序章
世界が真っ暗に見える、なんて陳腐な冒頭で始まる小説は誰も読まない。
それは単に主人公が目を瞑っているからであって、そこに意外性の欠片も存在しないからだ。それが物理的にか精神的にかはさて置いて。どちらにしても世界というものを認識していないという点では同じことだ。
「ああ……寒くなってきたなぁ」
どんよりと曇った空と吐き出した白い吐息を眺めつつ、僕はふと寂寥に囚われてしまっていた。あと数分で年が明ける。そうしたらまた新しい一年が始まってしまう。
新しい一年の幕が開くと、今度は途端にあたりが賑やかになる。賑やかなのは得意じゃないから、出来れば遠慮したいところなのだが、果たしてそうも言っていられないのが現実だ。毎年お年玉をせびりに来る親戚の子供や原稿をせびりに来る担当編集からどうやって逃げようかと頭を悩ませる。悩ませたところで意味がないので、ほんの数秒で止めた。
きっと、どうとでもなるだろう。例年の流れだと逃げ切れないので、今年は早々に諦めてしまった方がいいかもしれない。
僕は桟橋の中ほどで立ち止まる。首を捻り、足下を流れる川を目で追っていく。
水平線まで辿り着き、それから再び灰色の空を見上げる。
この季節、世界は灰に染まる。
激動の一年だったなぁ。しみじみそう思う。
小説家として活動を始めてから約一年半の月日が経過していた。最初こそ全然売れなかったけれど、今ではそこそこの部数を売り上げる人気作家だ。
岩尾琢磨といえば、今や日本じゃ知らない人はいないだろう。なんて言うとかなり大袈裟かもしれない。
「……一五〇万部か」
最初の頃は一〇万部がせいぜいだったのに、えらく出世したものだ。
水平線の彼方から河原へと視線を泳がせる。
こんな寒い日にわざわざ外に出ている奇特な人間なんて僕くらいなものだろうが、それでも一応は周囲全体に気を配っておこうと思った訳だ。
どこにアイデアが転がっているかわからない訳だしね。
「何だあれ?」
と、別に期待していた訳ではなかったが、一人だけ見つけた。
じっと座り込み、何かをしている人影を。
人影はその場から微動だにせず、何か探し物でもしているのだろうか。ずっと顔を下に向けたままだった。
他に見るものもなかったので、しばらくその人の行動を見守ることにした。あわよくば面白いことでもしてくれないものだろうかと期待して。
数分後、唐突に観察対象が立ち上がった。両腕を頭上に掲げ、どうも探し物が見つかったようだ。嬉しそうに跳び跳ねている。
「よかったよかった」
特段面白いものは見れなかったが、あの人にとっての懸念事項が一つなくなったのはよかったと思う。世の中から一つ、不幸が消えたということだからだ。
やっぱりどう転んでも、平和が一番という結論に至るのは仕方がない。あの程度で不幸とか大袈裟かもしれないが。
「さて、帰ろう」
今日はこのまま外にいても得るものはない。というよりこの寒空の下でじっとしていたら、風邪の一つも引いてしまう。それはよくないな。
僕は鉄柵から離れ、踵を返……そうとしてふと足を止める。
理由は……何となくさっきまで探し物をしていたあの人と目があった、ような気がしたからだ。少しの間じっとしていると、その人物がぶんぶんと手を振ってくる。
何だぁ……?
どうやら何か言っているようだが、桟橋の上から河原までは結構な距離がある上にびゅうびゅうと風も吹いている。何を言っているか全然わからなかった。
まぁどうでもいいや。僕はそのままその人から視線を外し、マンションへと帰るべく歩を進める。
最後にちらと河原を見やった時には、人影なんてどこにもなかった。