怪しき薬酒と宮廷遊戯の幕開け1
夕方になるのが、最近やけに早い。まるで闇が地面を這うように近づいてくる気がして、少しばかり背筋がぞわりとする。もっとも、そんな不穏な感じは今に始まったことじゃない。王宮の廊下を歩くたびに、どこかから聞こえてくる囁き――“薬酒”という妙な言葉が、私の耳にこびりついて離れないのだ。
「セシリア様、王太子殿下の容態はどうでしょう?」
メインホールから書類抱えてやってきたのは、宰相アレクシス。その端正な顔を歪めることなく、さらりと私へ問いかける様子は、例のごとく冷徹というかクールというか……。バタバタ忙しそうに見えるのに、本人だけは不思議と落ち着いているからどうにも腹立たしい。
私は肩をすくめて答える。
「ええ、エドワード様は今のところ安定してます。とはいえ、あのかたほんと無茶しすぎですからね。好きなチェス観戦だって、誰かが横にいないとまた倒れそうで……」
「君以外に面倒を見られる人材がいるなら、苦労するまい。とりあえず、薬酒の件だが……」
また薬酒か。ここ数日、どこへ行ってもその話ばかり。庶民の間で爆発的に流行しているというけれど、“健康に良い”“身体が軽くなる”なんて触れ込みを聞くと胡散臭さが先に立つ。実際、身体を壊している人もいると噂されているし、一部じゃ「毒じゃないのか」なんて囁かれているらしい。
わずかながら胸騒ぎを覚えている私のもとへ、さらにヴィクトールがひょっこり現れた。「セシリア様、薬酒に関する古い文書を偶然見つけました。妙に印章が隠されていたのが気にかかるのですが……」と、紙束の端をぱたぱためくる。その平然とした態度ゆえに、よけい嫌な予感が増幅するのは私だけだろうか。
ともあれ、王宮内でも“薬酒を検証すべし”という動きが加速しているのは確か。そこに追い打ちをかけるように、王太子エドワード様ご自身も「話だけでも聞いてみたい」と興味津々なご様子なのだ。あの優しい人だからこそ、流行に惑わされて誰かが危険に陥っていないか知りたいのだろう。
そんな状況を見透かしたように、王の側妃イザベルは不気味な微笑みを浮かべながら周囲に仕掛けを巡らせている――らしい。私とあまり絡む機会はないけれど、“仲良くなりましょう”という甘い声をかけては、誰がどこで何をしているかを調べ上げるという噂はよく耳にする。なまじ美貌と知性を兼ね備えているからタチが悪い。おまけに侍女マリアンヌの情報操作もあるのだろう。イザベルがどこまで薬酒に手を伸ばすのか、想像するだけで胃が痛くなる。
「セシリア。そっちの胃袋を抱え込む前に、さっさと調査しに行かないか?」
アレクシスが書類を放り投げるように机へ置き、仕事を後回しにしようとしているのを見て、「ほんとに宰相か?」と内心ツッコミを入れたくなる。けれど、大量の案件を次々捌いてきた彼だからこその余裕なのかもしれない。私には絶対に真似できそうにない。……というか、そもそも真似なんてしたくもない。
そこへひょいと顔を出したカトリーヌ・ラヴァレー。妹が偽の薬酒販売業者に騙された話を私に打ち明けてきた人物だ。彼女は少し涙目になりながら、それでも必死で声を上げる。
「実は、あれから妹を騙したやつらの影を掴んだんです。商会の記録と齟齬があるらしくて。セシリア様、手を貸してください!」
なんでも、裏で“イザベル派”の資金が流れているらしいとの噂にたどり着いたとか。これが本当なら、そりゃ事態は放置できない。毒判定以前に、不正取引や宮廷の権力闘争に直結しそうだ。カトリーヌの必死さがひしひし伝わってくるからこそ、私も黙ってはいられない。
「わかった。まずは、その商会の領収書とか証拠類をきちんと整理してみましょう。場合によってはアレクシスにも動いてもら……」
「“場合によっては”じゃなく、動いてもらうしかないだろ?」
横から唐突に口を挟んだのは、老人官と呼ばれる白髪の職員。この人、瓢箪から駒が飛び出すような観察眼で、先日も小さな矛盾を指摘しては犯人を追いつめてみせた。どうやら私たちだけでなく、あちこちから証言を集めていたらしい。頼りない見た目に反して凄腕なのだ。そんな彼が、微妙に固い表情で続ける。
「商会の担当者が妙に急いで領収書を取り下げようとしている、と報告があった。誰かが書類を消そうと必死みたいだな。早く動かないと消えちまうぞ」
……ええい、まったくもって休む暇もない。チェス大会や虫の駆除だとか、すでに問題は山積みだというのに。それでも放置していたら、気づいたときには王宮がまるごと毒に染まってました、なんてシャレにならない。どう考えてもひと事ではすまされないし、私に言わせれば尻拭いがさらに増えるのだけは勘弁してほしい。
アレクシスが書類の山を睨みつける横で、カトリーヌは「お願いします」と強く頭を下げている。私だってやるからにはトコトンやる主義だ。黙って崩れ落ちるよりは、走り回って事態を好転させたほうが性に合ってる。……と同時に、昔の薬剤師の頃を少し思い出してしまう。あのときも、妙なサプリや健康商法には警戒して何度かトラブルを回避したっけ。
「じゃあ決まりね。とんでもない黒幕が出てきても、痛快なざまぁ展開にしてやるわよ」
その言葉にアレクシスが吹き出すように笑った。「君にできないことなんて、まだ見たことがないからな」というから、またしても私はツッコミを飲み込むしかない。私は別に何でもできるわけじゃないのに。
そうして私たちは、騒々しい夕闇の宮廷を後にし、調査のために街へ向かう算段を立て始める。チェス大会だろうが陰謀だろうが、もう巻き込まれたからには後には引けない。読者が見たら絶句しそうなほど厄介な事件が続々発生しているけど、逆に考えればスリル満点だ。ジェットコースターすら生ぬるい勢いで、この国の命運をかけた大博打が始まりそうな予感。
私は胸に“薬師”としてのプライドを抱き、人々を救うために動くしかない。毒や嘘がうごめく王宮を、私がどこまで掻き回せるか――。日暮れの空がにわかに濃くなるたび、私の鼓動も嫌でも高鳴っていくのだった。




