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薄氷を踏む

作者: 柚木

 ――あの日のことを、よく覚えている。


 空は高く、晴れやかな日だった。とてもよく、覚えている。陽を反射して私の瞳に焼き付いた白刃の輝きも、その先にある浅黒い手も、恐ろしい勢いで地面に広がっていく赤の色も。

 何もかもは鮮やかであり、私はあの日に捕らわれて時を止めてしまったのではないかと思うほどだ。けれど現実の月日は瞬く間に流れた。滑る赤で染まっていたあの小さな手は、今では細く伸び、白粉で美しく覆われている。





 京都は島原。名だたる遊郭が建ち並ぶその一角、その館の名を廉苑という。私は島原はおろか、遥か吉原にまで名を知られる当代随一の遊女である。昔は茶汲み女として身体を売る身分であったが、今はどうだ。禿に爪を切らせ、他の遊女に茶菓子を取りに走らせる。私は、廉苑の最上階の部屋を宛がわれる遊女となった。


 この部屋は眺めが最高であった。奥に構える廉苑からでも大門の様子がよく見えた。この部屋に居座るため、今の地位に登り詰めたと言っても偽りはない。ここにいれば、いつか私の待ち人が来た時必ず分かる。そう確信してこの窓辺に座り、もう幾度と落ちる夕日を眺めただろう。


 私はある男を待っていた。何人もの男に身体を許そうとも、何度となく閨で睦言を交わそうとも、私の心はたった一人の男だけを想い続けてきた。その途方にもなく長く狂おしい日々が、何故、今日で終わると感じているのかと問われれば、きっと運命なのだと私は答えるだろう。

 ――来る。男は、必ず、この新月の夜に廉苑に足を入れる。そして一番人気の私を指す。

 私はじっと目を凝らした。男を見たのは昔のことだが、分からないわけがない。たとえあちらが私を分からなくとも、私が間違えるはずがなかった。

 しかし私はこの廉苑にて最高の遊女であり、まだ日が沈みきらぬうちからお呼びがかかった。ゆっくりと襖を閉め、香を焚き、しどけなく脇息にもたれ掛かり客を待つ。





 甘い煙が視界を満たす中、最後の客になる男に寄り添っている時だった。ひどく恐縮した様子の禿が、戸の向こうから誰何の声を掛けた。聞けば客にお帰り願いたい、というものだった。男は眉をひそめた。それはそうだろう。すでに大門は閉まり、大引けの刻も間近だ。客にしてみれば不愉快極まりないことだろう。金だけ払い、まだ十二分に楽しまぬうちから外に放り出すなど、たとえ廉苑であっても横暴が過ぎる。しかし男が激昂するよりも前に、禿ではない低く艶やかな声が割って入った。これには私も目を見開いた。――砂藍大夫。廉苑で私と二人、最高級の遊女として名を馳せるその人であった。


 結局、男は大夫に連れられて出ていった。大夫の身が空いているとは思えない。おそらく天神の遊女か、大夫が可愛がっている新造が相手を勤めるのだろう。仕事が無くなって楽と言えば楽だが、大夫に客を盗られたようなものである。自尊心を傷つけられ、やり場のない怒りを私はもて余していた。


 そんな私のところに禿が戻ってきた。さあどう苛めてやろうかと思案していると、慌てた様子で私を鏡台の前に座らせ、紅を塗り直し始めた。着物も新しく用意され、部屋には別の香が焚かれる。そして準備が整うと部屋を出ていった。そこまでいってようやく合点がいく。過去にも数度あった。きっと、身分の高い客が来たのだろう。他は知らないが、ここでは金を高く積んだ者が客なのである。これから来る男は先ほどの男の何倍と払ったに違いなかった。


 部屋の隅までに新しい香が届く頃、件の男が入ってきた。私はいつものように脇息に身を預けて出迎えたが、身を整え直し刹那止まった。言葉にならない情動が身を駆け回り、身の内が震える。……この男だ。浅黒い手、自信と野心に溢れた瞳、腰に差すのは桔梗紋の刀。

 心の昂りを感じさせないようにゆったりと笑い、私は男の手を取った。香の煙が、二つの手を絡めとる。



 酌をするまでもなく男は酔っていた。こちらが聞く前に己の身の上を語り出す。そこに私が合いの手を入れれば、面白いように饒舌になった。

 今日は、予てより耳に入れていた私の噂を確かめるためにわざわざ京まで来たのだと言う。私が冗談めかして大名行列というやつで、と言えば向こうもにやりと笑う。あれは金がかかって真、難儀である、と。平伏する民が減り、皆その道を避けていくからつまらぬ、と。……かつてのように無礼を働く者がいなくてつまらぬ、刀が錆びる、と。

 お侍様に無礼を働くとは、そんな酔狂な者がいるのですかと問うと男は喉の奥で笑った。前に、童を庇った馬鹿な女がいたのだと答えた。


 私は一層深まる笑みを隠すことができなかった。旦那、とその胸にすがり、頤を仰け反らせて仰ぎ見る。幼い私がそうしたように、同じ目線の低さから男の顔を見た。……あった、顎の線に沿うように短く走る刀傷。間違いない、この男、この男が―……


 私は数種の茶が並ぶ中から銘のない茶筒を選び、蓬を濃くした色の葉を取り出した。とてもいい気分にさせてくれる香りがするのだと、香炉の中に混ぜていく。少しばかり色のついた煙が上がった。甘い香りが広がっていく。男は香になど興味がないのか、その香りを楽しむ素振りすら見せず私の腰に腕を回した。引かれるがまま、今一度男の胸に倒れ込む。


 そして、異変はすぐに訪れた。

 男の目が焦点を合わせられなくなっているのを確認し、するりとその腕から身を逃がす。男は私を捕まえようと腕を伸ばすが、全く見当違いな方向に求めている。


 甘い香りに混じる、枯れ草の香り……毒草の一種である。その者の五感を、精神を侵し、ひどいときは幻覚も見えると聞く。処方を正しく行えば感覚を鋭敏にするだけであるから、下手な新造は客を迎えるときにこの草を香に忍ばせるらしい。

 どのみち、ここの女たちには馴染みのある香りだった。最初こそ目眩や頭痛に悩まされるが水揚げのころには免疫ができている。緩やかに毒に慣らされる女たちは、もしかしたら疾うに狂い果ててしまっただけかもしれないが。


 口をだらしなく開け、虚空に手を伸ばす男をそっと押し倒した。ああ本当。私は目を細める。なんて醜い男だろう。時間をかけ、苦痛を最大限に与えながら殺してやりたいとも思ったが、やはり、こうして正解だろう。こんな男に少しでも長く息を吸っていてほしくない。何より私はこの男と違い、いたぶることに悦びなど見い出さない。


 簪を勢いよく抜く。黒々とした髪が波打つように落ちた。その動きに合わせて部屋の煙が少し動いた。

 やや太めの簪には、手を這わせなければ分からない切れ目がある。少し力を入れて切れ目の下を回す。固い音が響き、刀を鞘から抜くように、簪から一回り細い簪が新たに出てきた。馴染みの豪商人に作らせた仕込み簪である。槍のように細く鋭い切っ先には毒が塗り込まれている。何かの虫の毒らしい。これは致死性の猛毒であり、これもまた別の客に用意させた。

 幾夜も披露した舞の動き。なぞらえるように無駄の無い動作で男の胸に簪を振り下ろす。刺さった簪の隙間から、少しだけ血が流れた。


 ―…あの日も、血が流れていた。よく覚えている。今目の前で流れる血よりも鮮やかに、思い出せる。





 私は数えで三つばかりの幼子であった。歩くこと走ることを覚えて、まだ上手くつけない鞠を抱えてはあちこちに駆けていくことが楽しくてしかたなかった。小さな私にとって、足を進めるほどに広がっていく世界は万華鏡よりも輝いて見えた。


 その日も鞠を抱えて、家の裏手で畑仕事をする母から離れて遊んでいた。けれど遠くから何か声が聞こえてくると、母は表道にいる私を抱えて裏の畑に連れてきた。

 ……いいかい、あの声が聞こえているうちは表に出てはいけないよ。

 母はそう言ってまた畑仕事に戻っていった。私は始めこそ大人しくしていたが、いつまで経っても静かにならない表の様子に痺れを切らした。ほんの暇潰しのつもりで鞠の練習を始めた。でも私は本当に下手で、すぐに鞠が手を滑り、てんてんと転がっていってしまった。私はそれを追っていった。その時の私には鞠しか頭になかったのだ。

 やっと鞠を捕まえて顔をあげると、まず大きな馬が目の前にあった。馬は何頭もいて、たくさん飾りをつけて重そうだった。それから刀を腰に差した男の人が大勢、私を見ていた。小さな私にその場に流れる空気の意味など分かるはずもなく、私は鞠を持って突っ立ったまま見返していた。

 男の人の一人が刀を抜いて目の前で振り上げたときも、ああ綺麗だなとしか思わなかった。そんな私の視界を遮る影があった。母が必死の形相で私を背に回し、男に平伏していた。御許しください、まだ何も分からぬ子供なのですとか言葉を並べて頭を地面に擦り付けていた。母の美しい黒髪に砂利がついた。

 状況を理解できなくとも、母が私のせいで許しを請うていることだけは分かった。私は無性に悲しくなった。母に謝ろうと母の前に回り込もうとした瞬間、視界の端で白い光が瞬いた。その正体を確認するよりも先に生暖かいものが頭上から降り注いで私を赤く染めた。

 お母さん……?

 口から零れた呼び掛けに応える声はなく、母が私の方に寄りかかってきた。支えきれず、そのまま母もろとも倒れ込んだ。べちゃりと湿った音を聞いた。母の肩越しに見えたのは抜けるような青空と、鈍い光を放つ抜き身の刀。それを握る浅黒い手、緯錦の紋様、白く浮かんで見える刀傷。私はそれらをぼんやりと瞳に映していた。衣服に水が染み込む感覚が不快だったが、母に抱かれ、とても暖かだった。


 そんな私たちに一瞥もくれず、男たちは興味をなくし避けて通りすぎていった。その行列の最後が通り、暫くすると村の人たちが一斉に駆け寄ってきた。私は母から引き離され、誰かに抱き締められていた。周りの誰もが私を労るように声を掛ける。その言葉は言葉として私に届かず、また見知っているはずのその人たちの顔を一つとして判別できなかった。ただ母がいなくて寂しかった。あの温もりを思い出す。少し、寒いと思った。





 ついさっきまで動いていた指先も、今はぴくりとも動かない。光を反射しなくなった瞳を天井に向け、男だったそれは部屋の真ん中で物言わず横たわっている。


 あの日、一体何があったのか。小さい私がその全てを知ったのは人買いに連れられて東海道を京に向かう途中だった。

 母以外に身寄りのない私は当然のように茶屋の者に引き渡された。そして東海道を旅している最中、尾張の大名行列と行き合ってしまったのだ。茶屋の男は小さく舌打ちをしてから、私の頭を掴んで地面に押しつけた。平伏していては何も見えない。けれど通りすぎる足音と仰々しい雰囲気は、私にあの日のことをまざまざと思い出させた。ああ……私はそうして漸く、幼い己の愚行を思い知った。涙さえ出ることはなかった。


 ただその時から私の胸の底には揺らめく昏い炎が灯った。その炎は男の心の臓が止まる音を聞いた今もなお消えることはなかった。ゆっくりと執拗に私を内側から嘗め続ける。そして私はこの炎がどうすれば尽きるのか知っていた。 部屋の脇に立て掛けられている刀を手に取る。あの日母を斬り捨て、刀身を母の血で染めた刀。私は一度口付けて、静かに首の横に刀を置く。


 「母様」


 ごめんなさい―…沈みゆく意識の中、私はそっと呟いた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 回想の入れ方が上手いと思いました。前半の伏線がそこに生かされていたので良かったです。 [気になる点] 因縁の男を見つけた時の描写が、読まされている感じな印象でした。 [一言] 冒頭で引き込…
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