再会
孤独な小説家と悲しみを抱えた少女。二人が出会うとき、物語りは始まる――とか言ってみたりして。
第一章 再会
ボーッと空を見上げていた。何もやる気になれなくて、自宅マンションの窓から流れいく雲を眺める。時々食べ物の形をした雲が流れていくから面白い。
社会人二年目の春がやってきた。だからといって特別なことは何もなく、胸躍るような出来事もありはしない。
二一歳の春は、こうして過ぎていくんだなぁと何となく感傷に浸る。と、固定電話から着信を告げるあの音が鳴り響いてきた。
けたたましく鳴り続けるその音を、僕は半ば聞き流すようにして無視していた。どうせその内諦めるだろう。その確信があったからだ。
予想通り、電話が鳴り止んだ。が、今度はインターホンがけたたましく鳴り響く。
頭の中でガンガンと反響しそうになるその音を聞いて、僕はようやく観念という概念を引っ張り出す。
生まれたての小鹿の方が幾分しっかり歩きそうな足取りで玄関へ向かう。扉を開けると、見知った顔がでん! と僕の目の前に現れる。
「……おはようございます、花園さん」
「おはようじゃないわよ、今何時だと思ってんの?」
「一〇時半……くらいですか?」
「二時半よ!」
花園さんは僕を叱責するように怒鳴り声を上げる。が、僕としては慣れたもので、別段気に留めるほどのことでもない。
花園さん、花園遊里さん。僕の担当編集で、他人にも自分にもすごく厳しい人だ。黒縁眼鏡が超クール。ちなみに僕は学校や会社には通っていない。職業は小説家だ。
「近所迷惑なのでもう少し静かに」
気に留めるほどではないが、一応ご近所さんとのトラブルは避けたい。
「誰のせいよ……! こほん、まぁいいわ」
花園さんは咳払いを一つすると、びっと右腕を差し出してきた。
何かおくれと言わんばかりだ。
「……何ですか、この手」
「原稿、出来たでしょ?」
「……いえ、まだです」
「はぁぁ! 何言ってんのよもう締め切りまで時間ないのよわかってんの!」
「わかってますよ。だからまぁ……それまでには間に合わせます」
「本当でしょうね……ちなみに今はどれくらい進んでるの?」
「……タイトルくらいは」
「全然だめじゃないのよ!」
もはや発狂寸前だった。
花園さんはこめかみに青筋を浮かべて、僕を睨みつける。そんな顔をされたところで、原稿が進むはずもない。要するに無駄なことだ。
「どうしてあなたはそんなにいつもいつも!」
「いいじゃないですか。前に書いた奴まだ売れてるんでしょう?」
「よくないわよ、売れてる内に続刊も書かないといけないの!」
がみがみがみがみ、といつものお説教が始まる。これもすっかり慣れているので、単に花園さんの体力が削れていくだけだ。
やれ締め切りは守れだの生活態度はどうだの、担当編集としての領分を逸脱した部分までとやかく言われ始めた。果ては朝は何時に起きろだとか、そんなことまでだ。
もう、あんたは僕のお母さんかよと言いたくなるレベルだ。
「ちょっと聞いてるの!」
「はいはい、聞いてますよー」
「絶対に聞いてないでしょあんた! こっち見なさいよ!」
びしぃっと花園さんの人差し指が僕の鼻頭に突きつけられた。
「今は鬼才だとか言われていい気になってるんでしょうけれど、その内淘汰されるわよ。あんたが思ってるほどこの世界は甘くないの、わかった?」
「別にいい気になんてなってませんよ」
僕はスッと立ち上がり、彼女の脇を通って玄関へと向かった。
「どこ行くのよ?」
「眠気覚ましにその辺のコンビニまで。すぐ戻りますよ」
「帰って来るまでここにいるから」
「ご自由に」
男の家に女の人が一人でいるのはいかがなものだろう。これが四〇過ぎのオバサンというのならまだしも、花園さんはまだ二一三歳。社会人一年目の新人編集者だ。
変な噂が立たないといいけれど。なんて柄にもなく心配してみたが、普段からの僕と花園さんのやりとりなんてこのあたりの人には日常茶飯事だろう。妙な心配はするだけ無駄か。
僕はエレベーターの側まで行くと、一階のボタンを押した。さすがに平日だけあって使っている人は少ない。扉はすぐに開いた。
乗っている人はいなくて、これなら変に気を遣う必要もないなとホッとする。
実のところ、ご近所づきあいは苦手な部類だ。どちらかといえばうまくやれている方だと思うが、僕の性格上あってないのは確かだろう。
一階警備室まで誰とも会わず、管理人のお婆ちゃんとだけ挨拶をしてマンションを出る。
気持ちのいいくらいの快晴だった。こんな日は家でごろごろしつつ昼寝でもしたいものだ。
ポカポカとした春の陽気に、歩きながらでも眠れそうな、そんな気がする。
うちのマンションからコンビニまでは歩いて一五分といったところだ。途中に本屋があるので実際にたどり着くまで倍の時間はかかるけれど。
そして今日もいつも通り手前の本屋に立ち寄る。文芸コーナーでは著名な作家から無名なとこまで、たくさんの小説がずらりと並んでいた。が、僕は小説を買いに来た訳でも自分の本がどの程度売れているのかを見に来た訳でもない
文芸コーナーを素通りして、漫画の棚へと向かう。
今日はいくつか新刊が出るはず……お、あった。
さて、ここでどうしようかいつも迷う。
花園さんにはコンビニへ行って来ると言って出てきている。のに明らかに本屋袋を提げて帰った場合、きっと花園さんは凄く怒るだろうなぁ。
……今日のところは止めとくか。
僕は手にとっていた漫画を棚へ戻し、本屋を出た。
ここからおおよそ一〇分の場所に目的のコンビニはある。
その手前五分の位置に、その桟橋はあった。
桟橋の中ほどで、立ち止まる。
おおよそ三ヶ月前。僕はここでとある人物を見た。まだ真新しい制服が汚れるのも構わず、必死に何かを探すその人は、一体誰だったのだろう?
制服からおよそどこの学校の生徒なのかの見当はついている。が、わざわざ訪ねに行くことはしない。そんなことをすればただの変態だ。
あの辺に何かあったのだろうか?
僕は桟橋から降りて、この前その人がいたあたりへと向かう。
さほど手入れのされていない河原は草が伸び放題で、あの日も冬場だというのに結構生えていた気がする。
しゃがみ込み、周囲に視線を走らせる。特別何かがあるようには見えなかった。もう改修してしまったのか、それともこの三ヶ月でどこかへ行ってしまったのか。
どちらにせよ、僕が見つけられる確率は限りなくゼロに近い。早々に諦めて、コンビニでコーヒーでも買おう。
そう思い、立ち上がる。と、目の端に眩しさを感じて思わずそちらへ顔を向ける。
「……なんだ?」
太陽の光を反射させ、キラキラと輝くその物体に歩み寄り、手にとってためつすがめつ観察する。
どうやらキーホルダーのようだ。安物ではあるが、同時に年代物でもある。ところどころに着いた傷や汚れがとても大切に扱われて来たのであろうことを窺わせる。
半透明なその物体は、チェーンの途中から千切れていた。老朽化が原因だろうと思われる。
「あの子が探していたのはこれかな……?」
もしくはただのごみかもしれない、なんて思いながら、僕はそのキーホルダーをポケットにしまった。
もしこれが恋愛小説なら、僕はこのキーホルダーをあの子に返すことになるだろう。そしてそこから恋が始まるのだ。
「はは、なんてね」
僕は頭の中に浮かんできたそのシーンに笑ってしまっていた。
もしこれが恋愛小説なら、きっとそんな展開もありえただろう。しかし現実はそうはいかない。それはこの一年半の間に嫌というほど味わってきた。
仮にこれがあの子のものだったとしても、返してしまえばそこで終わりだ。何の発展もしないだろう。
僕は河原から出て、桟橋を通り過ぎてコンビニへと爪先を向ける。
早く帰らないと、花園さんに叱られてしまう。
僕は自然、歩調を速めていた。
◆◆
「花園さんはブラックでよかったですよね?」
「ええ、ありがとう」
「そういえば僕、お昼がまだなんですよ。花園さんは食べました?」
「いいえ、そういえば食べてないわ」
「なら近くに新しくラーメン屋が出来たらしいんで行ってみないですか?」
「……さっきコンビニ行った時に何か食べ物買って来なさいよ。そうやって誤魔化してたって時間のロスにしかならないのよ?」
「わかってますよ。でも空腹じゃあ頭が働かないじゃないですか」
「はぁ……わかったわ。つきあうから」
「じゃあ行きましょう」
僕は一旦部屋に上がると、鍵を持ってまた靴を履いた。
花園さんが出て来るのを待って、鍵を閉める。
「ところで花園さん」
「何かしら?」
「そろそろ桜の季節ですね」
「そうね。お花見シーズンの到来といったところかしら」
「今度一緒にお花見しませんか?」
「しないわよ、そんなことより原稿」
「……ま、花園さんならそう言うと思ってましたよ」
これは予想の範疇だ。この程度のやりとりなら、今まで数万回と繰り返してきた。
その度に花園さんは今みたいに簡単に僕のことをいなしてくる。
花園さんは厳しい人だ。他人にも自分にも。
以前に僕は彼女に対して質問したことがある。どうして編集になったのか、と。すると彼女はこう答えた。
――この道が誰にとっても幸せになれる道と信じたからよ。
その言葉の意味を、僕は何となくわかったようでわかっていない。表面上の理解は出来ても、その実質を理解出来ているとは言い難いのだ。
「ちゃんと帰ったら原稿書くのよ?」
「わかってますよ……と」
話ながら歩いていると、いつの間にか例の桟橋まで辿り着く。
そこで僕はどうしても一旦足を止めてしまう。花園さんもこの一年半のつきあいの中で、そのことは重々承知のはずだ。
つい先刻も見た、水平線の彼方。何も変わらないその姿に、僕は思わず安堵していた。
「……仮に世界が終ろうと、僕は君を愛す」
「却下。台詞が臭すぎるわ。あなたの作風じゃあない」
「ですよね。まぁただの思いつきですし」
この灰色の世界で、僕はまた一つ、言葉を無駄に黒く染めてしまった。
意味のない行為だと知りつつも、今だにこの習慣が拭えずにいる。
「さて、行きましょうか」
僕は花園さんを促して、先へと進む。
お腹が空いた。
◆◆
「美味しかったですね、ラーメン」
「そうね。……私はもう少しこってりした方が好みなんだけれど、あれはあれでよかったわ」
「じゃあ今度美味しいラーメン店でも調べておきますよ」
「それもいいけれど、ちゃんと仕事もしてよ? 今が大事な時期なんだから」
「わかってますって」
本当かしら……、と花園さんは心配そうだ。
この人の心配もわかる。何せ僕は作家になって向こう、締め切りというのを守ったことがない。
より正確に言うなら、編集部が提示する締め切りの期間内に作品を上げたことが一度としてないのだ。それは社会人としてどうだろうという話になってしまうのだが、如何せん僕という作家がそうなのだからこれはどうしようもない。
「ただ、個性をないがしろにして得られる物はいかほどのものかと」
「締め切り守らないのは個性じゃないわよ」
びしり、と一刀両断。花園さんの心ない言葉に、僕の精神は最早グロッキー状態だ。
およよ、と泣く振りをしていると、花園さんが例の本屋の前で立ち止まった。
「ン? どうしたんですか?」
「いえ……珍しいわね、今日は寄ってかないの?」
「あーと、今日はいいです。まだ読み終わってないのもあるんで」
「あ、そう?」
「そういえば今度、バトル物に挑戦しようかと思ってるんですけどどうですか?」
「だめよ。前に書かせた時、凄い失敗したじゃない。あなたには恋愛物があってるのよ」
やれやれ、というように花園さんは肩を竦め、首を振る。
うーん……あれはあれで自信があったんだけどなぁ。
「そういえば石尾くん、あなたの書く作品はどれもこれも非恋ばかりだけれど、どうしてなの? まぁ私としては人気が出てるから問題ないんだけれど。過去に辛い恋の経験とかあるの?」
「何ですか藪から棒に。……そうですね、昔ちょっと」
昔のことは、あまり思い出したくない。特に中学一年から三年になるまでの一年間は、僕にとっての暗黒時代だ。
今ならわかる。あの時の僕はまだほんの子供だったんだと。
中学時代を思い出して、すっかり意気消沈してしまった僕を気づかってか、花園さんが慌ててフォローしてくる。
「ご、ごめんね? 別に無理に聞き出そうなんて思ってないのよ? ただちょっと気になっただけだから」
「いえ……単に想像出来ないだけです。上手くいく恋愛って奴が」
「……ごめんなさい」
「別に花園さんが謝るようなことじゃあないですよ。単純に僕が大人に成れてないだけです」
もし仮に昔の傷を忘れることが出来るのが大人なのだとしたら、僕は一生大人にはなれないのかもしれない。
「そ、そういえばあなたの部屋できらきらしたキーホルダーを見つけたんだけれど、あれって石尾くんの?」
「ああ、違いますよ。あれはこの間桟橋の河原で拾って」
「拾った物を持って帰っちゃったの! それって大丈夫?」
「大丈夫ですよ。持ち主のアテはあるんで、今度会った時に返しそうと思ってますから」
「そう……ならいいのかしら? こういう時って警察に届けるでしょ、普通」
「でも映画とかなら、こういうのをきっかけ恋が始まったりするでしょ?」
「本気で言ってる?」
「まさか」
今度は僕が冗談めかして肩を竦めてみせる。
花園さんのジトッとした粘着質な視線を受けて、僕はいたたまれなくなってスッと彼女の横を通り過ぎる。
「さっさと帰りましょう。少し寒くなってきました」
「まったく……私、編集部に戻るわ。編集長に報告しないとだから」
「わかりました。ではここで」
「ちゃんと仕事するのよ?」
「わかってますよー」
さっきの会話の流れから、大人って何だろうと考えてしまう。
昔の傷を忘れられるのが、なんてふうに考えてみたものの、もしもそれが大人なのだとしたらそれはすごく悲しいことだ。
時間が過ぎればすべては過去になり、その過程で負った傷を忘れてしまえば他人の痛みを理解することは出来ない。それはとても悲しいことのような気がするなぁ。
「……ま、僕には関係ないんだけど」
大人だ大人じゃないと言ったところで僕自身が急成長を出来る訳じゃあない。なら、今あーだこーだ考えたって無駄なことだ。
自宅マンションまで戻って来た。玄関前で管理人のお婆ちゃんが吐き掃除をしていたので軽く挨拶をしておく。
鍵を開け、自室へ戻る。と、あたり前だが僕の部屋はがらんどうだった。
最初こそ寂しいと感じることもあったが、もうすっかり慣れたものだ。この光景をあたり前のものとして受け入れることが出来るようになったのだから。
片づいている、というよりは何も物がない部屋に足を踏み入れる。あるものといえばパソコンと冷蔵庫、あとは小さな本棚くらいなものだ。テレビはなく、その日のニュースは基本的にネットだよりになる。このマンションはネット環境も整っているので、そのあたりは問題ない。
「まぁやることもないし」
僕はパソコンは起動させ、つい先日まで書き進めていた新作のデータを呼び起こす。
内容はいつもの通り、恋愛物だ。主人公とヒロインが出会い、恋に落ちていくというスタンダードなもの。
現段階ではこれも、非恋になる予定だ。一旦は二人の思いが通じあい、愛し合うのだが、外的要因が重なり二人の意志とは関係なく引き剥がされてしまう。そんな話にするつもりである。
「……やっぱり気が乗らないな」
数行書き進めて、キーボードの上から指を退かす。
椅子から立ち上がり、ベッドへと倒れ込んだ。
花園さんには仕事しろと言われたが、しかしそんな気分になれないのだから仕方がない。
目を閉じて、少し眠ろうと思った。どうせ明日も一日ごろごろしているか散歩しているかのどちらかなのだ。多少夜更かししたところで問題ない。
こういうところが、在宅ワークの強みと言えるだろう。
「……お休みなさい」
誰にともなく呟いて、僕はずぶずぶとはまり込んでいくような感覚に身を任せた。
◆◆
ふと目を覚ますと、外はすっかり暗くなっていた。
時刻を確認する。と、深夜の二時を回っていた。軽く仮眠を取るつもりだったが、どうやらがっつり眠ってしまっていたようだ。
ゆっくりと上体を起こす。と、目眩に似た感覚が僕を襲い、くらくらとした。
「……とりあえず水でも飲むか」
僕はベッドから立ち上がり、台所へと向かう。
冷蔵庫にミネラルウォーターがあったはずだ。そう思い、冷蔵庫を開ける。
と、中身は空っぽだった。それを見て、今週はまだ買い物に行っていないことを思い出す。
時間帯を考えると、今夜はこのまま眠ってしまった方がいいだろう。今から外に出たところで、近所のコンビニまで一五分歩かなくてはならない。
昼間ならともかく夜間にそんな重労働は出来ない。ミネラルウォーター一つにさほどこだわりはないから、ここは水道水で我慢しよう。
そう決めると、僕は冷蔵庫を閉じてコップを手に蛇口を捻った。
ジャーッと若干白く濁った水が半透明のコップに並々注がれる。その様を目の当たりにして、僕は多少の気持ち悪さを覚えた。
「…………」
飲むのを止めようかと迷って、一気に煽る。
ぷはぁと吐息して、コップを置く。と、ぐーっと腹の音が鳴ってしまった。
「お腹空いたな……」
下手に胃袋に刺激を与えたからだろうか。何だか急激に空腹になってしまった。
まぁ寝てしまえば関係ない。
僕はさっさとベッドまで戻り、頭から布団を被って目を閉じた。
眠気はある。きっとこのままジッとしていれば、その内眠れるはずだ。
半ば言い聞かせるようにそう思い込んで耐えていた。
……のだが、それも三〇分が限界だった。
「ああ、もう!」
耐えられない、耐えられる訳がない!
僕は再度起き出して、簡単な身支度を整えると家を出た。
マンションのセキュリティは二四時間稼働している。そのため、当然警備員も常駐しているのだが、僕はこのマンションの住民だから簡単に生き返りが出来る。
僕は警備員のおじさんに軽く挨拶をして、外へ出る。
春の夕方はちょっと冷えるなぁ程度だったけど、夜になると気温は一気に下がってめちゃくちゃ肌寒い。厚着して来てよかったと素直に思う。
「うう寒ぅ……」
ちゃっちゃと行って帰って来よう。
シャッターの閉まった本屋を通り過ぎ、例の桟橋を渡る。
いつものように、桟橋の上でふと足を止めた。実を言うと、こんなに遅く外に出るのは初めてだ。ついでに、桟橋の上からの夜景も始めて見る。
「はぁ……綺麗だなぁ」
水面に移り、ゆらゆらと揺れる月を眺めて、僕は素直にそう思った。
冬場と違い、吐く息はもう白くはならないが、こうしていると何だか気温とは別の意味で寒く感じる。
暗がりのせいだろうか? それとも人の気配がしないせい?
まぁどちらにせよ、無駄な感傷だ。
僕はその夜景をしかと目に焼きつけて、コンビニへと向かうのだった。
◆◆
夜中のコンビニは、何となく寂しい印象を受ける。
世界のすべてが静止してしまった暗闇の中に、ぽつんと佇むその姿が、否応なく哀愁を誘うのだ。
「らっしゃっせー」
やる気の欠片もない店員の声が耳に届く。
僕はぐるりと周囲を見回した。
ここまでの道のりは暗く、明かりと呼べる物はほとんどなかったけど、ここは違うな。まるでこの空間だけが世界から切り離されているみたいだ。
「……なんてね」
僕は一人ごちて、店内を歩き回る。
空腹に耐えかねてコンビニまで来たのだから、さっさと食べ物を買って帰ればいいのに。何の用事もなくとも、こうして店内を見回ってしまう。
これは僕の悲しき性とでも言うべき習性だろう。昔から、無駄なことをするのが好きなのだ。
一しきり見て回って、店員から変な奴を見る目で見られて、僕は週刊誌のコーナーで立ち止まった。
手に取ってパラパラとめくってみる。
「もう今週号出てたんだ」
確か毎週水曜発売。で、今日は木曜日とはいえ、深夜。
発売されていることに多少の違和感を覚えつつも、僕はお気に入りの作品のページまで飛ぶ。
今週話だけ読んで、その漫画雑誌を棚に直した。今日は立ち読みしに来た訳じゃあない。
いつもこうだ。こうして脱線ばかりする。だから今だに花園さんに怒られてしまう。
踵を返し、食べ物のコーナーへと移動する。
サンドイッチにおにぎりに弁当にパンに惣菜に……ほんと、今のコンビニって何でも揃ってるな。
下手を打てば、日用品くらい揃いそうなものだ。まぁ一五分かけて買いに来るかは微妙だけど。
てきとーにおにぎりと緑茶を買ってコンビニを出る。
中は適度に暖房が利いていたが、外に出ると背筋を氷のようなものが伝うような感覚がある。
ぶるっと身震いして、上着の襟に口元を埋めて歩き出す。
またあの道のりを歩かなきゃと思うと嫌気が差すが、仕方がない。何か楽しいことでも考えて気を紛らわそう。
そう思って、僕は頭の中で考える。自分主人公のハーレム物を。
しばらくそうして歩いていると、あっという間に例の桟橋まで戻って来ていた。
橋の袂で僕はふと立ち止まった。
正確には、立ち止まってしまった、と言った方がいいだろうか。
「……誰だ? こんな夜中に」
自分のことを棚上げにしているような気がしないでもなかったけど、そこはまぁ置いておいて。
その人は橋の中腹あたりで縁に肘を乗せ、どうやら水面に映る月を眺めているようだった。
ちょうど、マンションを出た直後の僕のように。
長い黒髪、スラッとした肢体。月明かりに照らされた横顔はすごく綺麗で、でもどこかあどけなさを残している。
はてさて、一体どうしたものだろう。
僕は半ば無意識に、今後の展開を考えていた。
もし声をかけたなら、きっと彼女はこう思うだろう。
ナンパ気持ち悪い――と。
ここはスルーが吉だな。そう結論すると、僕は彼女の後ろを通り過ぎようとしていた。
の、だけど……、
「もう、死んじゃおうかな」
ギョッとして思わず振り返ってしまっていた。
すると、僕の挙動に驚いたのかその人も僕を振り返る。
「え……ああ、いや違いますよ、本気で思ってる訳じゃあなくて、ほんの思いつきというか」
「ならよかった……」
そこで一旦、会話はぶつ切りになる。
言っても初対面だし、会話が続かないのは仕方がない。
仕方がない……のだけど。
「あの……どうしたんですか?」
「あっと……いや」
どうにもこの現場から離れずらくなってしまった。
死にたいと言った彼女。それはほんの思いつきだと一蹴した彼女。
果たしてどこまでが本当でどこまでが嘘なのか。僕には皆目見当もつかない。
だから、考えてしまう。もし仮に今、彼女の言葉を信じたとして。この場を離れたとして。
その瞬間に、彼女がこの世を去ってしまったら、と。
その場合、全部ではなくとも責任の一端くらいなら僕にもあるのだろう。
ちゃんと止めなかったから、彼女が死んだんだ、なんて言われたら嫌だ。
何より、僕が行った直後に死なれた、なんてことになったら夢見が悪い。僕の今後に大きく影響してしまう、大切な場面だ。
快適な睡眠は大事だから。
「もう遅いし帰った方がいいんじゃ」
「……わたし、家を飛び出して来ちゃったんです。それも割と衝動的に」
「それは……どういう?」
「親とけんかしちゃって。だからお金もないんです」
「…………」
やべぇ……これは非常にまずい。
僕の中の全細胞が警報を鳴らしている。
これはだめだ、と。面倒なことになると。
「だから、帰るところがなくって」
そう言って彼女は笑った。寂しそうに、悲しそうに。
いやいやいやいや、そんな事情を軽々しく言うもんじゃあないよ!
んなこと言って変な人に捕まったらどうするの!
「……そ、そうなんだ」
えと……何? どうしたらいいのこれ?
帰るところがないって言われて、じゃあうち来る? なんて言えないし。かと言ってじゃあ頑張ってと見離してもすごく嫌な奴みたいじゃない?
ど、どうしたらいいんだぁぁ!
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫」
中二病全開で顔に手を当ててよろける僕を心配して、彼女が歩み寄って来る。
……親のけんかって言ってたし、変なことにはならないだろう。
「あのさ……もしよかったらだけどうちに来る?」
「え? いいんですか?」
「ああ、うん」
ここまで関わっておいて、このまま放置するのもなんだし。
なんていう僕側の勝手な都合によるものなので断ってくれても全然構わないんだけど。
「どうだろう?」
「……で、ではお言葉に甘えて」
「…………」
おいおい、いいのかよそんなんで。
僕から誘って置いてなんだけど、知らない男にほいほいついてっちゃうのはどうなんだろう? しかし今更やっぱなし、なんて言えない。
まぁ僕がしっかりしてればいい話だよね。うん。
「じ、じゃあ行こうか」
僕はくるりと爪先をマンションの方へ向け、歩き出す。
ここでついて来なかったら、そのまま置いて帰ろうと思っていた。
が、後ろから規則的な足音が聞こえて来て、僕の最後の願いは儚くも散った。
何だろう、この状況。今僕はすごくまずいことをしているのではないだろうか?
深夜に一人黄昏ているうら若き乙女をかどわかし、自宅へと誘う。もう立派な犯罪のような気がするんだけど。
ちらりと背後を返り見る。と、その人と目があってしまった。
「あ、そうだ。自己紹介がまだでしたね」
「ああ、そうだね」
マンションまでもう目と鼻の先という地点で、彼女はふと立ち止まった。
両手の指先を合わせ、妙に明るい声を出す。
「わたしの名前は鏡谷凜っていいます。鏡の谷に凜と咲くで鏡谷凜」
「えと、僕は岩尾琢磨……じゃなかった。石尾」
「岩尾琢磨! というとあの有名な岩尾先生と同姓同名ですか!」
「いや、同姓同名というより本人だし。あと本名は……」
「……その嘘はわたしでもわかりますよ?」
きょとんとした顔で、至極まじめに返されてしまった。
どうやら、彼女の中の岩尾琢磨と僕は結びつかなかったらしい。
もういいや、面倒臭い。
「じゃあ自己紹介もすんだし、さっさと行こう」
「は、はい……」
緊張している様子だった。
まぁそりゃあそうだろう。いきなり見ず知らずの男の家に上がるのだ。緊張もするだろうし、何をされるのだろうと不安もあるかもしれない。
透明な硝子の扉を通り、警備員さんの前を過ぎる。
若干不審者を見るような目で見られたような気もしたが、気にしない気にしない。
エレベーターで昇り、無言のまま自宅の前まで到着する。
鍵を開け、中に入る。
「さ、入って」
「お邪魔します……」
おずおずといった様子で、鏡谷さんは靴を脱いだ。
リビングの明かりをつける。街灯があったとはいえ、薄暗い中からいきなりこれほどの明るさにさらされたのだ。若干目が眩んだ。
「はぁ……何にもない部屋ですね」
「ちゃんと冷蔵庫とか洗濯機とかはあるよ。テレビはないけど」
ニュースは携帯で調べればいいし、あとは仕事で使う資料やパソコンなんかがちょっとあればいい。色々と物を置くのは好きじゃない。
「ま、その辺に自由に座って」
「は、はい……」
「お腹空いてない? おにぎりでよかったらあるけど」
「いいんですか?」
「いいよ。飢えさせとくのも悪いし。とはいえコンビニのだけど」
「じゃあ……」
鏡谷さんは袋の中から完全にランダムに一個、おにぎりを取り出した。
それ、僕の一番好きなエビマヨ……、
「……見たところ鏡谷さん、まだ成人してないよね?」
「えーと……高二です」
「どうして?」
家出なんか? と言外にな尋ねる。すると、鏡谷さんは困惑したように左右に目を泳がせ始めた。
僕が他人に口外する可能性を危惧しているのだろう。そんな面倒なことは絶対にしない。絶対にだ。
しばらくの逡巡の後、鏡谷さんがゆっくりと口を開いた。
「……だって、お父さんが……」
あー……お父さんか。お父さんとは大体そりが合わないよね。子供は。
「ま、あんまり深入りするつもりはないけど、早めに仲直りした方がいいよ。僕から言えるのはそれだけ」
そうとだけ口にして、僕は鏡谷さんの正面に座り込む。
おにぎりの包装を解いて、口に含む。
むっ……これは梅か。まぁ嫌いじゃないからいいけど。
しばらくそうして二人して無言で食べ進める。と、あっという間におにぎりは全部なくなってしまっていた。……遠慮しないな、この子。
ちょっと食い足りないが、またコンビニまで行くのは面倒だ。もう寝てしまおう。
「じゃあもう寝よう。悪いけど予備の布団とかないから、僕のベッド使ってくれる?」
「いいんですか?」
「いいよ。僕はその辺に転がって寝るから」
宣言して、ごろんと床に寝転がる。電気は……勝手に消すだろう。
そう思って目を閉じると、僕の意識はすぐに暗闇の底へと堕ちて行った。
どうでしたでしょうか? 感想などありましたらもらえるとありがたいです。