異邦人
泥が冷たい。
ひんやりとした感触が、顔を伝っていく。
――動けない。
心の中では「逃げろ」と叫んでいるのに、足が震えて言うことを聞かない。
息が浅い。肩が勝手に上下して、視界がぼんやりしてくる。
赤い目。
血みたいに濃くて、どこまでも冷たい光が、じりじりと近づいてくる。その奥には、敵意だけが燃えていた。
間違いなく、魔物だ。
湿った黒い爪が、こちらを狙ってゆっくり振りかぶられる。
ゴォォオ……
低いうなり声が森を震わせた。心臓に、ありもしない、にせものの痛みが走る。
ああ、もうダメだ。
――死ぬ。
こんなにも、あっけなく。
両親の顔が、なぜか浮かんだ。
怒られてばかりだった。でも、もっと一緒にいたかったのに。
褒められなくてもよかったから……!
ドォンッ!!
少し、耳が痛くなるほど大きな音。
雷に似ているけど、空は晴れている。
考えているうちに周囲は茶色の煙に包まれ、視界が消えた。
……なに? なにが起きたの?
生きてる……? 僕、まだ、ちゃんと。
音もなく、ひとりの人影が現れた。
煙が晴れると、姿がくっきりと浮かび上がった。
だれ?
村の大人じゃない。
「兵士さん」でもない。
けど、特別な誰か。言葉にできない、存在感があった。
まっすぐな視線がぶつかってきて、思わず息をのんだ。
怖くて、でも、目が離せなかった。
とりあえずお礼を言わなきゃ。……座ったままだと、失礼だな。
地面に手をついて体を支えながら、震える足に力を入れて立ち上がった。ふしぎと、簡単にできた。
その人の身長は僕より少し高いくらいだった。
「……あ、ありがとう」
彼が歩き始めたから、ぼくも後に続いた。ついていけば、きっと家に帰れる。
ほっとしながら歩いていると、足元になにかが触れた。
「え?」
その「なにか」を見て、息が止まった。
ひび割れた黒い塊だ。ふぞろいな肉片が、いくつも転がっていた。
血の匂いが、ようやく鼻に届いた。
「これ……魔物?」
ぐちゃぐちゃだった。
生き物のかたちなんて、とっくにしていなかった。
「魔法の出力を間違えた」
振り返らずに、しれっとそう言う。
「魔法……?」
思わず聞き返していた。
魔法は……ダメなんだ。
絶対に触れちゃいけないものだって、村中の誰もが口をそろえて言っていた。
それを――この人は、平然と。
「あの……」
おそるおそる、声をかける。聞かずにはいられなかった。
「魔法って、使っちゃいけないんじゃ……」
静かに立ち止まる彼。くるりと体の向きを変えて、ぼくを見下ろす。
その目は温かかった。
「ああ、そう教わったのか」
少し、考えるような間を置いて。
「おまえのところが特殊なだけだ」
そっか。
村の外には、村の外の常識がある。
なのに、ぼくは自分の知っていることだけが正しいと思っていたんだ。
「……ごめんなさい。勘違いしちゃってた」
「気にするな」
言葉に怒っている感じはなくて、胸がすこし軽くなった。
「お兄さんは、なんでこんなところに?」
「...…用事がある」
短い答え。うそには聞こえなかった。
「迷子だったわけじゃ……ないんだ」
返事はない。
ちょっと残念だった。すぐ村に帰れると思っていたから。
「しばらくは、この森にいることになる」
「どのくらい?」
「さあな」
あやふやな答えだった。でも、それ以上聞くのは悪い気がした。
「だから、おまえは一人で森を出た方がいい」
「――無理だよ!」
叫んだ。
だって、さっきまで死にかけていたんだ。今度ひとりになったら、本当に――。
「……ついてく」
お兄さんはなにも言わなかった。否定されているわけじゃ、なかった。
森がだんだんと暗くなる。木がたくさん生えていて光がほとんど届かないんだと、聞いたことがある。
「今日はここで休もう。夜に動くのは危険だからな」
そう言ったちょい供御、お兄さんは突然、走り出した。
「えっ!? どこいくの?」
「とにかく生きていろ。死んでいなければ、魔法でなんとかする」
言葉を置いて、やみの中へ消えた。
……勝手だ。
ぼくが勝手についてきてるだけではあるけど、それに文句を言わないなら少しぐらい面倒を見てくれたっていいじゃないか。
でも、ここからは離れられない。また迷子になるのもいやだ。
いのるように、両手を組んだ。
どうか、魔物が来ませんように。
数分後。
彼は戻ってきた。何事もなかったかのように。
「ひどいよ……! なんで置いてくのさ!」
怒りも、不安も、全部こみあげて声が震えた。
「魔物が来てたら、死んでたよ!」
お兄さんは、持っていた小さな魔物の死骸を置いて、静かに答えた。
「その方がよかったと思うぞ」
「え……?」
「1人でいてもらう方がよかった。そう言いたかっただけだ」
……ああ。
また、勝手に誤解しちゃったんだ。
「魔物は大きな魔力に反応する。それを利用して、できるだけ速く狩りをするが……」
言葉に冷たさはない。でも、重かった。
「そばにいれば、おまえにも魔物が寄ってきたかもしれない。……結果、ミンチにされていただろうな」
想像してしまった。
時分の身体が、ぐちゃぐちゃに潰れる音を。
肉が、骨が、目玉が、バラバラに飛び散る映像を。
「……」
喉の奥がぎゅっとつまって、なにも言えなかった。
でも――。
お兄さんは、僕を守った。助けてくれた。
その事実だけは、まっすぐに胸にある。
だから、信じよう。もう、疑わない。