの花園さんも同じように声を潜めて離し出した。
『あの鏡谷凜って子のことを調べていたのよ』
「本人はあまり詮索されたがってないみたいなんですけど?」
『そういう訳にはいなかいわ。相手は未成年だもの。大人として捨て置けないのよ』
「そんなもんですか。それで、なにかわかったから連絡を寄越したんでしょう?」
『ええ、彼女の実家の場所が特定したわ。今日連絡を取ったから、明日……いえ、もう今日か。にあの子を連れて行ってほしいの』
「連れて行くって……どこへ?」
僕が訊ねると、花園さんがその場初を口にする。
それは、彼女の学校の近くにある公園とも言えない広場のような場所だった。
たまに散歩で行くので、おおよその場所はわかる。あとは現地に行けばなんとかなるだろう。
『今は私がかくまってることになってるわ』
「ん? それじゃ僕が行くのはまずいんじゃ……?」
『あんたは私の代理人ってことでいいでしょう。それであの人達も納得してくれると思うわ』
「……花園さん?」
花園さんの声はどこか沈んでいて、なんというかとてもいいことをしたーっという人間の声じゃあなかった。
むしろ、後悔と罪悪感に苛まれたような声だ。
「どうかしたんですか?」
『どうもしないわ。……ただ、ちょっと、ね』
「……ま、わかりました。その場所に連れて行けばいいんですね」
『ええ……ごめんなさい』
「?」
ごめんなさい? 面倒事を押しつける形になってごめんという意味だろうか?
いずれにせよ、花園さんらしくない言動だった。
「別に気にしないで下さい。料理を作ってくれる人がいなくなるのは残念ですけど、本来の鞘に収まるだけの話ですから」
『……ええ、そうね』
「えーと、花園さん、どうかしたんですか?」
『どうも……しないわ』
どうもしない、なんてことはないだろう
いつもの花園さんなら、こんな奥歯に食べカスが挟まったような話し方はしない。もっとはっきりと言うはずだ。
明らかになにかがおかしい。そう感じてはいるのだが、花園さん自身が話したがらない以上僕の方から聞くのも野暮というもの。
僕は彼女にお休みなさいと言って、通話を断った。
ツーツー、と無機質な電子音が鳴り続く。
「……先生、どうかしたんですか?」
「起こしちゃった? ごめんね」
「いえ、わたしは大丈夫です。電話ですか?」
「うん、花園さんから」
「なんて?」
「へ? いや……単に原稿の催促だけど」
「今、妙な間がありましたけど?」
「気のせいだよ。明日も学校だろ? 寝た方がいいんじゃないかな?」
「わかりました、そうさせてもらいます」
鏡谷さんは眠たそうに欠伸を一つすると、くるりと身を反転させた。
おそらく、今彼女が寝床として使っている部屋へ戻るのだろう。よかった。
変に喰い下がられたらどうしようと思っていだので、ホッと胸を撫で下ろした気分だ。
咄嗟に口から出た出任せも信じてくれた様だし、これも日頃の行いという奴だろう。
「あっ、そうだ先生」
「どうしたの?」
「先生がどんな人だろうと、どんな人生を歩んで来ようと、わたしは先生の作品、全部大好きですから」
「――ああ、そう」
唐突に、振り返らずに、こっちを見ずに。
あたり前のようにそんなことを言うものだから、僕は反応に困ってしまって素っ気なくなってしまう。
カーッと顔中に熱が帯びていくのがわかった。
「じゃあお休みなさい、先生」
「うん、お休み」
鏡谷さんが出て行って数秒、僕はジッと彼女の出てった方を見つめていた。
扉のない、開け放しの空間。行こうと思えばすぐにでも彼女のもとへ行ける。そんな距離。
それでも僕は動けなかった。動いてしまえば、決定的に違ってくるという予感があったから。
「……僕って進歩のない奴だな」
五年前のあの日のことを思い出す。
よく晴れたあの日のことを。じりじりと肌を焼く感覚と、そんなものすら消し去ってしまえるような柔らかな暖かさ。
そのすべてを、僕自身の手で台なしにしてしまったことさえも。
「…………」
胸が痛かった。ずきずきと疼いて仕方ない。
僕は毛布と布団を被り直し、ぎゅっと強く目を閉じた。
◆
「外に出よう」
週末、日曜。
突然に僕がそんなことを言い出したものだから、鏡谷さんは呆けたような表情でしばしの間固まってしまっていた。
「……と、どうしたんですか先生? 突然外出なんて」
「別に。この間ハンバーグを食べさせてあげると言ったのに約束を守れなかったなって」
「いえ、そんなどうしても食べたかった訳じゃないんで大丈夫ですよ?」
「いいからいいから、行こう」
「は、はぁ……わかりました」
鏡谷さんは今だ事態の推移を把握出来ていないようだった。
それはそうだろう。なにせ僕の方から出かけよう、なんて言ったのはこれが初めてだ。
しかも、約束を守る、なんて体の言い訳まで用意して。
「じゃあすぐに支度して来ますから」
「別にそのままでもいいと思うんだけど?」
「だめですよ。一応わたしも女の子ですから。このままだと恥かしいです」
なるほど、僕の前じゃあ恥かしくないと。これは参ったな。
「わかったよ。でもなるべく急いでくれよ」
「わかりましたー」
鏡谷さんは洗濯物を干すのを止めて、急いで今使っている部屋へと戻って行った。
あわただしく支度をする音が聞こえる。
彼女が準備をしている間、僕は財布と携帯を持っているかだけ確認した。
問題はない。
「お、お待たせしましたー」
「ん? 早かったね。もうちょっとかかると思ってたんだけど」
「先生が悪いんですよ。いきなり言い出すんですから」
「ごめんごめん、じゃあ行こうか」
「はい」
僕と鏡谷さんはマンションを出て、通りへ出る。
さすがに日曜日。昼日中でも人間がゴミのようだ。
「それで先生、一体どこへ行くんですか?」
「そうだな。昨日調べたところ、近くに美味しいハンバーグのお店があるはずなんだ。えっと……こっちだ」
僕は携帯の地図アプリを呼び出して、昨晩マーキングした場所を確認した。
その様を見てか、鏡谷さんが若干ジトッとした目線を寄越してくる。
「ど、どうしたの?」
「いえ、なんかかっこ悪いなーと思いまして」
どうやら今の僕は鏡谷さんのお気に召さなかったらしい。
もっと優雅なエスコートを期待していたようだ。だが僕にその手の期待をする方が間違っているというものだ。
それから僕達は地図の通りに行き、特筆するような出来事もなく無事に目的のハンバーグ店へとたどり着いた。
「……ここ、ですか?」
「ここ……のはずだよ」
地図アプリによると、目的の店はここで間違いない。
通りから少し離れてはいるものの、別段隠れ家的な雰囲気はない。
僕達が立ち尽くしている間にも二人ほど店内に足を踏み入れている人がいたくらいだ。
が、僕達は彼らのように何の迷いもなく入店することは出来なかった。
その理由は……店の外観にあった。
「なんか……すごいぼろぼろなんですけど」
「だね。来る場所を間違えては……やっぱりないな」
何度携帯の画面を見たところで、事実は変わらない。
ここで間違いはない。
「も、もしかしたら見かけによらないということもあるかもしれない。せっかく来たんだし」
「そ、そそそうですね。入ってみましょう」
僕が先に店内に入り、鏡谷さんがそのあとに続く。
店内は外観より広々としていて、どことなく落ち着きのある大人な空間が広がっていた。
カウンター席とテーブル席があり、どちらの席でもスーツや作業服姿の人達が散見される。
世間的には休日なのだが、仕事という人もいるのだろう。
「……中々たくさんいるね」
「そうですね。人気があるんでしょうか?」
僕達が入り口付近で突っ立っていると店員と思しきエプロン姿の女性が声をかけてきた。
「すみません、おまたせしました。二名さまでよろしいですか?」
「えーと、はい」
「喫煙席禁煙席はどうされますか?」
「えっと、じゃあ禁煙席で」
「わかりました。ではこちらへどうぞ」
女性が僕達を先導するように歩き出す。
僕は鏡谷さんと視線を交わし、女性の案内に従って店内を歩く。
ほとんどの席が埋まってしまっているのだろう。店の一番最奥の席へと案内され、女性は申し訳なさそうな表情とともに振り返る。
「すみません、ここしか空いてないんですけどいいですか?」
「構いませんよ。大丈夫だよね?」
「はい。それにとっても素敵な雰囲気です」
「ありがとうございます。それではこちらがメニューになります。お決まりになられましたらそちらのボタンを押してお呼びください」
「わかりました」
僕が答えると、女性は一礼して厨房の方へと消えていった。
なんか忙しそうだな。
「まぁ時間が時間だし。昼休みに食べに来たって人もたくさんいるだろう」
「ですね。わたし達は急いでいる訳じゃあないからいいですけど」
「ま、とりあえず座ってメニューを見よう。すべてはそれからだ」
「はい」
僕と鏡谷さんは向かい合って椅子に腰かけ、メニュー表を開いた。
メニューには色とりどりのハンバーグ料理があり、正直どれにしようか迷ってしまうほどだ。
「先生どれにします?」
「そうだなぁ……お? これなんて美味しそう」
そう言って僕が指差したのはハンバーグの上に熱したパインが乗せてあるハンバーグだった。
鏡谷さんは顔を明るくして、うんうんと頷いている。
「いいですね。じゃあわたしはこれにしよーっと」
言って鏡谷さんはランチセットを指し示す。
「では決まったので押しますね」
「うん」
ぴんぽーん、と呼び鈴が鳴り響く。
従業員の数はそれほど多くないのだろう。すぐに店員さんがやってくることはなかった。
まぁ急いでいる訳でもないし、餓死しそうなほど空腹な訳でもない。ここは大人しく待つとしよう。
店員を待つ間、改めて店内をぐるりと見回す。
「しっかし、外観を見た時にはもしかしたらまずい場所なんじゃと思ったけど、なんだか中はそんな感じしないなぁ」
「そうですね。わたしも最初入るのは躊躇いましたけど。でもテーブルは綺麗ですし、雰囲気も素敵です。これぞ隠れ家的な店という感じです」
「だね。店員さんもいい人そうだったし」
「先生……なにを考えてるんですか?」
「へ? ああいや、別になにも」
なんだろう? 鏡谷さんの雰囲気が恐くなった。
僕は彼女が纏うオーラを払拭するべく、話題の転換を試みた。
「それで最近どうなの? 学校の方は」
「……まぁそれなりに楽しいですね」
「へぇ……それなりに、ね。どういうこと?」
「んー……わたしが悪いんですけど、今どうしてるのとかどこに住んでるのとか色々聞かれるんです。わたしが家出していることがいつの間にか広まってしまったようで」
「どうしてだい? 別に吹聴して回っている訳じゃないんだろう?」
「あたり前ですよ。こんなこと言って回ったところで誰が得するって言うんですか?」
至極ごもっともな意見だ。しかし鏡谷さんが家出をしたことを言って回っている人間がいることは事実で。しかもその人物は学校の中にいる。
……ま、考えても仕方のないことだろうけど。
「す、すみませんおまたせしました」
「ああ、いえ、大丈夫ですよ。……大丈夫ですか?」
店員さんが半ば飛んでくるようにして走って来たので、僕は笑顔で応じた。
というか、逆に心配になるくらい疲労の色が滲んでいる。
「あの、一人なんですか?」
「じ、実はそうなんです。ここ自営業で、夫と二人でやっているものですから」
ふーん、となるとその夫とやらは厨房で一人ひーひー言っている訳だ。
大変だな。
「バイトとか雇ったらどうですか? なんならわたし働きに来ますよ?」
「ははは、そうですね。そう出来ればいいんですけど」
「なにか事情でも?」
「いえ、単に金銭的な問題で。仮に従業員を雇ってもお給料を払えるだけの収入がないんですよ」
「そうなんですか。それは大変ですね」
そういえばメニューを見た時、ボリュームや使われている食材の量から言って安過ぎる価格設定だと思った。
「主人がこだわる人で、いい食材を使っていいものを安く食べてもらいたいって」
「そうなんですか。でもだったらあと五百円は値上げしてもいいと思いますよ?」
どこのどんな高級食材が使われているのかわからないが、さすがにハンバーグ一個三百六十円はない。肉の代わりに段ボールを使っているというのならまだしも真っ当なものなら少なくとも今の値段の倍はとれるだろう。
「主人はどうにも夢見がちな人で」
「でも奥さんはそんなご主人が好きなんですよね?」
「え? えーと……ご注文を承りますね」
走って来て熱いからなのか、それとも鏡谷さんが余計なことを言ったからなのか。どちらかはわからなかったが、彼女は顔を朱に染めて慌ててメモ帳サイズの紙片を取り出した。
「じゃあわたしこれで」
「僕はこっちので」
「では少々お待ち下さい」
ぺこりと頭を下げてどこかへと消えていく。
ま、さっきまで滲んでいた疲労の色も鏡谷さんの余計なひと言で吹っ飛んだようだし、この店の経営方針に僕のような部外者かつ素人が口を挟むべきじゃない。
そんなことより……、
「どうしたんですか先生? わたしのことジーッと見て」
「いや、どうしてあんなこと言ったのかなって」
「あんなこと? ああ、ご主人が好き云々って奴ですか」
「いや、そのくだりはいい。その前だよ」
「その前……バイトを雇ったらって奴ですか」
「そうそれ」
「なにかまずかったですか?」
鏡谷さんはくりっと首を横に倒し、不思議そうな顔で僕を見てくる。
僕は彼女から視線を逸らし、ふーっと息を吐いた。
「この状況はおそらく以前からずっと続いているんだろう。そのことはあの人の疲れ具合を見れば一目瞭然だ。一日二日でああはならない」
「そうなんですか……先生って案外他人のことよく見てますよね」
「人間観察は僕の趣味の一つだからね」
「……まぁわかってましたけど、性格悪いですよね。先生って」
「まーね。でも性格悪くなくちゃ作家なんて務まらないよ?」
「そんなことないと思います。作家さんでもいい人いっぱいいると思います!」
「ま、奴らも大人の端くれだから。それなりに猫の皮被ってるんじゃないかな?」
心の底からいい人なんて実際にいる訳がない。
「ふーん……ま、そんなことはどうだっていいんですけど」
「どうだっていいんだ……」
だったらなぜそんな話をし出したんだろう? ただの世間話かな?
「先生はどうして作家さんなんてやってるんです?」
「どうしてって……」
そりゃあこれしか出来ないし。他のことをやれと言われたところで、たぶん無理だ。不可能だと言っても過言ではないだろう。
だというのにこの娘は……、
「まともな仕事が僕に務まるとはとても思えないね。第一、鏡谷さんだって作家を目指してるんだろう? だったら僕のこと言えた義理はないんじゃないかな?」
「いえ、わたしがお尋ねしたいのはそういうことじゃなくて、先生が先生になった経緯と言いますかなんといいますか……」
「経緯、ねぇ……」
そんなこと言われても困る。
ただ単に田舎にいるのが嫌で都会に出て来て、でも資格なんてなにもなかったから。人間観察も妄想も昔から好きで、読書もそれなりにする方だったし。
ちょっと試しに新人賞に応募してみたら受かったからそのま作家業を続けて、今日では人気作家の一人として数えられるほどになった。
という、ただそれだけのことだ。
「簡単に言えば、自分探しかな」
「よくわかりません」
「だろうね」
僕達の会話が一区切りしたところで空気を読んだ訳でもないだろうけど、注文していた二種類のハンバーグが届いた。
正直、もっと時間のかかるものだと思っていたので予想外だった。
「意外と早かったですね」
「……鏡谷さん」
鏡谷さんがばか正直にそんなことを言うものだから、僕は慌ててたしなめる。
と、店員の女性は恥かしそうな笑みを浮かべるだけだった。
「そうですね。みなさんそうおっしゃいます。でも不思議と怒ったりキャンセルしたりするお客さんはいないんですよ」
「へぇ……人徳って奴ですかね」
「ですね。夫のお陰です」
「…………」
それだけではないと思うのだが、しかし本人がこう言っている以上僕の方から余計な口は挟むべきではないだろう。
なんて僕が大人な対応をしようとした、まさにその時だ。
「いえ、たぶん店員さんの徳が大きいと思いますよ」
「え、私の……?」
「はい。だって店員さん、注文を聞く時も厨房へ行く時も持って来る時も、ずっと笑顔だったじゃないですか。たぶんそのお陰かと」
「はぁ……また余計なことを」
「わ、私のお陰、ですか」
「はい。だからもうちょっとだけ、自分のことも褒めてあげて下さい」
「あ、ありがとうございます。そんなこと言われたの始めてです」
店員の女性はぺこりと頭を下げて、他の客のもとへと小走りに駆けて行った。
僕はほかほかと湯気を立ち昇らせるハンバーグから漂うパインの甘い香りを嗅ぎながら、はぁとため息を吐いた。
「どうしたんですか、先生?」
「いや……なんでもないよ。ただ学生に戻りたいなーって思っただけ」
僕にもこんな時期があったなぁと昔を懐かしんだだけだ。
あの頃みたいに思ったことを素直に言えたなら……いや。
素直になんでも口にしていた結果、あんなことになったのだ。あの過ちだけは繰り返してはならないのだと肝に銘じたはずだ。
「先生、どうしたんですか? なんだかすごく恐い顔してますよ?」
「え? ああ、ごめん。ちょっと考えごとをしてて……」
「なにか悩みがあるならわたし、話くらい聞いてあげられます」
「ありがとう。でもほんとに大丈夫だから。さ、早く食べないと冷めちゃうよ」
鏡谷さんは府に落ちないといった様子だったが、僕がハンバーグを食べ始めると習うようにして口に運んで行く。
それから僕達は、時々とりとめのない言葉を交わしながら食べ進めていった。
◆
ハンバーグを食べ終えてすぐ。店から出ると同時に鏡谷さんの携帯電話が鳴り響く。
「あっと、すいません。……えーと」
「どうしたの?」
「いえ、友達が今から遊ぼうって言ってきて。でもまだお洗濯終ってないのに」
僕が連れ出したからね。半ば無理矢理に。
「行って来るといいよ」
「で、でも……」
「大丈夫、もともとは一人暮らしだったんだし、洗濯くらい出来るよ」
火や包丁を使う訳じゃないから料理と違って危ないこともないしね。
「でもわたしバイトとかしてないのでお金が……」
「なんだったらあげるよ?」
「いえ、悪いですよ」
「いいって」
「どうして……」
どうしてって……うーん。
「学生っていうのは今だけなんだ。特に理由もないなら、行った方がいいと思って」
僕みたいに地元にいづらいから離れる、なんて選択をしなくてもいいように。
それに友達っていうのは、一生の宝ともいうし。
「だから、機会があるなら行って来るといい。きっと楽しいよ」
今の時代、なにをするにも金がいる。だから金がないという理由で誘いを断るのも道理だろう。それによって、今という時間を台なしにするとしても。
まったく、生きずらい世の中だ。
「……わかりました、ありがとうございます」
「うん、楽しんでおいで」
高校生ならこのくらいいるだろうと、一万円ほど渡しておいた。
走り去って行く彼女の後ろ姿を見送る。
その背に、過去の軌跡を辿りながら――――。