永遠を決める天秤
人々が悠人の潰れた体の周りに集まった。助けようとする者もいたが──無駄だった。彼はもう息をしていなかった。
衝撃はあまりにも強烈だった。骨は砕け、体はぐちゃぐちゃに壊れてしまっていた。
それが現実だった。もし、たったひとつの選択が違っていたら。もし、あの強盗を止めていたら──まだ生きていたかもしれない。
──三分前──
冷たい風が吹く東京・品川の街を、背が高く痩せた男が足早に歩いていた。
中原悠人。
体にぴったり合ったスーツを着て、胸の右側には「中原悠人」と書かれた名札がついている。
左手にはブリーフケースを持ち、右手には自動販売機で買ったばかりの缶コーヒー。
缶からはほんのり温かさが伝わり、初冬の冷たい空気で冷えた指先を少し和らげていた。
しかし、まだ一口も飲んでいなかった。熱すぎて口を火傷しそうで怖かったのだ。
悠人が歩いていると、曇った空の下、段ボールに「何でも助かります」と書いた看板を持つホームレスの男を見かけた。
胸の奥がほんの少しだけ痛んだ気がした──それでも、ポケットの中に手を伸ばすことはなかった。
コーヒーを買った時の小銭は、まだチャリンと鳴っている。
少し先で、女性が強盗に襲われているのが目に入った。
男が女性のバッグを奪い、逃げていた。
悠人は止められたかもしれない。叫ぶだけでもあの男を追い払えたかもしれない。
だが、悠人は止まらず、目を逸らして歩き続けた。
数歩進んだところで、そろそろコーヒーも冷めただろうと思い、缶を唇へと運んだ──
──キーッ──
タイヤが激しくきしむ音。
そして──衝撃。
何が起きたのか理解する間もなく、悠人の体は宙を舞い──
──アスファルトに叩きつけられた。
車は、強盗が逃げるために飛び出した道路の中央を避けようとハンドルを切った。
その車の進路に悠人がいたのだ。
人々が駆け寄り、叫び、助けようとした。
しかし、それは遅すぎた。
悠人の体は完全に潰れてしまっていた。
その時、全てがはっきりと理解できた。
──もし、あの時あの強盗を止めていたら。
──もし、ほんの少しでも勇気を見せていたら。
きっと、こんなことにはならなかった。
だが、その時──
(……え?)
思考があった。
死んでいるはずなのに、意識があった。
ここはあの世か?それとも、まだ生きているのか?
ゆっくりと視界が戻り、目が開いた。
目に映った最初のものは──
「おまえは死んでいない。少なくとも、もう死んではいない。」
声がした。
そして──真っ黒な鳥が見えた。
カラスだった。
じっと悠人を見つめている。
「え……? 話した?」
悠人は驚き、震える指でカラスを指差した。
「はい。私は話すカラスです。」
「……どうして?」
「ここはあの世だ。ここでは何だってあり得る。」
「……あの世? じゃあ、ここは天国?」
周囲を見回す。
色のない砂漠のようだった。灰色の砂、白い空、黒い雲。
生き物の気配はどこにもなく、ただ静寂があった。
「ここは天国じゃない。でも地獄でもない」
カラスは言った。
「ここは『狭間の地』。天国と地獄の間の世界だ。」
「狭間の地……?」
悠人はゆっくりと立ち上がった。
「君のような人間が行き着く場所だ。」
「僕のような?」
「そう。何もしなかった人間たち。」
カラスは続けた。
「人生で、善も悪もしてこなかった。ただ存在していただけだ。」
「魂を計る時、秤を使う。善行は天国に傾き、悪行は地獄に傾く。」
「だが、君の秤は、空っぽだ。」
悠人は言葉を失った。
「だから君は狭間の地に来たのだ。」
カラスの赤く光る目が、まるで悠人の魂を見透かすかのように光った。
「ここで、君は救われるに値する者か証明しなければならない。」
「どうやって?」
「誰も知らない」とカラスは静かに言った。「だが心配するな。ここにいる間は、私が君を導こう。」
悠人は灰色の大地に立ち尽くし、震える手で頬を叩いた。
夢かもしれない、昏睡状態かもしれないと願った。
しかし痛みは確かにあった。
「……本当に現実なんだな。」