幼稚
目が覚めると、空気がひんやりしていた。
木のすきまからちょっとだけ差し込む朝の光が、まだ白っぽい。
体を起こすと、すぐにお兄さんが視界に入った。座ったまま、ずっと同じ姿勢で森を見ている。
「……おはよう」
「ああ。起きたか」
声に浮き沈みはないけど、少し安心したようにも聞こえた。
ちゃんと眠れていないはずなのに、疲れた顔は見せない。
それが、なんだかすごく大人に思えて、同時にちょっと不思議に感じる。
「昨日、用事があって森に来たと言ったのは覚えているか」
「うん」
たしか、どのくらいかかるか分からないって言ってたような。いくらかかっても、お兄さんと一緒なら帰れるから気にしてなかったけど。
「……大切な人を守るためなんだ」
「大切な人?」
「僕の先生だ」
先生。その言葉が、ぼくにはうまくつながらなかった。
お兄さんは、強い。みんなと同じくらいには。そんな人が、「先生」と呼ぶ誰か。どんな人なんだろう。
ぼくが知る先生は、読み書きを教えてくれるおじいさんだ。
でも、お兄さんの口から出る「先生」には、もっと深い感情が混じっていた。
きっと、すごく特別な人なんだ。
「……すまない。実は、君には正直に話していないこともある」
お兄さんは少しためらうように口を開いた。なんだか、言いにくそうだった。
「どんな?」
「どのくらいかかるか分からないと言ったが、本当はある程度の見通しはついている。……1ヶ月だ」
「そっか……」
「ある魔物を、探しているんだ。そいつは森の奥にいる。しかし、具体的な場所がわかるわけでもない」
お兄さんの拳が、ぎゅっと握りしめられた。
初めて見る、お兄さんの弱い部分だった。この人にも、守りたい人がいる。
その人のために、すごく悩んでいるんだ。
「僕も手伝うよ」
「……おまえには関係ない」
拒絶の言葉のはずなのに、声は震えていた。隠しきれていない、なにかしらの感情。
それが、ぼくの胸を重くする。
……1ヶ月前。思い返そうとすると、少し前のことのような感覚だ。でも、これから過ごすのはわけが違う。
その意識したこともないような時間を、ぼくはお兄さんと過ごすんだ。しかも、魔物がいる森で。
戦えなくても、せめて知識くらいはあったほうがいいような気がする。
きっと、森を出た後も使えるものだから。
「そっか。じゃあ、せっかくだし魔物のこと教えてよ」
立ち上がると、体のあちこちが少し痛かった。木の板は硬くて、寝心地はやっぱり悪い。
でもお兄さんは何も言わずに歩き出す。僕も慌てて後を追った。
落ち葉を踏んだ瞬間、お兄さんが手を上げた。
「そこ、足元に穴がある。ガロムが潜んでいるかもしれない」
「ガロム?」
「子どもの骨なら噛み砕ける。だから避けろ」
簡潔すぎる説明に、背筋が冷えた。
「ぼくが教えてって言ったけど……詳しいの?」
「よく調べたからな」
生肉を食べようとしてたくせに。結構抜けてるんだな。
ピシッ!
「えっ……?」
乾いた音と同時に、黒い針が僕のすぐ横の木に向かった。そして、針が触れた部分が溶けた。
心臓が一気に跳ね上がる。
まずい、どこからだ。とにかく、避けないと――。
「動くな!」
大きな声が聞こえたかと思うと、腕をぐっと引っ張られた。動こうとしていた先に、針がまっすぐ飛んできた。
灰色の皮膚をした魔物が、木陰から姿を現した。体の表面に無数の針がついている。
「スティングリザード。尻尾を見ろ、次が来るぞ」
お兄さんの声で我に返る。言われた通り尻尾を見ると、体の針を抜き取っていた。
そして、投げる動作が見える。
――ドゴッ!
三本目の針が投げられることは、なかった。
地面が一瞬で盛り上がり、先がとがった石の棒が飛び出す。そのまま、リザードの胴体を貫いた。
「す、すごい……」
口から勝手に言葉がこぼれた。あんなスムーズな動き、ぼくにはとても真似できない。
「やけに冷静だったな」
倒した魔物を燃やしながら、お兄さんは言った。
「あ、うん。だって、助けてくれるって分かってたから!」
「分かっていないようだから言っておくが、知らない魔物がいる可能性はあるし、それに対応するための経験が僕には足りない」
本当に、そうなのかな。
たとえ、ぼくらよりも大きな魔物がいたとしても、お兄さんは消し炭にできちゃう気がする。
「今は、まだ余裕がある。だから庇える。だが、いつ予測していなかった事態が起こるか分からない。そうなれば——遠慮なく、おまえを見捨てる」
お兄さんの目は、確かに鋭かった。
まるでぼくの内側を射抜くような視線。それでも、その奥にちょっとだけ、ゆらぎがあるような気がした。
まず、本当に余裕がなくなったりするのかな。
だって、お兄さんは強い。魔物を一撃で倒せる。僕がいてもいなくても、その強さはまったく変わらない。
だから大丈夫。
でも、心のどこかで。ほんの少しだけ、魔物に狙われたときの感覚がよみがえる。
初めて、お兄さんに助けられたあの瞬間。昨日のことなのに、なんだかすごく遠い。
――動けなかった自分。あのとき、本当ならどうなっていたんだろう。
もし次も同じように足がすくんだら?
もし、お兄さんに余裕がなくなったら?
「……大丈夫だよ」
小さく呟いて、自分に言い聞かせた。
暇だったので更新。もちろん20時にももう1話更新します。