炎の向こう側
お兄さんが、静かにこしを下ろした。
僕の心臓は、まだうるさい。
けど、彼の落ち着いた仕草を見ていると、少しずつ音が遠ざかっていく気がした。
「抵抗があるなら、下に敷け」
木の板を1枚、差し出してくれた。
「えっと……これってどこで?」
「魔法で作った」
「そっか。魔法って、なんでもできるんだね」
ズボンについてしまった土を手で払って、すわる。板は硬いけど、冷たくはなかった。
「使い手の力量によるが、まあ……そう言えるかもしれないな」
「あっ、うん。そうなんだ」
言葉が返ってくるとは思っていなくて、面食らった。
でも、お兄さんの顔を見てたら、なにか変だった。表情は冷たいのに、口だけは笑っていた。
ぼくがお母さんに怒られたとき、よくお父さんがするものに、少し似ていた。
なにか――かくそうとする表情。
しばらくして、お兄さんが腰の短剣を抜いた。手に持った魔物の肉を、ためらいなく切り取る。
まさか、そのまま食べるつもりじゃ——。
「ま、待って!」
声が裏返った。
お兄さんは動きをピタリと止め、真剣な目がこちらを見る。
「……どうしたんだ?」
「生肉は食べちゃだめだよ。寄生虫が……その、毒を持ってることだってあるし」
「毒はない。確認済みだ」
あまりにも即答で、しかも自信たっぷりだった。言葉がつまる。
「絶対、火を通した方が絶対にいいよ。えっと……ほら! そのほうが美味しいし」
「味はどうでもいい。栄養を摂れれば充分だ」
——どんな生活をしてきたんだろう、この人。
そこだと、ふつうのことなのかもしれない。
だけど。
「だめ!」
思わず、声が強くなった。お兄さんの眉がぴくりと動く。怖い。でも。
「前、生のお肉食べてお腹壊したよ」
お兄さんは、しばらく表情も変えずにだまった。
「……動けなくなるよりかはましか」
やった。ちゃんと聞いてくれた。
「あ、その前に何枚か板出して」
頼むと、何も言わずに空間から板が出てくる。僕はそれを組んだ。お父さんから教えてもらったやり方。
「ここに火をつけるわけか」
「うん」
答えた瞬間、お兄さんの指先に青白い炎がぽっと灯る。見たこともない色なのに、それは景色になじんで見えた。
「す、すご……」
魔物を倒したときの魔法も、こんな風だったのかな。
やっぱりこの人は、ただのすごい人じゃない。本当に別の世界の住人みたいだ。
その火はすぐに赤く変わり、薪をゆっくりと燃やしはじめる。
「串もいるな」
そう言って、今度は太い棒が何本か現れた。切り分けた肉に、手早く刺していく。
「僕が持ってるよ」
「……そうか」
串を持ちながら、火にかける。脂が溶けて、じわじわと音がする。
焚き火の音、肉の香り、そして森の静けさ。冷たい空気の中で、焚き火の熱だけがやさしい。
「うまくいったね」
美味しそうな匂いに、言葉がこぼれた。まだちゃんと火が通っていないから、食べるのはまだだけど。
「ああ」
短い返事だけど、なんだか、ちゃんと認められた気がした。僕は役に立てたんだ。
そのとき——ぐぅ、と間の抜けた音が鳴った。
「……あ」
顔が熱くなる。よりによって、こんなときに。
ちらりとお兄さんを見ると、彼は焚き火を見つめたまま、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「……おまえの腹は正直だな」
小さく、でも確かに苦笑していた。
こんな顔もするんだ。すごい人なのに、ふつうの人みたいに見えて、少しだけ……安心した。
「もう、いいんじゃないか」
「うん、そうだね」
よく焼けているほうを渡してから、手に残ったほうにかぶりついて。
「あつっ!」
思わず声が出てしまった。肉に触れた舌が、少しじんじんする。
お兄さんのほうを見てみると、まだ一度も口にしていない。呆れ顔をされた。
失敗した……。
「ねえ、あのさ」
肉が冷めるまで、話すことにしよう。そのほうが楽しいし、聞きたいことだってたくさんある。
「魔法のこと、教えてほしいんだ。どうやって使うの?」
お兄さんは、焚き火越しに僕をしばらく見た。
「...…なぜ知りたい?」
「さっき助けてもらったとき、すごいと思ったんだ。もし僕も使えるなら、みんなを助けられるかもしれない」
お兄さんは小さく息を吐いた。
「外の世界では、確かに魔法は普通に使われている。だが」
炎がゆらめいて、彼の表情に影を落とす。
「便利なものというのは、人を変える。良くも、悪くも」
なんだか、よくわからない。わざわざ言うくらいだから、大事なことなんだろうけど。
お兄さんのうつむく視線が、焚き火によって伸びた影をとらえていた。
「君の村の人たちは、きっとそれを知っているんだろう」
じゃあなんで、ぼくには教えていないんだろう。やっぱり、子供だから? ちょっと、さびしい。
「……なにか、あったのかな」
「おそらく、な。あるいは——」
お兄さんはそれ以上言わず、無言で肉をかじった。
炎のゆらめきが彼の横顔に、ちょっとだけ影を作る。
手で少し触れてから、ぼくも肉をかじる。硬くて、手でおさえないとちぎれなかった。
食べ終わった串を片付けると、お兄さんが立ち上がって、片手を軽く上げる。
「……消すか」
「え? どうやって」
お兄さんが、焚き火をなにかで覆った。薄くて、すべすべしてる。
「これって……石?」
「ああ」
「建物なんかも、作れたりするのかな」
思ったことが、そのまま口から出てしまった。
「作れるだろうな。ただ——」
お兄さんは石の覆いを少し浮かせて焚き火を覗き見たあと、外した。
火は完全に消え、焼けこげた板だけが残っている。
「普通は一人じゃ無理だ。魔力を大量に使う」
「じゃあ、お兄さんなら?」
「できなくはない。だが、やりたくもないな」
なんでだろう。危険が減るはずなのに。
今だって、地べたに寝ているより建物をつくってその中にいるほうが絶対いい。
「魔物が来たらどうするの?」
「僕が番をしてする。それで充分だ……もう寝ろ」
不機嫌そうな声だった。でも、そう言いながらも、お兄さんはぼくに背中を向けるように座り直した。
まるで、僕を風から守るみたいに。
ふと見ると、お兄さんの手に力が入っている。爪が、腕に食い込むほど。
眠らないようにしているのだと、すぐに分かった。
冷たい言葉の奥にあるもの。まだ名前は分からないけど。
——きっと、この人は優しい。
言葉にするのは、まだはずかしかった。
今日は20時にも更新します。
また、おまけとして活動報告にこだわりとか、書き手としての感想を書いていこうと思っています。
もし、興味をもってくださった方がいればご覧いただきたいです。