仮死の伯爵令嬢と王宮チェス狂騒曲4
翌朝、広間の片隅には相変わらずチェス盤がずらりと並び、どいつもこいつも「チェック!」だの「プロモーション!」だのと騒がしい。それを横目で眺める私の方は、生きた心地がしない。昨日までの被害報告だけでもヒーヒー言ってたのに、今朝届いた追加の情報は、まさに地獄絵図。あちこちの畑やら麦倉やらで虫の卵がうじゃうじゃ見つかり、早くも実害が出始めたらしい。
「セシリア様、これ以上放っておくと、食糧庫どころか臨時で作っていた薬草畑も一斉崩壊の可能性があるんですよ」
ヴィクトールが開口一番、血の気の引いた顔で報告書を渡してくる。人当たりのいい彼にしては珍しく焦った声。そりゃ私も胃痛で倒れそうだ。
「もう私、解毒剤を作るか鎮痛薬を作るか、頭がパンクしそうですよ。チェスで『詰み』とか言ってる場合じゃないわ」
思わず愚痴が口をつくと、それを聞いていたアレクシスが、テーブルの上の駒を片手でくるくる回しながら呆れたように笑う。
「虫ごときに挟み撃ちされるとはな。まったく、チェス盤の上なら華麗に両取りで勝利してやるんだが」
「じゃあ現実世界でも華麗によろしくお願いしますね?」
嫌味ったらしく言ってはみたけど、アレクシスは「わかってるさ」と肩をすくめるばかり。ま、口だけじゃないと信じたい。
そこへ王太子エドワードを診察していた侍医が小走りでやってきて、「殿下はひとまず快方に向かっていますが、念のため薬の在庫を補充しておきたい」と真剣な顔。内心、ああ良かったと思いつつ、害虫対策に薬を回すか、殿下のために取っておくかでまた苦悩する。ありがたいことにエドワード様は調子を少しずつ取り戻しているけど、今後なにかあれば守りを固めねばって感じだ。
室内に漂う雰囲気が重たくなる中、扇子をはたはたさせニューンと入ってきたのは、王の側妃イザベルと例の侍女マリアンヌ。本人たちは優雅に登場のつもりらしく、小さく嘆息する仕草までわざとらしい。
「おやまあ、皆さま、顔が真っ青。そんなに虫が怖いのかしら?」
イザベルの台詞に、アレクシスが駒遊びをやめて目を細める。そこには牽制の色が見え隠れしていたが、イザベルは意に介さない様子で歩を進めた。
「チェス大会は本日の夕方には決勝が行われるんですのよ。こんな時だからこそ、威厳を示す絶好の場ではなくて?」
「はあ。国中の農地が沈む瀬戸際だってのに、ずいぶん呑気なご意見ですね」
私が嫌味交じりに返事すると、マリアンヌがくすりと笑う。「チェスも国の大事だとおっしゃる方がいるのでしょう?」と、どこか挑発的。
悪いけど、そんな“国の大事”に浮かれすぎて、肝心の土地が虫に食い荒らされてるのは本末転倒以外の何ものでもないのだけれど。
空気が険悪になりそうなタイミングで、エドワード様の部屋から出てきた侍女の一人がばたばたと駆け寄り、「殿下が一度、宰相閣下とセシリア様にお会いしたいと……」と伝言を告げる。それを聞いたイザベルの目が微妙に吊り上がり、マリアンヌは怯んだような笑みを浮かべた。どうやらこんばんはチェス決勝戦を観に来る予定だったエドワード様が、急な面会を望んだらしい。一体何の用だろう?
「じゃあ、私は殿下のところへ先に行ってまいります。宰相閣下も手を止めてください」
「……仕方ないな」
アレクシスが足を引きずるように立ち上がると、そこでまたしても廊下の奥から騒々しい足音が響く。現れたのは文書管理官の部下らしい二人組で、手には農家からの新たな緊急報告。開封してみれば、そこには写真替わりに押し込まれた半壊の麦の穂と卵の欠片がびっしり。それだけで虫唾が走るっていうか、これを見てまだチェスにかまける人、正気ですか。
「セシリア様、このままでは食糧の備蓄がまるごと底をつきかねません。南方の倉庫からも悲鳴が……」
「わかってます、何とかします」
正直、どうにかすると言っても私ができるのは対処療法レベル。でも、ここで畑を放り投げたら、それこそ後々取り返しつかない被害に。……それに、こういうときに私を頼ってくる連中がやたら多い。まるで「セシリアがなんとかしてくれるでしょ」って雰囲気。褒めてくれるのはありがたいけど、その期待が肩にのしかかってきて重いったらない。
「ま、一歩一歩やりましょうか。私、今から殿下と話をしますんで、そちらはヴィクトールと協力して急ぎ対応を」
助手たちに書類を託し、私はアレクシスを引き連れ王太子の部屋へ向かった。
温かい暖炉の灯る一室で、迎えてくれたエドワード様はベッドにもたれかかりながらも、以前より顔色が良くなっている。軽く安堵したのも束の間、どうやら私たちに聞かせたい秘密らしきものがあるようで、侍女たちを下がらせて口を開いた。
「セシリア、アレクシス……農地の現状を聞いた。大変なんだね。実は、この間こっそり聞こえてきた話で、隣国リウダが何か企んでいるという噂を耳にして……」
「企んでる? 具体的には?」
アレクシスが声を潜めて尋ねると、エドワード様はさらなる言葉を探すように珍しく逡巡する。「もしそれが本当なら、今回の害虫発生も何らかの仕掛けがあるかもしれない」というのだ。まるで陰謀論みたいだが、可能性ゼロとは言い切れない。伯爵令嬢クラリッサの偽装死事件といい、向こうが大きなカードを切ってこない理由が妙に気にかかる。
「わかった。侍女や文官たちも巻き込んで情報収集を広げよう。王太子殿下も、どうかご自愛ください」
決意を固めたアレクシスが軽く頭を下げると、エドワード様は少し寂しそうに笑う。「せめてチェスぐらい楽しみたいんだけど、外に出て行けないのはつらいよ。早く治って、今度は僕もこの国のために動きたいんだ」
その言葉に、私の胸には微かな拍動が走った。こんなに弱々しかった殿下でさえ、一歩踏み出そうとしてるんだから、私が投げ出すわけにはいかないよね。
部屋を出た後、アレクシスはすぐに執務室へ戻り、山積みの課題に取りかかった。私も大急ぎで薬倉庫の棚卸しを進める。毒物と薬の境目が紙一重なら、虫と人間の勝負なんてその比じゃないほど危険だ。だけど、間違いなくここが踏ん張りどころ。みんなが手をこまねいてる中で動けば、多少のリスクはあったって成果を狙える。
(私にできることは全部やる──それが今の唯一の方策か)
床に積み上がった文書や薬瓶を眺めながら、もしこれがチェス盤なら、そう簡単に勝利の糸口は見えないだろうと思い知る。だけど、やるしかない。負けじと最終手段を必死に探し回るのも悪くない。ちょうどいいじゃない、困難に挑むのって嫌いじゃないから。
「よし、手分けして行こう。図らずも私たち、今この国で一番有名な“働き者のゴマ粒ペア”かもね」
思わず自嘲気味に呟くと、近くを通りがかった医局スタッフに笑われた。でもその笑いが、なぜだか少しホッとさせてくれる。暗い空気の中にちょびっと光が差し込んでる感じ?
そんな風に自分を奮い立たせていたら、突然どこかで歓声が上がった。外の庭園ではチェス大会が佳境に入った様子だ。まるで何事もないかのように盤上で王将を追い詰めている人々がいる一方、現実世界じゃ虫被害も陰謀も火を噴きそう。思わず苦笑が込み上げる。いつもなら「のん気なやつらめ」って嗤うところだけど、今は逆に救われる部分もある。世の中、常に一色には染まらないってことだ。
とはいえ、私が休む暇は一ミリもなさそうだ。チェス盤に目を輝かせる貴族たちにも、イザベルの糸を引く陰謀にも、これから迎える交渉にも、いずれ全部まとめて勝負に出なきゃならない。いつか華麗にチェックメイトを決めるために、今は一心不乱に動き回るだけ。
そうして夜が更ける頃、私は倉庫から抜け出し、再び広間の一角へ急いだ。どうやら決勝戦は終わりが近いらしい。勝者に託される“報告義務”が、私たちの切り札となるか。それとも予想外の展開で事態がさらにややこしくなるか──胸が高鳴る。ジェットコースターみたいに上下しまくる心臓を手で押さえながら、なんだかんだでちょっと楽しんでしまう自分がいるのが我ながら怖い。
(さあ、行くわよ。虫も陰謀も恋の乱戦も全部ひっくるめて……)
鼓動がうるさいほどに高鳴ったまま、私はチェス大会の会場を目指して一歩一歩駆け出した。気力と胆力、それにごくわずかな余裕を携えて。これから先、何が待ち受けているのかわからないけど、その未知こそが私の大好物なんだから。どうせ最後まで、とことん暴れてみせるまでよ。




