シンガポールのお食事事情 第5章
第5章は妙が主人公。
彼女にも悩みはあります。
第5章 アイス・カチャン
朝から母が、引っ越し荷物をまとめている。
父が3月末で日本に帰る事になったからだ。
最初、父のシンガポール勤務は妙が中学生である3年間という予定だった。
親の海外赴任についてくる小中学生は、ここでも日本の教育を受ける事が出来る。
しかし、父の任期がもうすぐ終わるという時、思いがけない事が起きた。
父の会社の石油採掘船が、本島とセントサ島をつなぐケーブルカー
(構造はロープーウエイ)に接触したのだ。
2機のキャビンが五十五メートル墜落して海に落ち、7人が死亡した。
結果、父の任期は無期限で伸び、妙は卒業しても日本に帰れなかった。
取りあえずシンガポールの語学学校に進学した。
両親は妙だけを日本に返そうとしたが、妙は一人帰国するのを嫌がった。
母はシンガポールの毎日に失望していった。
あまり英語ができなかったのもあるが、会社の社宅を中心とする狭い
日本人コミュニティーの生活は千葉と変わらない。
いや、もっと窮屈だ。
それでも最初、三年間と思っていたから海外生活を楽しむことも出来た。
しかし、父の仕事は事故処理・訴訟対応・船の処理・ケープルカーの工事・
シンガポール市との交渉と終わりが見えなかった。
社宅での生活も事故に関係するいろいろな思惑が交錯して緊張感が
いつもつきまとうようになった。
母はしだいに体調を崩し、全く動けない日が続くようになった。
家事のほとんどを妙がするようになった。
そして翌年も妙は日本に帰る事が出来なかった。
その頃には、妙がいないと家の中が回らなくなっていたからだ。
父は、妻子を日本に帰そうとしたが、そうしたところで両方が沈没してしまいそうだった。
そんな母が早くから起きて荷物を片づけている。
妙は驚いてその様子を見ていた。
「ママ。大丈夫なの?」
「ええ。今日はとても気分が良いの。大丈夫よ。
妙ちゃんも早く自分の荷物を片付けて。」
妙は自分の部屋で、片膝を抱えて椅子に座っている。
考え事をするときはいつもこの格好だ。
事故以来、ずっと父の帰りが遅かったが、最近になって夕食の時間には帰るようになった。
母の体調がよくなったのも父とゆっくり話が出来るようになったからだと思う。
妙は、今日言う、と決心した。
「おっ お刺身じゃないか。」
父の嬉しそうな声がする。
「妙ちゃん。御飯よ。早くいらっしゃい。」
母の明るい声が呼ぶ。全く以前と変わりない。本当によかった。
でも、せっかく戻ってきた平和を今からぶちこわしに行くのだ。妙は息を吸った。
「パパ、ママ、私日本に帰らない。」
「何いってるの。やっと帰れるようになったのに。」
「ママ。私まだ学校が途中だから今年はこっちでいたい。」
「妙、コースの変更が出来るかどうか聞いてみなさい。
だめだったら退学すればいいんだ。
学校って言ったって専門学校みたいなもんなんだから。」
「パパ。そんないい加減な気持ちで勉強してきていないわ。
学歴が中卒になるってわかってるから、この二年間は特に一生懸命語学の勉強した。
英語もマンダリンも話せるようになったし。将来、これで外国の仕事をしたいの。
日本で生活するつもりはないよ。」
「そんな大切なことは日本に帰って高校を卒業してからゆっくり考えれば良いじゃないか。
二年も遅れてしまっているんだから。」
「高校に行けなかったのは妙ばかりのせいじゃない。」
「だから、先に日本に帰れって言っただろ。」
「妙ちゃん。ごめんなさい。ママがもっとしっかりしていれば」
「ママの事を責めてない。ただ、今更日本の高校に行っても二年間は取り戻せない。
それならこっちの学校を最後まできちんと卒業する方が自分の為になるって。」
父親は腕組みして黙っている。母親は今にも泣き出しそうだ。
しばらくして父が言った。
「そうだな。今まで妙に本当に無理をさせた。
妙の人生だ。後悔しないように頑張らないといかんな。」
「あなた。何を言ってるの。こんな所に妙をおいて帰るつもりですか。」
「仕方ないじゃないか。妙の気持ちを大切にしてやれ。
それに妙の言うことにも一理ある。
今更、日本の高校に入っても遅れた二年は取り返せない。」
「私は反対です。こんな町に妙一人おいて帰れないわ。」
「でも俺も仕事があるし、おまえだってここにいる限りその病気は良くならんだろう。
妙も色々考えて言ってるんだよな。」
妙は父親を見てうなずいた。
「そうか。住むところを探さんとな。ここにはもう住めんからな。
おまえはこの町が好きなのか?」
「大好きだよ。」
三月も終わり、両親は日本に帰っていった。
母は最後まで反対していたが、父は学費と最低限度の生活費を送ると言って、
母を引きずるようにして帰って行った。
「パパ、ママ、ごめんなさい。」
妙は心の中で詫びた。信頼してくれた父と、心配してくれた母に。
妙が帰国しない一番の理由は、勉強する為ではなかった。
去年の十月、妙は思いついてクス島へ行った。
クス島へは本島からフェリーで二十分ほどだ。
その頃、妙は途方に暮れていた。
母の体調は日によって波があったが段々悪くなって行った。
調子の悪い日はほとんどベットから起き上がれない。
病院に行っても理由がわからず、精神科を紹介された。
しかし、母は精神科に行くことを拒んだ。父の帰りは遅く、
妙にも疲れているのがわかる。これ以上心配をかけることは出来ない。
でも妙には相談する相手もなかった。
「何か見えますか?」
船の上でぼんやりして、波を見ていたようだ。
デッキに男が立っている。
「いえ。別に。」
「すみません。じっと海を見ているので、声をかけてしまいました。」
男は薄いブルーのタンガリーシャツにベージュのコットンパンツをはいている。
平凡な格好だが、姿勢が良い。
「女の子が一人でクス島巡礼に来るなんて。何でかな?って。」
きつい妙の視線を受けて、男は眩しそうに目を細めてもごもご言った。
妙は少し警戒を解いて言った。
「母が・・・病気なんです。父も仕事が忙しくて。」
「そう・まあ、この時期クス島に行くのは、みんな同じですね。」
男はつぶやくみたいに言った。
「どなたかご病気なんですか?」
「ええ、妻が。」
妙にはそれ以上何も話す事がなかった。男も黙って遠くの景色を見ている。
振り返るとマリーナベイの高層ビルが林立して建っている。
船の揺れにあわせて、右に左に大きく揺れ続けた。
クス島はとても小さな島で、道教のお寺とイスラム寺院以外何もない。
十月の一ヶ月間だけ、たくさんのシンガポーリアンがクス島巡礼に来る。
フェリーが次々と桟橋についた。シンガポールは人間も宗教もごちゃ混ぜだ。
人混みに押されて、妙が転びそうになったので、男が妙の手を取って支えた。
だが、あふれかえる人に次から次へ押されて、妙は男の腕の中に抱えられるような
形になって小高い丘にあるマレーの聖廟についた。
入り口の側に人が立っていて黄色いリボンを手首に巻いてくれる。
ふわふわと雲の上を歩いているみたいだ。
気がつくと、帰りのフェリーの中で寝ていた。
側で心配そうに男が見ている。
「大丈夫ですか。」
「すみません。」
声がかすれて、やたらのどが渇く。
口にペットボトルを押しつけられるがボタボタこぼれて飲めない。
また、何もかもが、遠ざかって行く。吸えない。
男が水を口に含んで妙に飲ませてくれた。
後で聞くと、妙はロンの腕の中で気絶したそうだ。
このところずっと眠れなかったせいだ。船と人混みに酔った。
ロンは慌てて妙を抱きかかえて帰りのフェリーに乗ったと言う。
しかし、フェリーの中で妙は意識のないまま吐き続けたらしい。最悪の出会いだ。
その後、妙はロンと時々会うようになった。
ロンの妻が精神科の医者だったので、母の事を色々聞くためだ。
しかしロンが何をしているのか、妙には今ひとつ判らなかった。
英国の大学に行っているが今は休暇中だと言った。
よくキリニーコピティアムに来る。
妙はいつもロンのいそうな時を見計らって、カフェで待ち伏せた。
ここの名物はカヤトーストだ。
炭火焼きのカリカリのトーストにカヤジャムとバターがはさんであって結構甘い。
ロンが食べているのを見たことはないので奥さんの為に買いに来ているようだ。
「君はいつもアイスカチャンばかりだね。もっとお肉やお魚を食べなきゃ。」
妙の拒食に初めて気付いたのはロンだ。
その頃妙にも自覚がなかった。食欲がないだけだ。
家族一緒に食事をすることも無くなっていたので、
両親も妙が食べていない事に気づかなかった。
妙はいつもかき氷を注文する。
マレー語で豆のことをカチャンと言う。
アイスカチャンには小豆やコーンや色とりどりのゼリーが入っていている。
その上に赤・黄・茶のシロップがかかった南国風のカラフルな金時氷だ。
カチャンやココナッツミルクをかけたチェンドールを食事の代わりにしていた。
でも一口二口食べて、氷が溶け出すとかき混ぜるばかりだった。
妙は、ロンが自分の事をちゃんと見ている事に驚いた。
両親はシンガポールの生活に必死で、最近妙のことを見ていない。
学校では元気にしていたけど、家の中で妙は孤独だった。
ロンには奥さんがいたが、いつの間にか好きになってしまった。
まだまだ続きます。
感想がききたいっす。