過去をめぐる歌
第四章 過去をめぐる歌
電車に揺られること数時間。視界に青い海と空、そして水平線の向こうに沈みかける太陽が見えてきた。
次の駅で終電という旨のアナウンスが流れてくる。
鏡谷さんがスッと立ち上がり、僕の方へと手を差し出してきた。
「さあ、立って下さい先生」
「その前に聞かせてほしい。僕をどこへ連れて行こうというの?」
「先生の故郷です」
「なんで君が僕の故郷なんか知ってるんだい?」
「先生が前にあとがきで書いてたじゃないですか」
「はぁ? あんなのまだ駆け出しの頃に書いた奴だし、それにあれはそんなに売れなかったはず。知っている人がいる訳……」
「先生、二週間前にわたしが先生と初めて会った時、なんて言ったか覚えてますか?」
「まさか……」
「はい。わたしは先生の大ファンなんです。だからデビューから今までのだって全部持ってますし、全部読みました。内容もばっちり覚えてます」
「でも……そんなこと」
確かにあの頃はあとがきになにを書いたらいいかわからなくて、少し故郷のことを書いていたかもしれない。でもそれは売れないことが前提で、誰にも知られることがないのが大前提の言ってしまえば単なる思いつきのようなものだった。
それを、どうして……?
「僕、変なこと書いてないよね?」
「まぁ……故郷はどの辺にある、とか。そんなことしか書かれてませんでした」
だよね。昔から慎重にことを運んで来たんだし、そんなボケをかましたりはしないよね。
「それで、どこへ行こうというの?」
「そーですね。確かあとがきには駅から大体三十分くらい歩いたところに先生の実家があると書いてましたね。どっちです?」
「教えないよ。それより帰ろう。今さら家族になんて顔合わせらんないし」
「なんでですか? 家族でしょう?」
「家族だからだよ。……色々あるんだって言っただろう?」
「でも帰るにしたってあと二時間は電車来ませんよ?」
「このど田舎め」
じゃああと二時間、この駅でじっとしていないとだめなのか。
「このあたりをうろつく気にはなれないし、仕方ないな」
「わたしの勘が告げていますっ! たぶんこっちですっ!」
「あっ、ちょっと……!」
僕が何か言うより先に、鏡谷さんが脱兎のごとく駆けだした。ので、仕方な
くあとを追いかける。
「待ってって」
「捕まえてみて下さーい」
「なんだそれっ! 遊んでんじゃないんだけどっ!」
なんであの子はあんなにはしゃいでるんだ? 僕の実家なんかに行ってもろくなことないのに。
それに、僕のこと知りたいって言ってた。あれはどういう意味なんだろう?
「とにかく、まずは鏡谷さんを捕まえないと」
僕は彼女を捕らえるべく、両足に力を込めて全速力で走る。
が、さすがに現役女子高生を相手に鬼ごっこで勝てるほど、僕は日々自分の体を苛めたりしていない。
あっという間に息が上がり、足がうまく動かせなくなる。
「ぜえ……ぜえ……待ってよ」
「ちょっと先生、いくらなんでも早過ぎませんか? もうちょっと楽しみましょうよ」
「だって僕、こんなに動いたの久しぶりで……」
「こんなにって、まだ駅からせいぜい五メートルくらいですよ?」
鏡谷さんは僕の後ろ、今し方走って来た駅の方を見て困ったような顔をつくる。
おそらく、頼りないとか思ってるんだろうなぁ。
僕は自分の不甲斐なさを改めて感じて、若干ばかり落ち込むのだった。
体鍛えよう。なんて密かに決意してみたりして。
「それにしても鏡谷さん、すごく早いね」
「そんなことないと思いますけど。わたし、クラスじゃ下から数えた方が早いですし」
「嘘……だろ?」
これで下から数えた方が早いってどういうこと? 最近の高校生は大多数がこれ以上だっていうのだろうか……?
「と、とにかく少し休もう。もう限界だよ」
「まったく、しょうがないですね。どこかに休めそうなところはっと……あっ、あれなんてどうですか?」
言って、鏡谷さんが指差したのは『食事処 寒月』と書かれた幟のあるお店だった。
寒月……聞き覚えのあるどころの話じゃない。かつての同級生の実家が経営している店だ。
「ささ、行きましょー」
「いや、僕は……」
遠慮します、と言うより先に、鏡谷さんは僕の手を引っ張って半ば強引に『食事処 寒月』の暖簾をくぐる。
「おじゃましまーす」
「へい、いらっしゃいませー……あ?」
店の奥で作業をしていたらしき男が振り返る。と同時に怪訝そうな顔つきになった。
「……えーと、二名さまですか?」
「はい」
「カウンター席でよろしいですか?」
「大丈夫です」
「ではこちらへどうぞ」
男は僕らを自分のまん前への席へと進めてくる。
鏡谷さんは進められるまま、その席へと腰かけた。手を繋いだままだったので、僕も椅子の近くまでは行ったが、俯いたまま座ることは出来ずにいた。
「どうしたんですか? 座らないんです?」
「ああっと……いや」
「あのさ」
男に呼ばれてびくっと肩が跳ねあがる。が、そんな僕の反応など意にも介さないといった様子で彼はまじまじと僕を見てくるのだった。
「おまえ……もしかして石尾?」
「えっと……人違いじゃない?」
「いーや、絶対に石尾だろ。石尾琢磨」
「え? え?」
鏡谷さんは「知り合いですか?」とでも問いたげに僕と彼の間で視線を彷徨わせている。
僅かに、頬を汗が伝うのがわかった。
「俺は寒月典史、同じ高校の同期なんだ」
「へー、そうなんですか」
「で、君は? 石尾の彼女さん?」
「いえ……ちょっと違くて。なんて言ったらいいか分からないんですけど」
うーむと鏡谷さんは考え込んでしまった。
いや、それより早く出ようよ。
「しっかしおまえも隅におけないよな。こんなかわいい子と一緒にごはんなんて」
「そんなことないと思うけど」
「そんなことあるって。……高校時代にあんなことしといてなぁ」
寒月くんの声色がフレンドリーなそれから怨嗟の籠ったそれへと変わる。
僕はまともに彼の顔を見れずに、突っ立ったままだった。
「まぁ座れよ。過去にどんな失態をしでかした奴でも客は客だ。なに喰うんだ?」
「え、えと……じゃあこれで」
「わたしも同じのを」
「承りました。少々お待ち下さい」
そう言うと、寒月くんは厨房の方へと姿を消した。
それから料理を食べ終えるまで、僕は全然生きた心地がしなかった。
◆
『食事処 寒月』をあとにして、僕と鏡谷さんはぶらぶらとその辺を歩いていた。
「さてと、ここからどうしようか?」
食事を終えてからというもの、僕らの間に流れる空気は重苦しい。まるでどんよりと曇っていて、これではまるで僕が嫌がる彼女を無理矢理引っ張り回しているようだった。
僕ははぁとため息をつくと、立ち止まって鏡谷さんを振り返った。
鏡谷さんは多少驚いた様子だったが、何も言わずに黙って僕を見上げてくる。
「さっきのこと気にしてる?」
「それは……はい」
「そうなんだ。まぁそうだろうね」
「あの……先生とあの人はお友達じゃあないんですか?」
「……高校時代は割と仲がよかった方だと思うよ。でも今は違う。連絡の一つもとってない」
「どうしてですか?」
「答えたくないな」
きっと鏡谷さんは興味本意とかじゃなく、本気で僕のことを心配してくれているんだろう。それほど長く一緒にいる訳じゃあないけど、そのくらいのことはわかる。
だってこの子は、昔の僕と同じくらいに純粋だから。
「君だって家出の理由、まだ教えてくれてないだろ? 僕は他人の秘密にずけずけと入り込む趣味はないよ」
しかし、たとえどんな子だったとしても、秘密はある。家族や友達にだって知られたくないことの一つや二つは存在するものだ。そこを突いてやれば、多少は大人しくなるだろう。
我ながら、ずいぶんとこすいやり方だと思うけど。
「それとも教えてくれるかい? 君がどうして家出なんて考えたのかを。ただ両親とけんかした、なんて理由で見ず知らずの男の家に二週間も泊まったりしないよね?」
「それは……」
「言いたくないんだろう? なら、言わなくていい。そのかわり、僕のことも詮索しないでほしいんだ」
僕が鏡谷さんに望むのは、それだけだ。
そうとだけしといてくれれば、僕は十分だ。
「行こう。もう日が暮れるよ」
「えっと……どこへ行くんですか?」
「帰るんだよ。きっとあの子も君を待ってる」
鏡谷さんの友達……加賀さんと言っただろうか。彼女を含めた三人でハンバーグを食べに行くという約束だ。
その約束を果たすためには、一旦あの学校へと舞い戻る必要がある。
僕はようやくこの地を離れられることにホッとして、浅く吐息した。
のもつかの間。
「嫌です」
「は?」
駅の方へと向きかけていた足が止まる。
今、鏡谷さんはなんと言った?
「なんだって?」
「嫌だと言ったんです。わたしはまだ帰りたくない」
「なにを言っているんだい? 加賀さんと約束しただろ」
「湯女との約束なら電話で断っておきます。だから大丈夫です」
「なにが大丈夫なんだ」
最近の子供はなにを考えているのかわからない。唐突に帰りたくないと言われても、このあたりにはホテルの類いはない。そんなしゃれたものがあるような場所ではないのだ。
要するに田舎で、なにもないところなのだ。
「野宿でもするつもり?」
「どうして実家に帰るという選択肢がないんですか?」
「帰りたくないんだよ。察してよ」
「無理です。わたし、そんなに察しよくないんで」
だろうね。これまでの言動を見る限りそう思う。
「じゃあどうするつもり? 今日泊まる場所もないのに」
「先生が実家に帰るという選択肢を持たない以上、別の選択肢を先生に提示するしかないじゃないですか」
「別の選択肢?」
「わたしが先生の家にお邪魔するという」
「……ばかばかしい」
鏡谷さんの言っていることはこうだ。
僕が実家に帰りたくないのなら、自分だけでも僕の実家に泊めてくれ、と。
なんだそれは。
「鏡谷さん、自分がなにを言ってるかわかってる?」
「わかってるつもりですよ」
「いーやわかってないよ、全然ね。いいから帰ろう。本当に日が暮れる」
「嫌です」
どうしてそんなに頑なに、僕をこの田舎にとどめようとするのか、僕にはわからなかった。
なぜ? そう訊ねようとして、僕は思わず息を呑んだ。
「……どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?」
「先生がずっと、苦しそうな表情をしているからですよ」
「苦しそう……そうなんだ。やっぱりそんな顔してたんだ、僕」
「やっぱりって……」
こればかりは仕方がない。
僕の過去を鏡谷さんがなんとかしてくれる、なんて僕には到底思えないし、事実彼女にはどうしようもないことだ。
あの苦しかった高校時代を思い出して、それでもなおへらへら出来る人間がいたらなら、きっと見習うんだろうけど。
「いいんだよ、もう」
「でも……」
「全部終わったことだから。昔のことだから、もういいんだ」
後悔したってもう遅い。懺悔なんて意味がない。
僕はこの手で誰かを悲しませた、その事実が消える訳じゃあないんだから。
「じゃあもう行こう。加賀さんが待ってる」
「……もう、先生のばかっ!」
「なっ……!」
唐突に声を荒げる鏡谷さんに、僕は思わず眉根を寄せた。
なんだ、突然?
「わたしには先生の過去になにがあったのか知りません。でも、でも……わたしは先生にそんな顔してほしくない! 故郷に帰って来て、そんな苦しそうな顔……」
「……世の中には、願ってもどうにもならないことがあるんだ。だから、諦めることも大切だよ? その方が楽だってことはたくさんある」
「わかりません、わたしにはわかりませんよ……」
「今はわからないかもしれないけど、その内わかると思う。だってそれが大人になるってことだから。たくさんの後悔をして、その無意味さを知って、諦めて現実と折り合いをつけて生きていく」
「……そうなんですね」
鏡谷さんの握り締めた手から力が抜ける。
僕は彼女から視線を外し、踵を返した。
自然と実家の方へ向いていた爪先を駅へと向け直し、歩き出す。
が、背後から鏡谷さんのついて来る気配はない。
「鏡谷さん?」
振り返ると、さっきと同じ場所で彼女は立ち尽くしていた。
小走りに近寄り、身を低くして顔を覗き込む。
「……どうして泣いているの?」
「ぐす……先生が泣かないから。……ひっく、先生がそんな悲しそうな顔してるから」
「仕方のないことなんだよ。受け入れるしかない」
ここは僕の故郷であると同時に、僕を虫食む場所でしかない。
そのことを受け入れなければ、しょうがないことだと諦めなければ。
きっと僕は、今こうして鏡谷さんと一緒にはいないだろう。
「ありがとう、僕のことをそんなに心配してくれて。でも僕は大丈夫。大人だからね」
「…………」
鏡谷さんは答えない。
ただ泣くばかりで、僕の言葉に返すだけの余裕がないのだろう。
僕はポケットからハンカチを取り出して、彼女の涙を拭おうとした。
しかし、その手が止まる。
「……はい、鏡谷さん」
「ぐず……ありがとうございます」
鏡谷さんはハンカチを受け取ると、頬を伝う涙を拭い、ついでちーんと鼻を噛んだ。
そしてそのままハンカチを返してくるものだから、僕は一瞬受け取るのを躊躇して、でも結局は受け取ってしまう。
「帰ろうか」
「……はい」
彼女としては、今だ納得はいっていないらしくどこか拗ねたような口調だったが、今度は割と素直に僕のあとをついてくるのだった。
諦めたのかもしれない。一歩、大人に近づくために。
かくして、鏡谷さんの望んだ僕の過去をめぐる小旅行は、僕と彼女との間にちょっといした不和を膿み出しつつ、終わりを迎えたのだった。