逸脱
――「お兄さん」視点
「まったく、無茶をする」
腕の中で、ぐったりとした体が温かい。子どもの体温というのは、どうしてこうも高いんだろう。
治癒魔法をかけ、止血はできた。
傷跡も残っていない。
だというのに、心の中には不安が巣食っていた。
もし、この少年がおとりになってくれなかったら、僕はどうなっていた?
死ぬ……まではいかなくとも、大きな負傷はしたはずだ。
いや、違う。
怪我をしたとして、さほど問題にはならない。
ならば、この感情はなにが原因なのか。
「心配、か」
口に出した瞬間、どこかで否定したくなる。
そんな感情を抱くような関係ではないはずだった。
けれど、腕の中のこの体が、もう少し冷たくなっていたら——。
その想像だけで、背筋にひやりとしたものが走った。
「……しょうがない」
呟いたその声は、想像の声よりも震えていた。
手をかざす。魔力が集まり、空気がわずかに震える。
あっという間に、四方を囲うような小さな建物が立ち上がった。
風を防ぐだけの粗末な壁と、雨をしのぐための屋根。それだけの構造。
簡単なものだ。こんなもの、いつだって作れた。
しかし——。
人が安心して眠るための空間を作るのは、嫌だった。
それが、誰かの「ここにいていい」を作り出してしまう気がして。
……まず、僕はどうして彼を村まで送らなかった?
そうすれば痛みを与えることもなく、時間をうばうこともなかったのに。
そして今、初めて意図なく助けようとした。
「中途半端だな」
目を伏せる。少年の寝顔に背を向けて、建物から出る。
ポケットから、小さな球体を取り出す。
フォレストルーン。やつの核だ。
魔物の核は普通、魔物が生きながらえるためだけにある。
だが、突然変異が起こることがある。それによって生まれたのが——あの再生力。
これを取り込めば、同じような力が手に入るかもしれない。
確証はなくとも、それは僕にとって希望だった。
滅多に死ぬことがなくなるうえ、老いなくなる可能性がある。長く生きられる可能性が高まるのだ。
「……先生を救うためだ」
自分に言い訳するように呟いて、自分の腹を深く傷つける。
痛い。痛いが、慣れている。
何度も試しておいてよかった。
指先で傷口をわずかに引き裂く。生温かい感触が、腹の奥へと伝わる。
「ぐっ……」
脈打つように熱を持った核を、めり込ませる。
必死に抵抗する体に、ゆっくりと沈んでいく核。
その瞬間、胃がひっくり返るような感覚が押し寄せた。
「っ、……」
喉の奥が痙攣し、腹の底からこみ上げてくる嘔吐感に思わず地面に手をつく。
何も食べていないはずなのに、胃液のようなものが口の中に広がった。
視界がぶれる。空気が重くなる。頭の奥で鐘のような音が鳴っていた。
体のどこかが、異物を排除しようとして暴れている。
だが核は、もう体の一部になろうとしている。
その瞬間、全身を駆け抜けていた灼熱が、嘘のように消え去った。
ただ、鈍く、深く、重い。痛みではなかった。
なにかが定着した、確かな感覚。
指先に、力が戻ってくる。耳鳴りも、ゆっくりと遠のいていく。
いや、それだけではなく。
疲れをまったく感じない。
眠くもない。
長く休んだときとも、別の感覚……初めて、完全に疲労がなくなったようだ。
腹に手をあて、口角が上がる。
傷は綺麗さっぱり、その跡をなくした。成功だ。僕の考察は、正しかった。
余韻に浸りながら、ふと背後から微かな気配を感じた。
建物の中から、小さく布が擦れる音。
かすれた呼吸が耳に届く。
「ん、……」
声だ。
振り返ると、寝かせていた少年が眉をひそめ、ゆっくりとまぶたを開けていた。
焦点の合わない瞳がこちらを探し、やがて見つけた途端、かすかに緩む。
「……お兄さん……?」
かすれた声は弱々しく、それでも生きている証そのものだった。
安堵の波が、思ったよりも強く胸を打った。
「起きたか。まだ動くな」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
その声音に、少年は少し戸惑ったように瞬きをしてから、口元にうっすら笑みを浮かべた。
「ぼく、ちゃんと……役に立てた?」
一瞬、答えに詰まる。
役に立った、なんて言葉は、子どもに向けて軽々しく使うものではないはずだ。
それでも——。
「ああ。……十分にな」
その言葉を聞くと、少年は小さく息を吐き、またまぶたを閉じながら呟く。
「よかった……」
僕は、ほんの少しだけ目を伏せた。