仮死の伯爵令嬢と王宮チェス狂騒曲5
チェス大会の決勝が間近に迫るというのに、私の目の前には山盛りの文書と散らばる薬の資料。しかも、アレクシスのやつ、「優勝者を報告役にして農地被害をまとめさせる」とかいう布告をひそかに仕込んだらしい。気づいたときには「はあ!? 誰がそんなトラップに引っかかるのよ」と叫んだけど、宰相閣下いわく「チェス熱を利用しなきゃ人が動かない」らしい。たしかに最近、チェスの話題ひとつでみんな目を爛々と輝かせてるし、紙切れ一枚押すのですら仏頂面してた連中が「優勝して華々しくデビューするんだ」とか鼻息荒く照準を合わせてる。そんな熱気だらけの宮廷で、私は畑の卵退治に奔走中。まったく、盤上の王より虫の卵を取ってくれと言いたいわ。
一方、文書管理官のヴィクトールは頼もしくも真顔で書類の山をさばき始めている。「セシリア様、ここに害虫対策の一次方針を追記しました。驚くほど積み残しがありましたので、下書き程度ですが」と。いや、下書きでもなんでもいいからありがたい。じわりと進行しつつある“虫の陥落作戦”とでも呼ぶべき計画を、なんとか形にしなくちゃならない。そうこうしている間も、チェスの盤面じゃ派手に王将が危機に追い込まれたり、華麗に回避されたりしてるけれど、こちらは毒虫との死闘。命と日々の糧が掛かってるぶんだけ深刻度合いが桁違いってことを、だれか説明してやってほしい。
そんな慌ただしさの中、私は王太子エドワード様の看病も続けている。おかげさまで顔色は安定してきたけど、「疲れたら休むんだよ」といつも私の方が気遣われる始末。ありがたいけど、心労でクマが増えそうだ。さらに麦束から発見された虫卵をもとに薬草調合を試してみたものの、即効で全滅させる魔法の薬なんてそうそう作れるはずもなく、結局は広範囲への駆除指令が必要。時間だけがどんどん過ぎていく感じがゾワゾワしてくる。
追い打ちをかけるように、マリアンヌがイザベルに「伯爵令嬢クラリッサは生きている」と報告したという噂が流れてきた。隣国リウダとの交渉を強行して、王宮内でさらなる影響力を得ようとしてるって話だけど、そんなにうまく事が運ぶかしら。チェス大会への熱狂が、いい意味でも悪い意味でも集中力を乱してるから沈黙を守りたい派閥も少なくない。変な話、こちらとしては一時的に誰もが自分の駒ばかり見てくれてる方が、陰謀を察知しやすくてありがたいわ。
そして肝心のイザベル本人は、いつもどおり憂いを帯びた顔で「伯爵家とリウダの交渉カードは私の手元で扱わなくっちゃね」とかほくそ笑んでいる模様。高価な香水を振りまきながら動き回っているあたり、やはり只者じゃない。このままいくと貴族派閥はさらにぐちゃぐちゃになりそうだし、私から見れば厄介事が倍増するまであと数手ってところだ。
そんな中でも、アレクシスは宰相の本領を発揮しつつある。毒虫の報告をまとめさせながらチェス大会を黙認し、貴族会議をスムーズに開けるよう根回しを始めている。いくつもの書類に印を書きつつ「まったく忙しすぎる……」と頭を抱えていたので、私が「偉い人は大変ね」と肩をすくめてみせたら、「君も十分偉くなりつつあると思うが?」と返してきた。冗談じゃない、私はこんなめんどくさい偉さなんて一ミリも望んでないのに。
で、夜も遅くなってやっと一段落……と思いきや、また新しい報告書が投げ込まれた。暗い提灯の下、ページをめくってみると「すでに被害地域が東の集落まで拡大した可能性あり」と。一瞬、心臓が凍った気がした。これ、本気で広域対策しないと今度こそ詰むぞ。チェス盤の詰みなら笑い話でもできるかもしれないけど、麦畑がすっからかんになる結末だけは絶対に避けないといけない。
閉じかけた書類からひらりと虫卵の欠片が落ちる。その不気味な破片を見て、背筋にイヤな寒気が走る。だけど私も逃げ出すわけにはいかない。どんな策を打とうと爪痕を残すしか術がないのだから、いっそ勝ち筋を探してしがみつくしかないのだ。
――今にして思えば、嵐は一旦ここで収まろうとしているのかもしれない。だけどその奥には、さらに大きな混乱の“火種”が待ち構えている気配がする。隣国リウダの動き、イザベルの野望、そしてチェス大会などが複雑に絡み合い、あしたには新たな波乱が勃発する予兆は十分。私たちが懸命に防ぐ虫の脅威も、まだ序章ですらないのかもしれない。
そう思うと、むしろ一滴のアドレナリンが沸いてくる。どうせ見知らぬ道なら、最後まで突き進んでやろうじゃない。チェスも毒も陰謀も、まるごと飲み込む勢いで。次に来る波がどれだけ荒くたって、私のやることは変わらない。皆が平気な顔で盛り上がってるうちに、こっそりと戦局をひっくり返す──それこそが薬師セシリアの腕の見せどころだと思って。
夜更け、かすかな虫の鳴き声を聞きながら部屋のランプを消す。埃まみれの書類を胸に抱きしめ、「さて、明日はどんな爆弾が飛び込んでくるのかな」とスマホいじりならぬ書庫巡りの準備を頭の中でシミュレーション。じりじりと心は高鳴る。この国の将来とみんなの笑顔を守るために、私がやれることは全部やるしかない。ジェットコースターのような毎日なら歓迎だ。少しぐらい騒がしい方が、私は嫌いじゃないから。暗闇を見つめながら、そんな決意を噛みしめる夜だった。




