その境界線の先に
第五章 その境界線の先に
先日までと比べて、僕の部屋はだいぶ静かになった。
というのも、鏡谷さんはあれ以来、昼間は学校に通うようになったのだ。本来ならこちらが普通のことのはずなのに、なんだかすごく不思議な感覚を覚えてしまうのはなぜだろうか?
まぁそんな訳で、昼間の僕は鞭打たれる馬車馬のごとく、穴が空きそうなほどの熱視線を背後から浴びながら仕事をしているのだった。
「ほら、手が止まってるわよ!」
「もう十二時間もずっと書き続けですよ、いい加減手が痛いです!」
「若い女の子と一緒に暮らしておいて、あまつさえ旅行まで行っておいて、まったく原稿が進んでないとか抜かすアホな自分を呪うことね!」
「ろ、労働基準法とかどうなってるんですか!」
「法律はまじめに働く人間を守るために存在しているの、あんたみたいなのは対象外よ!」
「鬼ぃぃぃ! 悪魔ぁぁぁ!」
「はっはっはー! なんとでも言うがいいわ、すべては自らが巻いた種よ!」
「ちくしょぉぉぉぉぉぉぉ!」
この十二時間、トイレに行く以外で僕がこの部屋から出ることは許されなかった。
いや、部屋から出るのは、というのより椅子から立ち上がり、そしてキーホードから手を離すことは許されなかったと言った方が正しいだろう。
そのくらい彼女――花園さんはお怒りだった。
「あんた私が編集長に何度頭下げたと思ってるの! 怒られても怒られても必死で耐え、あまつさえ時間をもらって来た私はむしろ天使と呼ばれてもいいくらいの仕事をしていると思うんだけど? どうかしら岩尾先生?」
「ぐぬぬ……わかりましたよ!」
ズガガガガガガガガガガッとかつてないほどのスピードでまっさらだった画面を文字で埋め尽くしていく。
「なによ、やれば出来るじゃない」
「あたり前じゃないですかこのくらい、簡単ですよ簡単」
小説なんて単なる文字の集合体だ。感動をもたらすのは作家ではなく読者の感受性。
つまりある程度てきとーに書いていても、それなりに形になっていれば売れるものだ。
「出来ました、見て下さい」
「どれどれ」
完成した原稿を即座にプリントアウトして、花園さんへと渡す。
花園さんはじっと紙面に視線を這わせ、一枚、また一枚と捲っていく。
三十分後、一通りの内容を読み終えた彼女はふーっと吐息して、僕の原稿を膝の上に置いた。
そして一言。
「全然だめね」
「はぁぁ! これで通算四度目の没ですよ!」
「あんた、まじめにやる気ある? 全部ハッピーエンドになってるわよ?」
「いや、だって花園さんがハッピーエンド書いてみろって」
「言ったかしらそんなこと? まぁいいわ。とにかく書き直して」
「ちょっと待って下さい、一体全体なにがだめなんですか!」
「全体的によ。なんだかうすぼんやりとしていて、眠たくなるわ」
「なんですかそれ……」
「別にハッピーエンドじゃなくていいから、きちんとしたものを書きなさい」
「そう言われても」
花園さんから突き返された原稿を受け取り、口を尖らせてみる。そんなことをしても無駄だとわかってはいるものの、なんとなくそのまま素直に受け取ることはしたくなかった。
「あんた、前に言っていたわね。ハッピーエンドが想像出来ないって。これを見る限り、まったく思い浮かばないって訳じゃなさそうね」
「えーと、まぁ。……なんていうか、ぼんやりと。霧がかった感じですけど」
「私が言ったからって無理して書く必要はないわ。とにかく明日のお昼までには完成させて置いてね。私これでも忙しいのよ」
花園さんはすっくと立ち上がると、素早い足取りで玄関へと向かって行った。
靴を履き、扉を開ける。と、その向こう側で制服姿の女子高生が驚いたように目を向いていた。
「あら鏡谷さん。お帰りなさい。もうそんな時間かしら?」
「えーと、ただいまです。はい、もう五時半過ぎですね」
「そう。あいつにはくれぐれも言ってあるけど、一応見ておいてね。きちんと仕事するように」
「わ、わかりました」
「それじゃあね、鏡谷さん。また」
「は、はい……」
鏡谷さんと何気ない会話を交わし、我が担当編集はそそくさと玄関先から姿を消した。
鏡谷さんはというと、ホッと安堵したかのようにため息をつきながら靴を脱いで部屋へと入ってくる。
「先生、また花園さんを怒らせてるんですか?」
「怒らせてるつもりはないよ。ただあの人が勝手に怒ってるだけで」
「それは先生が怒らせるようなことをするからですよ」
「してないって、怒らせるようなことなんて」
だって単に原稿を上げてないだけだし。
「そうですか……」
「あれ?」
「どうしました?」
「いや、なんでもない」
あの小旅行から帰って来て丸一日が経過しようとしていた。
あれ以来、鏡谷さんが僕の過去を詮索する素振りはない。それに関してはありがたい限りなのだが、同時に彼女から元気がなくなっているような気がする。
久しぶりの学校だったから疲れたのだろうか?
「さてと、花園さんもどっか行ったし、ごはんにしよう」
「あっ、じゃあわたし作りますよ」
「いいよ。それくらい僕がやるって。今日は疲れたろ?」
「で、でもぉ……」
ちらと鏡谷さんが冷蔵庫の方を見やる。
おそらく、冷凍食品かなにかで済まそうと考えていることはとっくに見抜かれているだろう。ここ数週間、料理担当はずっと鏡谷さんだったからな。多少、そういったのが恋しくはあった。
「ま、たまにはいいと思うよ?」
「……わかりました、でもほんとにたまにですよ?」
「わかってるって」
僕は椅子から立ち上がると、冷蔵庫へと向かう。
冷凍部分を開けて、中身を物色。
「えーと、なにがあったかなぁ」
言ってしまうと、どこになにがあるかなんて僕には全然わからない。
このエリアは鏡谷さんの手の加わってない部分になるはずだが、僕は基本的に晩ごはんなにがいいかなーっと考える性質じゃないから、普通だったら一番上にある奴を手に取る。それがなんであれ、胃袋に入ってしまえば同じだという考え方だ。
が、本日は久しぶりの冷凍食品での夕食。そして一人ではなく、鏡谷さんがいる。
多少は気を使おうというものだ。
「さてと、鏡谷さんはどっちがいい?」
「うーんと、じゃあパスタで」
「わかったよ。じゃあ先にこっちから」
「え? いいんですか?」
「いいもなにも、うちのレンジじゃ二ついっぺんには温めらんないから」
「じゃあお言葉に甘えて」
「ん」
僕はパスタの包みを開けて中身を取り出し、電子レンジの中へと入れる。その後、所定の時間をセットしてスタートボタンを押した。
「先生は食べないんですか?」
「いや食べるよ? このレンジじゃ二ついっぺんには加熱出来ないんだ」
「ああ、なるほどです」
鏡谷さんは納得した様にうなずくと、口を噤んでしまった。
あの小旅行からこっち、どうにも鏡谷さんとはぎくしゃくしがちになっていた。
別につきあってるとか訳じゃあないので、問題ないといえば問題ないのだが、鏡谷さんは家出中の身。そしてもうしばらく帰る素振りを見せないので、まだまだ長いつきあいになるだろうと予測される。
そうなると、今のままというのはいささか以上にストレスの溜まる事態だったりする。
僕の胃袋は今現在、きりきりと痛みを発しているのだった。
なんてことを考えてる間にレンジから調理が完了したことを知らせるメロディが鳴り、僕はレンジのふたを開けて中身を皿の上へと移し替える。
それから、僕の分の冷凍食品を放りこみ、先ほどと同じ手順でタイマーを設定してからパスタを鏡谷さんのもとへと運んだ。
彼女の前に湯気の立ち昇る皿を置く。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
礼を言い、鏡谷さんがパスタを食す。
ちゅるちゅるちゅるー、とゆっくりとパスタを口に運んでいく。
その様子を見ながら、僕は自分の分が出来上がるのを待った。
「あ、あのぉ……ちょっと食べづらいんですけど」
「ああ、ごめん」
あまりまじまじと見つめすぎていたからだろうか。おずおずといった様子で鏡谷さんが抗議の声を発してくる。
僕は慌てて視線を外し、窓の外を見やった。
とはいえ、別段面白い物が見れるという訳でもない。ここから見えるものといったらせいぜい、空を漂う雲くらいなものだ。
レンジから調理完了のメロディが流れるまで、僕と鏡谷さんの間に会話らしい会話はなかった。たった五分程度の時間がやけに長く感じられたのはそのためだろう。
ようやく晩ごはんが完成し、中身を皿の上に移す。
それを持って鏡谷さんのもとへ戻ると、すでにパスタを食べ終えていた。
「……なんかごめんね」
「どうしたんですか?」
なんとなく悪いような気がして謝ってしまった。すると当然、鏡谷さんが不思議そうな顔になる。
なんでもない、と鏡谷さんを諭し、テーブルにごはんを置いて食べ始める。
「じー」
「…………」
「じ――」
「…………」
「じ―――」
「えーと、なに?」
「へ? なにがですか?」
「いや、さっきからじーっと見てくるからさ」
「ああ、なんだか退屈で」
にへら、と笑みを浮かべる鏡谷さん。
さっきは僕にあまり見るなと言っておいて……ちょっといたずらしてやろう。
「もしかして、さっきのパスタだけじゃ足りなかった?」
「そんなことないです。お腹いっぱいですよ」
「いいんだよ、育ち盛りなんだから。そんなに遠慮しないで」
「ほんとに大丈夫ですから」
「ほら、あーん」
僕は皿の上の料理を一つはしで摘み、鏡谷さんの口もとへと持っていく。
鏡谷さんは一瞬戸惑った様子だったが、観念したのか頬を赤らめつつ大きく口を開ける。
「残念、冗談だよ」
そうしてはしの上の料理が彼女の口の中に吸い込まれる寸前、僕はその料理を自分で食べてやった。
「はは、引っかかったね」
「…………」
「さっきのおかえ……し?」
僕が一人笑っていると、鏡谷さんの体が小刻みに震え始めた。
心なしか表情も強張って、目元には涙さえ浮かべているように見える。
「あの……鏡谷さん?」
「ひどいです、先生。わたし、先生が食べさせてくれるって思ったのに」
「ああいや、その……僕そんなにお腹空いてないし食べ足りなかったんならあげるよ」
「いりませんよ、そんなもの!」
「え? どうして……」
「どうしてでもです!」
一際大声をあげると、鏡谷さんはぷいとそっぽを向いてしまった。
どうして? お腹空いてたんじゃなかったの?
「どうしたの? なにか言いたいことがあるんじゃ……?」
「なんでもないったらなんでもないんです! わたし、お風呂入って来ます!」
「あ、ああうん」
「覗いたりしたらほんとに許しませんよ?」
「なにをそんなに怒っているのかわからないけど、覗いたりなんかしないよ。……あとが恐いからね」
「なにかいいましたか、先生?」
「なんでもないよ。いってらっしゃい」
ずんずんと足音を立ててバスルームへと向かう鏡谷さんの背中を見送り、僕はふうとため息を吐いた。
どうしたというんだろう? 最近の若い子の言動はよくわからない。
なんだかどっと疲れが押し寄せてきて、僕はその場に倒れ込んだ。
ふと目を閉じると、周囲が暗くなる。昔は眠る度に高校時代の夢を見ていた。
最近はとんと見なくなったというのに、ここ二、三日だけで二度ほど昔を思い出すことが増えたように思う。
思い出す度に胸の奥がずきずきして、とにかくこの痛みから解放されることを願っていた。
こんなことじゃ、おちおち眠れやしないから。
「僕は臆病なのだろうか?」
職業柄、何度となく恋愛について考えてきた。
多角的な見方をしてきた。はずだった。
でも花園さんも鏡谷さんも僕の書く話は必ずバッドエンドだという。ハッピーエンドを書いてみたら陳腐だと一蹴されてしまう。
僕にどうしろというんだ。
と、そんなふうに思い悩んでいる振りをしていると、携帯電話から着信音が鳴り響く。
「……誰だよ、こんな時間に」
僕はのっそりと立ち上がり、机の上に投げ置かれた携帯を取った。
発信者は花園さんのようだ。まぁあの人以外に僕に連絡を寄越す人がいるとは思わないけど。
数瞬の躊躇いが生じる。どうせまた原稿の催促だろう。
今ここで出るのと、仮に出なかった時のことを考える。
もしもこの着信を無視したなら、次はきっと我が家に乗り込んでくる。そいしてまたずっと見張り続け、トイレ等以外で席を離れることを禁じてくるだろう。
それだけならまだいい。問題はそのあとだ。
締め切りは目の前。なら、あの人までもこの家に寝泊まりすると言いかねない。
自分にも他人にも厳しい人だ。その程度のことは簡単にやる。
「……はい、もしもし」
『遅いわよ、なにしてたの?』
ピンと張りつめたような声が僕の鼓膜を揺らす。
「たんにトイレに行ってただけですよ。それよりなんの用ですか?」
『なんの用かなんて、あんたの方がわかってるでしょう?』
まぁね。ただそれを僕の口から言うのは抵抗があっただけだ。
僕の心情を察した訳でもないだろうが、花園さんは話題を変えてきた。
『あの子、どうしてる?』
「どうしてるって……」
あの子、とは十中八九鏡谷さんのことだろう。
「今お風呂に入ってますよ」
『お風呂……邪魔しちゃったわね』
「なにを言っているのかさっぱりですね。それで、彼女がどうかしたんですか?」
『んー、簡単に調べてみたんだけど、ちょっとおかしなことがあって』
「おかしなこと?」
『これ、たぶん言っちゃだめな奴なんだと思うんだけど』
「じゃあ言わなくていいです。面倒臭そうですし」
『まぁ聞きなさい』
花園さんがこの手のことを強要してくるのは珍しい。
僕は不覚にも少しだけ興味が湧いてしまい、続きを待った。
おそらく、それがいけなかったのだろう。
『警察関係に問い合わせて見たんだけど、あの子の捜索願いが出ていないのよ』
「? どういうことですか、それ?」
『私にもわからないわ。鏡谷さんがあんたの家に居候を始めてそろそろ三週間くらいよね? 二、三日程度ならともかくそんなに長期間、なんの手も打たずにいるなんてまともな親じゃないと思うの』
花園さんの声のトーンが一段階低くなる。
僕は嫌な予感がしてきた。
なにか、とんでもなく面倒な事態を抱え込んでしまっているのではないか、と。
「……それ、本当なんですか?」
『本当よ。もうちょっと詳しく調べてみるつもりだけど、どこまでやれるかわからない。だから、あんたも一応気をつけなさいよって話』
「わかりました」
短く返答して、僕の方から通話を断った。
「どうかしたんですか?」
突然に声をかけられて、びくんと肩が跳ね上がる。
そんな僕の反応に驚いたのか、鏡谷さんの目がまん丸に見開かれていた
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、大丈夫」
風呂上がりの彼女の体は火照っていて、濡れた髪からシャンプーのいい匂いがする。
でも僕はそれとはまったく別の要因で、心臓を高鳴らせていた。
どくんどくん、と。早鐘のように脈動する。それを抑え込むように、胸に手を当てる。
「ほんとに大丈夫ですか?」
「……鏡谷さん」
「はい、なんですか?」
「……なんでもない。上がったんなら僕もお風呂に入ろうかな」
「は、はい……」
鏡谷さんはどこか腑に落ちないと言いたげだったが、僕は取り合わずにそそくさとバスルームへと向かう。
姿を消した娘を探すことのない両親。家に帰りたいという素振りさえ見せない娘。
この親子の間に一体どんな軋轢があったのか、僕にはわからなかった。
ただただ、異様だと。そう思うばかりで。